あるプロジェクトでご一緒させていただいている方から、メールで以下のような質問をいただきました。いい機会なので、自分なりに考えをまとめてその方にお返事を出すと同時に、このブログでもその返事を公開して、皆様のご批判を仰ぎます。とはいえ、書いてみると、いつも以上にまとまりのないものになりました。お笑いください。
柳瀬がもらったメールの質問部分:
文章をカラダで覚えるということは、どの程度可能なんでしょうね。
シャドーイングなどのメソッドも含めていろいろありますが・・・
「英語のアタマを育てる」のが目標ではありますが、
実際会話するときには、ある種反射的に、その「アタマ」が、
「カラダ」と結び付かないといけないわけですよね。
それはつまり、文章も、ある程度、カラダで覚えるということなのかと
思うんです。
つまり、たとえばボクシングでいうと、一発のパンチが単語として、
ワンツーなどのコンビネーションが句、
コンビネーションの組み立てが文章だとすると、
それも含めてある程度カラダで覚えてないとつらいですよね。
そうすると、読み聞かせも、文章をカラダで理解するための活動
とも言えるような気がします。
「英語の発想をカラダで覚える」=「英語のアタマを育てる」
というような考え方はあり得ますでしょうか。
以下、柳瀬の返信:
Hさん、質問をありがとうございました。質問を言い換えますと、
英単語や短い固定表現を、「カラダで覚える」ことは可能かもしれない。だが、実際のコミュニケーションで、文または文章を産出する際には、文や文章も「カラダで覚える」ことが必要なのではないか。そうなるなら「英語の発想をカラダで覚える」=「英語のアタマを育てる」となるのではないか
となるかと理解します。
最後のキャッチフレーズに関しては、皆さんに誤解されず、覚えてもらいやすいフレーズを考えつくということになりますから、今私はどのように答えていいかわかりません。
ですが、単語や固定表現を「カラダで覚える」ことと、文や文章を「カラダで覚える」ことの違いは明確にしておくべきかと思いますので、以下、私の考えを書きます。
「カラダで覚える」対象が、単語や固定表現から、文や文章に変わった場合、後者には前者にはない「文法」という要素が入ります。
(もちろん厳密に言いますなら、単語にも形態素論といった「文法」も入っていますし、固定表現の句にも句のレベルでの「文法」が入っています。ですが、ここでは「文法」という言葉で、文を構成する統語論のことを意味することにします。言うまでもなく、文章とは複数の文の集まりですから、文章を産出する際にも統語論が基礎になっています。もちろん統語論だけで、意味的なつながりのある文章を構成することはできませんが、それについては今回は詳しく考えません)。
話を戻しますと、「文や文章をカラダで覚える」とは「文法をカラダで覚える」と言い換えることが可能かつ適切かと私は考えています。
それでは「文法をカラダで覚える」とは何かという話になります。
以下、それについてまとめます。
「文法」という基本用語が、未だに整理されないまま、時に感情的に使用されているのは、驚くべきことかと思います。これについては過去にもさまざまな整理がありますが、ここで私なりに今一度、「文法」の二つの意味を区別します。
「文法」は、「言語についての知識」 (knowledge about a language) と、「言語という知識」 (knowledge of a language) という意味に分けられます。
「言語についての知識」 (knowledge about a language) とは、ある個別言語 (例、英語や日本語) に関する知識です。その知識が具体的な形を取るのは、通常、これまた特定の個別言語です。例えば、英語という個別言語に関する知識は、日本語といった特定の個別言語で説明されます。もちろん英語に関する知識を、英語で説明してもいいわけです。
こうなるとややこしいので、説明される言語を「対象言語」 (object language) 、説明する言語を「メタ言語」(metalanguage)と区別します。この区別にしたがいますと、「文法」の第一の意味は、「言語についての知識」 (knowledge about a language)であり、それは、ある対象言語について、メタ言語で説明された知識ということになります。
通常「文法」と呼ばれているのは、このメタ言語による対象言語についての知識です。もう少し正確な表現では「学校文法」「伝統文法」とも呼ばれています。
この知識は、メタ言語で説明されていますから、そのメタ言語が存在できるところには、どこにでも存在することができます。文法書とは、この知識を活字出版したものです。古いタイプの受験生は、この文法書を丸暗記して、メタ言語知識を自らの脳内に転移させようとしました。
しかし「文法」の意味は、「言語についての知識」に限られているわけではありません。
もう一つの「文法」の意味は、「言語という知識」 (knowledge of a language) です。この知識は言語(対象言語)そのものであり、通常、メタ言語という形では表現されません。その知識こそが、言語そのもの、あるいは言語を言語たらしめている本質です。この知識は、言語において体現されています。
この言語と知識の関係は、英語の "of" でもよく表現されています。
英語の "of" には次のような意味があります。
つまり「言語の知識」といった場合、「言語」と「知識」は同格関係にあるもので、同じものとも言えるとみなされています(5の用例)。あるいは「言語」は「知識」の一つのカテゴリー、つまり「ある種の知識」とみなされています(6の用例)。
5の用例と6の用例については本来はきちんと区別するべきかもしれません。ですが、ここではそれを割愛し、ここでは「言語という知識」という表現は、「言語の本質である知識」を意味しているとします。つまり文法の第二の意味は、「言語の本質である知識」を意味します。その知識が欠けていれば、英語なら英語という言語が成立しないのです。
通常の人間にとって、この「言語という知識」をメタ言語で表現することは極めて困難です。例えば人間は通常、自らの母語を支障なく話すことができます。もちろん人によって語彙や表現のレパートリーは違いますが、どんな人も、母語が英語なら英語と判定できるような話し方はできます。これを、人は母語の文法という知識を有していると表現することができます。
この知識を、通常の人間が、さらに言語化することはできません。つまり人は、母語を話すという行為そのものにおいて母語の文法という「言語という知識」を具現化することができますが、その行為に関して、メタ言語で説明することはできません。日本語母語話者でも、例えば「は」と「が」の使い分けを説明するように求められれば、口ごもるか、矛盾に満ちた説明とはとても言えない説明を始めるだけでしょう。
「生成文法」は、この「言語という知識」を、個別言語 (a language) を超えて、言語一般 (language)において、言語化あるいは記号化しようとする試みですが、そのような特殊訓練を受けていない人間においては、「言語という知識」を意識化することはほぼ不可能です。
しかし、ある言語を使う場合に決定的に大切なのは、この「言語という知識」という第二の意味での文法です。母語(第一言語)話者は、生得能力によって母語(第一言語)の「言語という知識」(第二の意味での文法)を、意識上は難なく獲得し、母語(第一言語)話者となります。ですが、その「言語という知識」(=対象言語)を言語(=メタ言語)で説明することはできませんから、「文法」の第一の意味である「言語についての知識」は持っていないと言えるでしょう。
話を簡単にするために、周囲ではまったく使われていない外国語を例にしましょう。外国語の場合、その外国語を使おうと願う者は、当初はその外国語の「言語という知識」をまったく持っていません。その外国語がまったく使えないからです。
外国語使用を願う者の認知能力がある程度高い場合は、その者の外国語使用を支援するため、教師は理屈で外国語使用を説明します。これが「言語についての知識」、つまり第一の意味での文法です。この文法は、通常、外国語ではなく、その者が最も得意とする母語で表現されます。つまり外国語使用を願う者は、対象言語(外国語)使用を、メタ言語(母語使用)で支援してもらうわけです。
ですが、この「言語についての知識」である文法とは、あくまでも言語に関してのことであり、言語そのものではありません。外国語学習の場合、対象言語(外国語)とメタ言語(母語)は異なりますから、余計に「文法」が「言語」そのものであるとは言えません。
「言語についての知識」である文法(メタ言語)は、対象言語の獲得を助けることはあるかもしれませんが、メタ言語の学習を突き進めてゆけば対象言語の獲得に必ずしも至るわけではありません。
ですが、他方、「言語という文法」について考えてみましょう。
外国語という対象言語を、とにかく使ってみること、つまり、最初は自らの意思や創意とはあまり関係のないものでいいから、それなりに意味がわかった上で、その言語を再生することとは、暗唱や音読やシャドーイングといった「集中的入出力訓練」(入力をそのまま出力として再生する訓練を集中的に行なうこと)が、行なっていることですが、これは、とにもかくにも言語を「使う」という意味で、「言語という知識」としての「文法」に即するということです。
この「言語という知識」としての「文法」に即することは、最初はもっぱらカラダのレベルで行ないます。「文法」と自分の相即がカラダでしっくりくるようになれば、文法から外れた文に接すればすぐにその違和感を感じるようになります。あるいは、カラダ(つまり口や手)の方が「言語という知識」としての「文法」に即した形で動くようになります。それはその人が、その言語を獲得したということです。原理的には、言語使用を突き進めれば、言語という知識(第二の意味での文法)は獲得されるはずです。
私たちは日常的な行為や母語使用において、アタマとカラダが統合されていて、アタマで願うことは即カラダで実行され、カラダで感じることは即アタマの想念となります。それが(やや程度は落ちるとはいえ)外国語でできるようになるわけです。これが外国語の獲得であり、それは、その外国語という知識―つまりは「文法」―を体得したということです。
繰り返すようになりますが、この外国語獲得の状態に至るために、どの程度、どのように「外国語についての知識」つまりは「学校文法」を使うかというのは、別途に具体的に考えられるべきことかと思います。それは外国語獲得を願う者の知的能力などに応じて決められるべきでしょう。
ただ極端なことを言いますと、外国語獲得は、「学校文法」(外国語についての母語でのメタ言語知識)の助けをあまり借りなくても可能です。もちろん「学校文法」の助けを大いに借りて外国語獲得する例もたくさんあります。ですから、「学校文法」の多寡は、原理的には、外国語獲得の本質的条件ではなく、付随的な(しかし個別例においてはとても重要な)条件とすら言えます。―ただ私たちは経験的には、日本のような状況で外国語を獲得する場合に、学校文法の助けを全く借りないのは現実的ではないことだけは知っていると言えましょう。
話を「外国語という知識」としての文法の体得に戻します。
「文法」は必要だとか、不要だとかいう話は、外国語についてのメタ言語知識としての学校文法の多寡についての話であり、「外国語という知識」としての文法の話ではありません。
「外国語という知識」としての文法(第二の意味での文法)は、外国語獲得には絶対に必要です。それがなくてはその外国語にならないからです。
それでは「その外国語にはならない」というのはどういうことでしょうか。
説明のために非常に単純な例を出しますと、例えば英語では、主語+動詞+目的語という語順を取りますが、これが目的語+動詞+主語という語順ですと、よほどの文脈の助けや聞き手の例外的な推測能力でもない限り、安定的に正しく理解してもらうことはありません。この語順での表現が理解されることは例外的であり、このような使用は「英語」とは通常みなされません。
細部はともかく、大まかな形式において、その言語を使用するあらゆる人間に、安定的に理解してもらうような形式で言語を使うことが、「言語という知識」の意味での「文法」を体得しているということの意味だと言えます。外国語において、この「文法」が体得されていないというのが「外国語にならない」ということです。
では、この文法の体得は、例えば単語や固定表現の体得とはどう違うのでしょうか。
またもや話をごくごく単純にします。単語や固定表現を30覚えるということは、それらの30の典型的な適用例を持つということです。
しかし文法の場合は、組み合わせにより適用例が爆発的に増えます。例えば主語として成立できる名詞を10、動詞を10、目的語として成立する名詞を10覚えます。この適用例は、10+10+10=30でなく、10x10x10=1,000です。
文法の体得は、単語の体得がなしうる可能性を爆発的に大きなものにするわけです。
単語や固定表現を「カラダで覚える」ことと、文法を「カラダで覚える」ことの違いは、この潜在的可能性の大きさの違いにあります。
さらなる違いは、前者は単語や固定表現が結びついている対象や状況と具体的かつほぼ固定的に結びついていますが、文法は抽象的なもので、特定のものと結びついていないことです。ですから単語の獲得は具体的で誰にも目途が立ちやすいです。しかし、文法の獲得―「言語という知識」としての文法の獲得―は、抽象的で、メタ言語知識としての文法のテストとも必ずしも一致せず、つかみがたいものです。ですが、その言語を使う者が、自分なりに支障なく、その言語を聞き、読み、話し、書ければ―つまり使えれば―、「言語という知識」としての文法の獲得はなされていると結論されると言えるかと思います。
話をボクシングのメタファーに戻します。
単語を覚えることは、ジャブやストレートやフックといったパンチを覚えることにたとえられるでしょう。
典型的な表現を覚えることは、左ジャブ→右ストレート→左フックといったコンビネーションを覚えることにたとえられるでしょう。
読み聞かせなどで何度もある物語を聞くことは、ある優れたボクサーの一連のコンビネーションを何度もよく見ることにたとえられるでしょう。
音読やシャドーイングは、ある優れたボクサーのコンビネーションをそっくりそのまま真似することにたとえられるでしょう。
しかし最も大切なのは、英語なら英語という言語を体得することでしょう。ボクシングならボクシングという、パンチで相手にダメージを与える技術の本質を体得することでしょう。そのの技術の制約を知り、その制約の中での自由を自らの心身で実現できるようになることでしょう。
このボクシングの「文法」は抽象的なものですが、これが体得できれば、おそらくどのような状況の中でも、そのボクサーは効果的にボクシングができるでしょう。ちょうど言語の「文法」(第二の意味)を体得した人間が、どのような状況でも自分なりに発話できるように。
「文章をカラダで覚える」とは、「文法をカラダで覚える」ということです。この場合の「文法」とは、「言語の本質としての知識」であり、「言語に関してつけ加えられたさらなる言語説明」ではありません。
その意味での「文法をカラダで覚える」ことは「単語をカラダで覚える」こととは、潜在的可能性の大きさと抽象性で大きく異なります。
「文法」を獲得した人は、その人の単語というリソースを組み合わせることにより、飛躍的に表現の可能性を増やします。
「文法をカラダで覚える」とは言語という制約の中での自由を覚えるということです。自由とは定義上、特定の形を取らないものです。ですから「文法をカラダで覚える」ための方法は、少なくとも「単語をカラダで覚える」ための方法ほどには特定化・具体化することはできません。あるいは「言語に関してつけ加えられたさらなる言語説明」としての学校文法を覚えるほどには特定化・具体化できません。「言語という知識」としての文法を獲得するのは抽象的なことです。
定型表現やテキストの本文を何度も勉強したりする特定の形を使った学習は、その特定の形を覚えるためにも重要です。しかし、それより言語獲得にとって本質的なのは、その特定の形を通じて、文法という自由を体得することの方であると言えるでしょう。
「言語という知識」としての文法の獲得は、抽象的に体得されるものであり、その体得により、人は自らの意思を言語という制約の中で自由に表現することが可能になります。ですからこれはカラダの問題であり、アタマの問題でもあります。
そもそもアタマの問題は、脳内を直接観察できない私たちにとって、カラダの問題として扱うしかありません。
こういった意味では、
「英語の発想をカラダで覚える」=「英語のアタマを育てる」
と言ってもいいのではないかと思います。このフレーズが正しく理解されるかは別問題ですが・・・
うまくまとめられませんでしたが、本日は取り急ぎ
通常「文法」と呼ばれているのは、このメタ言語による対象言語についての知識です。もう少し正確な表現では「学校文法」「伝統文法」とも呼ばれています。
この知識は、メタ言語で説明されていますから、そのメタ言語が存在できるところには、どこにでも存在することができます。文法書とは、この知識を活字出版したものです。古いタイプの受験生は、この文法書を丸暗記して、メタ言語知識を自らの脳内に転移させようとしました。
しかし「文法」の意味は、「言語についての知識」に限られているわけではありません。
もう一つの「文法」の意味は、「言語という知識」 (knowledge of a language) です。この知識は言語(対象言語)そのものであり、通常、メタ言語という形では表現されません。その知識こそが、言語そのもの、あるいは言語を言語たらしめている本質です。この知識は、言語において体現されています。
この言語と知識の関係は、英語の "of" でもよく表現されています。
英語の "of" には次のような意味があります。
5. (used to indicate apposition or identity): Is that idiot of a salesman calling again?
6. (used to indicate specific identity or a particular item within a category): the city of Chicago; thoughts of love.
http://dictionary.reference.com/browse/of
つまり「言語の知識」といった場合、「言語」と「知識」は同格関係にあるもので、同じものとも言えるとみなされています(5の用例)。あるいは「言語」は「知識」の一つのカテゴリー、つまり「ある種の知識」とみなされています(6の用例)。
5の用例と6の用例については本来はきちんと区別するべきかもしれません。ですが、ここではそれを割愛し、ここでは「言語という知識」という表現は、「言語の本質である知識」を意味しているとします。つまり文法の第二の意味は、「言語の本質である知識」を意味します。その知識が欠けていれば、英語なら英語という言語が成立しないのです。
通常の人間にとって、この「言語という知識」をメタ言語で表現することは極めて困難です。例えば人間は通常、自らの母語を支障なく話すことができます。もちろん人によって語彙や表現のレパートリーは違いますが、どんな人も、母語が英語なら英語と判定できるような話し方はできます。これを、人は母語の文法という知識を有していると表現することができます。
この知識を、通常の人間が、さらに言語化することはできません。つまり人は、母語を話すという行為そのものにおいて母語の文法という「言語という知識」を具現化することができますが、その行為に関して、メタ言語で説明することはできません。日本語母語話者でも、例えば「は」と「が」の使い分けを説明するように求められれば、口ごもるか、矛盾に満ちた説明とはとても言えない説明を始めるだけでしょう。
「生成文法」は、この「言語という知識」を、個別言語 (a language) を超えて、言語一般 (language)において、言語化あるいは記号化しようとする試みですが、そのような特殊訓練を受けていない人間においては、「言語という知識」を意識化することはほぼ不可能です。
しかし、ある言語を使う場合に決定的に大切なのは、この「言語という知識」という第二の意味での文法です。母語(第一言語)話者は、生得能力によって母語(第一言語)の「言語という知識」(第二の意味での文法)を、意識上は難なく獲得し、母語(第一言語)話者となります。ですが、その「言語という知識」(=対象言語)を言語(=メタ言語)で説明することはできませんから、「文法」の第一の意味である「言語についての知識」は持っていないと言えるでしょう。
話を簡単にするために、周囲ではまったく使われていない外国語を例にしましょう。外国語の場合、その外国語を使おうと願う者は、当初はその外国語の「言語という知識」をまったく持っていません。その外国語がまったく使えないからです。
外国語使用を願う者の認知能力がある程度高い場合は、その者の外国語使用を支援するため、教師は理屈で外国語使用を説明します。これが「言語についての知識」、つまり第一の意味での文法です。この文法は、通常、外国語ではなく、その者が最も得意とする母語で表現されます。つまり外国語使用を願う者は、対象言語(外国語)使用を、メタ言語(母語使用)で支援してもらうわけです。
ですが、この「言語についての知識」である文法とは、あくまでも言語に関してのことであり、言語そのものではありません。外国語学習の場合、対象言語(外国語)とメタ言語(母語)は異なりますから、余計に「文法」が「言語」そのものであるとは言えません。
「言語についての知識」である文法(メタ言語)は、対象言語の獲得を助けることはあるかもしれませんが、メタ言語の学習を突き進めてゆけば対象言語の獲得に必ずしも至るわけではありません。
ですが、他方、「言語という文法」について考えてみましょう。
外国語という対象言語を、とにかく使ってみること、つまり、最初は自らの意思や創意とはあまり関係のないものでいいから、それなりに意味がわかった上で、その言語を再生することとは、暗唱や音読やシャドーイングといった「集中的入出力訓練」(入力をそのまま出力として再生する訓練を集中的に行なうこと)が、行なっていることですが、これは、とにもかくにも言語を「使う」という意味で、「言語という知識」としての「文法」に即するということです。
この「言語という知識」としての「文法」に即することは、最初はもっぱらカラダのレベルで行ないます。「文法」と自分の相即がカラダでしっくりくるようになれば、文法から外れた文に接すればすぐにその違和感を感じるようになります。あるいは、カラダ(つまり口や手)の方が「言語という知識」としての「文法」に即した形で動くようになります。それはその人が、その言語を獲得したということです。原理的には、言語使用を突き進めれば、言語という知識(第二の意味での文法)は獲得されるはずです。
私たちは日常的な行為や母語使用において、アタマとカラダが統合されていて、アタマで願うことは即カラダで実行され、カラダで感じることは即アタマの想念となります。それが(やや程度は落ちるとはいえ)外国語でできるようになるわけです。これが外国語の獲得であり、それは、その外国語という知識―つまりは「文法」―を体得したということです。
繰り返すようになりますが、この外国語獲得の状態に至るために、どの程度、どのように「外国語についての知識」つまりは「学校文法」を使うかというのは、別途に具体的に考えられるべきことかと思います。それは外国語獲得を願う者の知的能力などに応じて決められるべきでしょう。
ただ極端なことを言いますと、外国語獲得は、「学校文法」(外国語についての母語でのメタ言語知識)の助けをあまり借りなくても可能です。もちろん「学校文法」の助けを大いに借りて外国語獲得する例もたくさんあります。ですから、「学校文法」の多寡は、原理的には、外国語獲得の本質的条件ではなく、付随的な(しかし個別例においてはとても重要な)条件とすら言えます。―ただ私たちは経験的には、日本のような状況で外国語を獲得する場合に、学校文法の助けを全く借りないのは現実的ではないことだけは知っていると言えましょう。
話を「外国語という知識」としての文法の体得に戻します。
「文法」は必要だとか、不要だとかいう話は、外国語についてのメタ言語知識としての学校文法の多寡についての話であり、「外国語という知識」としての文法の話ではありません。
「外国語という知識」としての文法(第二の意味での文法)は、外国語獲得には絶対に必要です。それがなくてはその外国語にならないからです。
それでは「その外国語にはならない」というのはどういうことでしょうか。
説明のために非常に単純な例を出しますと、例えば英語では、主語+動詞+目的語という語順を取りますが、これが目的語+動詞+主語という語順ですと、よほどの文脈の助けや聞き手の例外的な推測能力でもない限り、安定的に正しく理解してもらうことはありません。この語順での表現が理解されることは例外的であり、このような使用は「英語」とは通常みなされません。
細部はともかく、大まかな形式において、その言語を使用するあらゆる人間に、安定的に理解してもらうような形式で言語を使うことが、「言語という知識」の意味での「文法」を体得しているということの意味だと言えます。外国語において、この「文法」が体得されていないというのが「外国語にならない」ということです。
では、この文法の体得は、例えば単語や固定表現の体得とはどう違うのでしょうか。
またもや話をごくごく単純にします。単語や固定表現を30覚えるということは、それらの30の典型的な適用例を持つということです。
しかし文法の場合は、組み合わせにより適用例が爆発的に増えます。例えば主語として成立できる名詞を10、動詞を10、目的語として成立する名詞を10覚えます。この適用例は、10+10+10=30でなく、10x10x10=1,000です。
文法の体得は、単語の体得がなしうる可能性を爆発的に大きなものにするわけです。
単語や固定表現を「カラダで覚える」ことと、文法を「カラダで覚える」ことの違いは、この潜在的可能性の大きさの違いにあります。
さらなる違いは、前者は単語や固定表現が結びついている対象や状況と具体的かつほぼ固定的に結びついていますが、文法は抽象的なもので、特定のものと結びついていないことです。ですから単語の獲得は具体的で誰にも目途が立ちやすいです。しかし、文法の獲得―「言語という知識」としての文法の獲得―は、抽象的で、メタ言語知識としての文法のテストとも必ずしも一致せず、つかみがたいものです。ですが、その言語を使う者が、自分なりに支障なく、その言語を聞き、読み、話し、書ければ―つまり使えれば―、「言語という知識」としての文法の獲得はなされていると結論されると言えるかと思います。
話をボクシングのメタファーに戻します。
単語を覚えることは、ジャブやストレートやフックといったパンチを覚えることにたとえられるでしょう。
典型的な表現を覚えることは、左ジャブ→右ストレート→左フックといったコンビネーションを覚えることにたとえられるでしょう。
読み聞かせなどで何度もある物語を聞くことは、ある優れたボクサーの一連のコンビネーションを何度もよく見ることにたとえられるでしょう。
音読やシャドーイングは、ある優れたボクサーのコンビネーションをそっくりそのまま真似することにたとえられるでしょう。
しかし最も大切なのは、英語なら英語という言語を体得することでしょう。ボクシングならボクシングという、パンチで相手にダメージを与える技術の本質を体得することでしょう。そのの技術の制約を知り、その制約の中での自由を自らの心身で実現できるようになることでしょう。
このボクシングの「文法」は抽象的なものですが、これが体得できれば、おそらくどのような状況の中でも、そのボクサーは効果的にボクシングができるでしょう。ちょうど言語の「文法」(第二の意味)を体得した人間が、どのような状況でも自分なりに発話できるように。
「文章をカラダで覚える」とは、「文法をカラダで覚える」ということです。この場合の「文法」とは、「言語の本質としての知識」であり、「言語に関してつけ加えられたさらなる言語説明」ではありません。
その意味での「文法をカラダで覚える」ことは「単語をカラダで覚える」こととは、潜在的可能性の大きさと抽象性で大きく異なります。
「文法」を獲得した人は、その人の単語というリソースを組み合わせることにより、飛躍的に表現の可能性を増やします。
「文法をカラダで覚える」とは言語という制約の中での自由を覚えるということです。自由とは定義上、特定の形を取らないものです。ですから「文法をカラダで覚える」ための方法は、少なくとも「単語をカラダで覚える」ための方法ほどには特定化・具体化することはできません。あるいは「言語に関してつけ加えられたさらなる言語説明」としての学校文法を覚えるほどには特定化・具体化できません。「言語という知識」としての文法を獲得するのは抽象的なことです。
定型表現やテキストの本文を何度も勉強したりする特定の形を使った学習は、その特定の形を覚えるためにも重要です。しかし、それより言語獲得にとって本質的なのは、その特定の形を通じて、文法という自由を体得することの方であると言えるでしょう。
「言語という知識」としての文法の獲得は、抽象的に体得されるものであり、その体得により、人は自らの意思を言語という制約の中で自由に表現することが可能になります。ですからこれはカラダの問題であり、アタマの問題でもあります。
そもそもアタマの問題は、脳内を直接観察できない私たちにとって、カラダの問題として扱うしかありません。
こういった意味では、
「英語の発想をカラダで覚える」=「英語のアタマを育てる」
と言ってもいいのではないかと思います。このフレーズが正しく理解されるかは別問題ですが・・・
うまくまとめられませんでしたが、本日は取り急ぎ
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