私たちは通常、「アイデンティティ」というものを自明の前提とする。「私はAである」とするなら、私はAに他ならない。すれば、BやCやDも、それがAでない限りは、それらは私ではありえない。
しかし現実世界の私は、Aであるにせよ、常にAでない可能世界の私を予見する。現状のAを耐えられないとして私たちが叫ぶ時、私たちはしばしばAでない自分 ― 固定的なアイデンティティを超えた自分を想定している。これは「非アイデンティティにあくまでこだわる感覚」(アドルノ『否定弁証法』)につながるのかもしれない。
否定
アイデンティティと同じように、私たちはしばしば「肯定」を自明の前提とする。
例えばマルクスの影響を受けた人たちも、マルクスの問題(いかに資本主義社会の渦中にありながら、そのあり方を否定できるか)を、肯定的な問題(いかに労働者に我々ソビエト連邦共産党の正しい意識を外部注入するか)に変えてしまった。(cf 260ページ)
しかしこういった「マルクス主義」が暴走したことを私たちは知っている。今行なうべきは、「マルクス主義」を「否定」の問題設定に置き直して、資本主義に対するマルクスの批判の意味合いを鮮明にすることである。(cf 29ページ)。
それはあるユートピアをゴールとして設定することなく、「道をたずねながら、歩く」ことである。道をたずねるのは、道を知らないからだけではなく、道をたずねること自体が社会を変えるプロセスの一貫だからである。(cf 414ページ)。
つまり私たちは、到達すべきendを知らず、「こうではない」、「こうでもない」、「どうすればいいのだろう」と歩き続ける。こうして肯定でなく、否定に導かれて歩むことが、教条的で全体主義に至った「マルクス主義」の悲劇の後に私たちがやるべきことではないのか。
行為
かくして私たちは停滞しない。行為し続ける。行為するとは、アイデンティティを立て、そしてたちまちのうちにそのアイデンティティ化を否定することである(208ページ)。
また、行為するとは、純粋なる救い主(神、国家、党など)を肯定して突き進むことでもない。そうではなく、私たちが抱えている矛盾や限界から出発して、それらのただ中で、それらを少しずつ克服し否定してゆこうとすることである(438ページ)
行為とは主体性を意味する。主体性とは、「存在しているものを超えておこなわれてゆく意識的な投企、つまり存在しているものを否定し、まだ存在していない何かを創り出す能力に関わる」(60ページ)ことであるからである。行為者とは「ある」のではなく、むしろ行為は「であること」に抗する運動、「である」ものに抗する運動である(60ページ)。
資本主義
それでは私たちは何に抗するというのか。当時の資本主義がもたらす惨状を見たマルクスにとって、それは資本主義であった。そして今、新自由主義の跋扈を経て暴走する資本主義を前にして、私たちも資本主義的な社会のあり方に抗しなければならないと感じ始めている。
資本主義的な社会のあり方を、この本の著者はマルクスに倣って、次のように要約する。
資本主義においては、ヒトとモノとの間、主体と客体との間の関係に転倒が生じているのです。主体が客体化し、客体が主体化しているのです。モノ(貨幣、資本、機械)が社会の主体になり、その反面、ヒト(労働者)が社会の客体になっています。社会関係は、外観だけでなく実質においても、モノの間の(貨幣と国家との間の、あなたのお金と私のお金との間の)関係になっています。その一方で、人間は社会性を奪い取られ、商品交換のためになくてはならない補足物である「個人」にかたちを変えてしまっているのです。(112ページ)
マルクスが資本主義を告発する理由は、資本主義が物質的な悲惨な状態をもたらすからだというだけではなく、とりわけモノとヒトとの関係の転倒を生むというところにあります。これを別の言葉でいえば、社会関係の物神化ということになります。(112-113ページ)
商品物神崇拝は、資本主義の「させる」力が私たちの存在の核心まで、つまり私たちの思考の習慣、私たちの他者に対する関係にまで浸透していることを意味しているのです。(108ページ)
本来、人間を育てる営みである教育までもが、子どもを市場で高い値のつく商品にする営みになっているような昨今、あるいは教育界を導くべき立場にある人が、資本主義的論理で、教育の個々の営みを、一般に比較可能な数値にどんどん変換してしまって、その数値を競わせるようにしている昨今、教育者として生計を立てる私は、資本主義的な社会のあり方、あるいは人間観に抵抗せざるを得ない。
抵抗
だがその抵抗は、理想郷へ一直線へと向かう類のものではない。それは資本主義的なあり方のただ中にいる私たち自身が、日々の暮らしの中で、なんとか「こうではない」、「ああでもない」と現状否定を重ねながら行為し続けることである。
教師が学生を適切に教えようとしている場合、看護士が患者の満足のゆくように看護しようとしている場合、デザイナーがよいプロダクト・デザインをおこなおうとしている場合、生産者がよい製品をつくろうとしている場合 ― そういう場合だって、そこでは、[交換]価値と対立しながら使用価値の展開をめざす闘い、それによって行為の社会性を解放しようとする闘いがおこなわれているのです。(374ページ)
資本主義社会に生き、そのシステムの中で給料を得ながらも、資本主義の論理からは外れる、あるいはそれに反する生き方に意義を認め、それを促進することこそが、20世紀の「マルクス主義」 ― 「主義」となって硬直化した教条を経た私たちが行なうべきことであろう。
商品関係はみずからを押しつけてきますが、日常生活には商品関係ではない関係を、あるいは商品関係に反する関係さえもつくりだしていくようなプロセスがうちに含まれているのです。そうしたものは、資本の外側にあるわけではありません。そうではなくて、まさしく資本に立ち向かいながら乗り越えていくものとしてあるのです。
その運動は、ひとつの矛盾したプロセスです。私たちは、非商品関係、協同の非資本主義的形態を打ち立てていきます。しかし、それはつねに支配的な形態と対立する運動でありながら、同時につねにある程度までそうした形態に汚染されたものでもあるのです。しかし、このような矛盾を通じて、私たちは、商品あるいは貨幣形態と対立する関わり合いがどういうかたちをとるのか、別のかたちの社会を描き出していく基礎をつくりだす関わり合いがどういうかたちをとるのかを認識していくのです。そのかたちとは、私たちが普通、愛、友情、仲間同士の思いやり、尊敬、協同として考えているものであり、それぞれの人たちがもつ人間としての尊厳を承認し合うことの上に生じてくるものなのです。(430-431ページ)
「権力」
最後にこの本のタイトル(『権力を取らずに世界を変える』)にも使われている「権力」(power)についての誤解を解いておくべきだろう。
訳者解説によると、権力(power)には二つの側面がある。
する力 (power-to) ― させる力 (power-over)
力能 (potentia) ― 権能 (potentas)
構成する力 (constituent power 構成的権力:憲法制定権力) ― 構成された権力 (constituted power 立憲政府権力)
構成 (constitution 「にする」こと) ― 存在 (existence 「である」こと)
この本の著者であるホロウェイのポイントは、資本主義社会では、左項のpowerが、右項のpowerに変換されてしまっていることである(529ページ)。
かといって私たちは世界を変えるために右項のpowerを取ろうとはせず(それは社会主義をめざした全体主義国家が行なったことである)、左項のpowerを解放するべきだと著者は語る。
「する」力を解放する闘いは、対抗権力 [counter-power] をつくりあげる闘いではありません。むしろ、反権力 [anti-power] の闘い、「させる」力とは根本的にちがうものをつくる闘いなのです。(81ページ)
こういう意味で、つまりは制度化され私たちをコントロールする権力を奪取することなく、むしろそういった権力とはまったく違ったゲームを、私たちの主体性で行なうことで世界を変えることを著者は述べる。世界を変えるとは、ゴールも指導者も抱かないままに、私たちの一人一人が、日常の暮らしを、日々豊かにしてゆこうとする営みである。
畏友から勧められたこの本は、三分の二まで読み進めたところで、やはりマルクスをある程度理解してからと思い直し、池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社を読んでから再読しましたらはたせるかなスイスイ読めました。
現代社会を考え直すための哲学書として面白いと思います。
⇒権力を取らずに世界を変える
⇒Change the World Without Taking Power
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