甲野善紀先生は、身体運動の精妙さを解明する探求者である。彼の周りには多くの人間が引きつけられるがその中にはロボット工学者もいる。
ロボット工学者はロボット製作の実際的困難から、人間の身体運動がいかに精妙で複雑なものかを思い知らされる。そして人間の身体知を少しでもロボットに移植しようとする。
「しかし」、と甲野善紀氏は問いかける。
「人間のように動くロボットを作り上げたとして、私たちはそのロボットが自分の代わりに、例えば皿洗い―精妙で複雑な運動―をすることを傍観することで幸せになるのか」。
ある意味、SF的な、そして根源的な問いである。
「それよりも、自分の身体が、その精妙で複雑な動きをなしえていることを実感することの方が幸せではないのか」。
***
能力というのは、近代社会では「客観的」に考えられるべきものとされている。
他人との相対的評価にせよ、達成事項による絶対的評価にせよ、各人の能力は、「客観的」なものさしのの中に当てはめられ、各人ははじめて自分の能力の意義あるいは価値を知ることとなる。
しかしもちろん能力を「主観的」あるいは「主体的」に考えることは可能である。
他ならぬ自分が何かをできるということ。
その実感(あるいはクオリア)。
原理上、他人には覚知されず、客観的な枠組みにものらないとされるその主観的な感覚。
これこそが能力の本質と考えることは可能である。
そうして認識論を変えると、私たちの考えも変わる。
客観的能力論から考えれば、弱者の能力など憐れむべきものである。
障碍者、幼児、老人の能力など、正規分布の左端にまとめられるべき一種の外れ値である。
だが主観的能力論を採択してみよう。
いや、私が障碍者、幼児、老人だと仮定してみる。
私が何かできるということ。
自力だけにせよ、人の力を借りるにせよ、他ならぬ私が何かできるということ。そして、今現になしていることを実感しているということ。
私個人からすれば、この実感以上にリアリティのある基準はないようにも思える。
客観的能力論では、左端の外れ値だとしても、私の生命・人生にはこれ以上の実感はない。
学校教育が社会的選抜という機能を有していることは周知の通りである。
この全廃が考えがたい以上、客観的能力論が根絶してしまうことはないだろう。
だが一方で、会社の面接などでは、「客観的」なペーパー試験の成績がいかに当てにならないかは周知の通りである。多くの会社においてペーパー試験の「客観性」は、面接できる人数にまで人間を絞り込む、便利な目安に過ぎない。
社会で働き生きるために、能力の「客観的」な正確さよりも重要なのは、自らの能力を実感し、その実感に基づき、他人の能力実現を共感的に理解できることではないのか。つまりは自他共に幸福に働き、生きることではないのか。
しかし、教育研究の世界では、評価の「客観性」追求に傾倒している。
この傾倒には疑いが必要ではないのか。
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