2009年9月24日木曜日

池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社

現代社会を考えるためには、マルクスをやはりそれなりに理解していないと思いながらも、なかなかマルクスの用語に阻まれてわかりませんでした。しかし、さすがにこの本は私のような人間にもある程度の理解を与えてくれました。

以下、この本の半分(16講あるうちの1-9講)の中で、私なりにとらえた要点を■印で、私の愚にもつかないコメントを▲印で記します。< >は私がつけた小見出しです。( )のなかのページ数は、そのまとめをする際に参照した主なページです。

ですが、このまとめは、この本の的確な要約とはとてもいえないものですし、まとめの際に、私なりに言葉を書き換えていますので、内容の正確さも保証できません。ご興味のある方はご自分で必ず実際に本を読んで下さい。



<マルクスを読む前に理解しておくべきこと>

■マルクスあるいは『資本論』のすべてが正しいわけではない。(6ページ)
▲マルクスの書は決して聖典ではなく、一つの重要な分析に過ぎない。
■マルクスは武力革命についても語っているが、彼の時代には自由選挙がなく、民主主義が根付いていなかったことを忘れてはいけない。(38ページ)
▲甘いと言われるかもしれないが、現代において武力革命を語ることなどナンセンスだと私は考える。
■マルクスが予想していた社会主義は、教養の程度が高くなった自覚的な労働者が作り上げるものだったが、実際に生じた社会主義は、一部のエリートが先導(やがて独裁)するものであった。(36ページ)。
▲社会主義の理想が、やがて一党独裁、全体主義につながったという史的事実については、これからもさまざまな考察が必要であろう。
■ソビエト崩壊以降、「資本主義が勝った」と思われているが、それはむしろその当時の社会主義国家が自壊したとみるべきだろう。(19ページ)
■生き残った資本主義は、実は共産主義革命を怖れた資本家が、労働者の権利を手厚く守ったものだった。(15ページ)
▲このような資本主義を「修正資本主義」と言っていいのだろうか?
■しかし「資本主義が勝った。勝ったのは市場原理のおかげだ」と短絡した人たちは「新自由主義」を叫び(20ページ)、人件費を「物件費」として扱う派遣労働も広められた(12ページ)。
▲時代が変わる時などには特に単純なメッセージを大声で叫ぶ者に人びとはしばしば魅了される。一般化していうならば叫ぶ者には注意せよ。穏やかに語る者に耳を傾けよ。
■その結果、マルクスの時代のような資本主義の姿を私たちは知るようになった(22ページ)。
▲つまり新自由主義者は、修正資本主義を、むき出しの資本主義に変容させたと言えるのだろうか。


<「商品」という資本主義社会特有のモノ>

■マルクスは、資本主義社会を理解する鍵は、商品だと考えた。(44ページ)
■商品には「使用価値」と「交換価値」がある(52ページ)
■使用価値とは、そのモノを使用することから生じる。例えば鉛筆なら字を書くこと、食べ物なら消費することである。(52ページ)
■交換価値とは、そのモノが他の商品と交換できることである。(54ページ)
■モノは、使用価値だけ持ち、交換価値をもたないこともありうる。例えば家庭菜園で作った野菜は、市場には出せないが美味しく食べられる。(61ページ)
▲「商品」ではないが、使用価値があるモノを自ら作る、あるいは隣近所で交換することは、少し前の日本では普通だった。しかし現代の日本人はそのような自活能力を急速に失い、もはや商品に依存せざるを得なくなっている。自活能力がある者は少々金が無くても生きてゆけるが、商品に依存している者は金が無ければ即アウトである。プロレタリアート、プレカリアートの悲劇。
▲現代の日本の教育も、子どもをいかに労働市場で高く売れる商品にするかという発想で行なわれているように思われる。さらに教育内容も商品となっている(「これを覚えたら何点?合格できる?)。しかしより重要なのは子どもに自活能力をつけさせ、自らの人生を、商品依存以外の点でも豊かにできるように教育することではないか。


<商品交換の一般化、貨幣、そして人間の労働>

■商品間の交換関係は、「A商品X量=B商品Y量=C商品Z量」などと表現できる。(54ページ)。
■商品の交換関係の背後には共通のものがあるはずだとマルクスは考え、さらに彼はそれを人間の労働だと考えた。(56ページ)
▲このマルクスの想定は妥当なものであろうが、これは記述ではなく宣言と見るべきではなかろうか。あたかも「人権」が、自然状態の記述から生み出された概念ではなく、宣言から創り出された概念であるように。
■人間の労働を量的に考えるなら、それは労働時間(ただしその社会での平均的な労働者が働く時間)であるとマルクスは考えた。(59ページ)
▲この想定は強引なように思えるが、人間には24時間しかなく、その24時間の中で労働だけでなく、食事も休息も娯楽も勉強も、数々のことをしなければならないことを考えると、時間というものを非常に重視したこのマルクスの設定は妥当なもののように思える。
■商品間の交換関係を一括する道具として貨幣が生まれた。(70ページ)
■貨幣の本質は、金(きん)や銀といった実体でなく、象徴としての記号である。(76ページ)


<[商品]→[お金]→[商品]の等価交換から、[お金]→[商品]→[お金△]の資本の論理へ>

■商品を生産し売って、必要な別の商品を買う人の行為は、[商品]→[お金]→[商品]と表現できる。(92ページ)
■やがて、お金をたくさんもって、それで商品を買って売りさばき、さらにお金に換える人がでてきた。このプロセスは、[お金]→[商品]→[お金]である。
▲[商品]→[お金]→[商品]のプロセスは、自分が得意としているモノを作って売って、自分が必要とするモノを得るというプロセスである。であるから、これは等価交換でもよい。生きることがその人の目的だからである。
▲しかし、[お金]→[商品]→[お金]のプロセスは、等価交換では意味がない。この人は、商品と交換した後のお金を、商品と交換する前のお金より増やさなければならない。この人は商品を生きるためには必要としているわけではない。この人が商品を購入するのは、お金を増やすためである。
■お金自体を増やそうとする人を資本家と呼ぶ。(93ページ)
■新しく増えた(お金の)価値を、剰余価値と呼ぶ。(94ページ)
▲剰余価値がつけ加えられたお金をこれからは、[お金△]と表記することにしよう。
■資本家(これは個人の場合も、会社組織の場合もある)は、[お金]→[商品]→[お金△]のプロセスを延々と繰り返して、自らのお金(資本)を増やすことを目的としている。資本家は商品の使用価値には興味をもたない。(95ページ)


<商品化される労働者>
■資本家は、資本増大のための道具としての商品の中に「労働力」という商品を見出す。(104ページ)
▲労働力という商品は、言うまでもなく労働者がもっているものだが、この商品は、剰余価値([お金△])を生み出すように使われなければならない。
▲社会の工業化などの要因で、農村漁村部から追い出された人びとは、自らの労働力を商品として売るしか生きる道はない(プロレタリアート)。
▲しかし労働力は無限にあるものではなく、労働者は、次の日の労働力を回復(あるいは再生産)するための食事や休養などを必要とする。また家族を養うだけの糧も必要である。
▲このように労働者がどうしても必要とするものを、マルクスは「労働力の価値」だとした。これもマルクスの宣言だと私は考える。
▲最低賃金法や労働基準法などは、苦労して何とか事業を経営している経営者には、労働者のエゴと思えるかもしれない。自分がこれだけ苦労して、これだけしか儲けられないのに、それを配分するだけでどこが悪いのだ。この苦境を乗り越えるため労働を強化してどこが悪いのだ、というわけである。だがそこまで苦労しなければならないようなら、他人を雇ってはいけないとする社会のルールは合理的なものだと考える。事業のために人は生きているわけではない。経営者も労働者も。
▲労働力は資本主義社会では商品であるかもしれないが、それは生身の人間から絞り出すものである以上、特別の配慮が必要である。モノの商品は買いたたいてもいいが、労働力という商品は買いたたいてはいけない。
▲しかし、もし資本家が労働者に、労働力の価値の分だけしか働かせなかったら、[お金]→[商品]→[お金△]の剰余価値(△)は出てこないことになる。[お金=労働者が生きるために必要なお金]→[商品=労働者が生きるために必要な分だけ働いた労働力]のプロセスは、[お金]=[商品]の等価交換となってしまう。
■しかし、なぜか資本というのは増えてゆく。労働者がますます貧困になり、資本家が栄える現状をつぶさに見たマルクスにとってこれは疑いようのない事実であった。かくして彼は、なぜ[お金]→[労働力という商品]→[お金△]で、剰余価値が出るかを解明しようとした。(155ページ)


<「剰余労働」と資本の論理>
■マルクスは、資本家は、労働者に「必要労働」(=商品を作り出すために必要な労働)だけでなく、「剰余労働」(=資本家が剰余価値を得るための労働)もさせていると考えた。(136ページ)
▲労働者に剰余労働もさせることを「搾取」と呼ぶが、この日本語のイメージは非常に悪いように思える。ドイツ語のAusbeutung, ausbeuten、あるいは英語のexploitation, exploitにもこのような悪いイメージはあるのだろうか?
▲池上氏も言うように(142ページ)ある程度の「搾取」がなければ社会の「進歩」はない。要は、どのくらいの剰余労働を許すかを社会全体で決めることが重要であろう。その決定は、私たちがどのくらいの「進歩」を求めるかにつながってゆく。社会の「進歩」が必ずしも人びとを幸せにしないと多くの人は既に考えている。
■しかし、資本の増大を目的とする資本家が、社会によって強制されない限り労働者の健康と寿命に配慮することはない。(147ページ)
▲このことを私たちは派遣労働者の扱われ方で最近目にしたところである。
■さて剰余価値だが、これは「絶対的剰余価値」と「相対的剰余価値」に分けて考えることができる。(151ページ)
■絶対的剰余価値とは労働時間のことであり、1日は24時間しかなく、人間は生き物なのだから、これには明らかな限界がある。(151ページ)
■相対的剰余価値とは、労働の効率を高めて労働の生産力を高めることである。(151ページ)
▲機械の導入などにより、相対的剰余価値を高めることは限りなく可能なように思えるが、チャップリンが「モダンタイムス」で描いたように、労働の強化にも自ずと限界はある。
■しかし、社会全体の生産性を高めて、商品全体を安く生産できるようになれば、労働者が自ら必要とするお金(つまりは「労働力の価値」)も低くなる。そうなると資本家は労働者の給料を減らすこと、あるいは「必要労働」に比べて「剰余労働」の割合を大きくすること、ができる。というより資本家の論理とは資本の増大なのだから、労働の生産力を高めて、商品を安くし、そのことによって商品としての労働力も安くすることが資本の内的な衝動であるといえる。(156ページ)
■資本家とて鬼ではないし、現代の経営者は雇われているにすぎないが、儲けることは資本の論理であり、その努力を怠る経営者は「背任罪」にさえ問われかねない。(163ページ)




以上の粗雑なまとめから、さらに単純化を進めて私の強引なまとめを書きます。

●マルクスは資本主義社会というゲームのルール(あるいは論理)を解明した。それは唯一真正なる解明ではないが、非常に説得力ある分析である。(他の興味深い解明としては、例えばマックス・ヴェーバーの宗教社会学的分析(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などもある)。

●資本主義社会のゲームに参加する限り、人は資本の論理にしたがわざるを得ない。それはボクシングに参加する人が殴り、柔道に参加する人が投げるのと同じようなことである。「資本家」と呼ばれる人が必ずしも悪人であるわけではない。しかし人が、たとえ雇われ経営者としてであれ、あるいはその経営者の下で働く労働者としてであれ、「資本家」の論理で動くなら、人は資本家の利益最大化=資本の増加のために動かざるを得ない。ボクシングのリングで相手を殴ろうとしないことはできない。

●ある意味、資本主義社会の勝者は、資本家ではなく資本である。あるいは資本主義社会というシステム自体である。資本主義社会が強化される中で、生きた人間で勝者となる者はいないと言えるかもしれない。

●新自由主義によって野に放たれ、暴走する資本主義には何らかの修正が必要であろう。その修正は、一人一人が、どんな人生を送りたいか、どんな社会を築きたいか、豊かさとは何かをきちんと考えることにより健全なものになるだろう。

●一部の「エリート」が、人びとの人生や社会のあり方を設計するやり方は、過去しばしば暴走した。また、仮にそのエリートの計画が良きものであったとしても、人びとが自分自身でよく考えていないなら、その計画もうまくは遂行されないだろう。宮沢賢治の「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない」という言葉は青臭いとして打ち捨てられるべきではない。

●ひるがえって私の仕事である英語教育のことについても少し述べるなら、現在「英語力」というのはまさに「商品」として扱われている。したがって学習者はしばしば、自分で英語が使えるという「使用価値」だけで満足せず、テストという物差しで自らの英語力という商品の「交換価値」を見極め、誇示しようとしている。

●資本主義社会からの根本的な離脱が考えがたい現状において、英語力が商品となっていることを蛇蝎のごとく嫌うのは、おそらく自己矛盾であろう。特に自らが、自らの英語力を道具の一つとして給料を得ている場合。

●だがそれは英語力、ひいては労働力、そして人間自体の商品化を全面肯定することではない。私たちには資本主義的以外の生き方もある。その生き方は資本主義社会のただ中でも十分可能である

●私たちはお互いを商品としてではなく人間として出会い、共に暮らすことはできる。学校教育は、資本主義的な生き方だけでなく、脱-資本主義的、あるいは前-資本主義的な生き方、つまりは資本主義的以外の生き方も教えるべきである。人間は資本主義的生き方だけでは幸福になれないだろう。

●資本主義がこのまま進行すれば危ないことは数々の自然が教えてくれている。人の自然(nature)は、心身のさまざまな病態で現在の生き方が歪んでいることを伝えてくれている。自然環境は崩壊することにより、これ以上の「進歩」が地球全体の危機にまで及ぶかもしれないことを警告してくれている。

●心の健康を語ることも、環境保全を訴えることも、暮らしの豊かさを生み出すことも、資本主義社会の分析とあるレベルでつながっている。もちろん教育も、英語教育も。




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