2009年9月10日木曜日

甲野善紀先生・森田真生氏による教育・学びの本質を問うセミナー

甲野善紀先生は、私が私淑して10年以上になる方ですが、甲野先生がご推薦なさる人物を私もたどって、その期待が裏切られたことはありません。

先日、あるセミナーに参加して、甲野先生に初めてお会いすることができたのですが、甲野先生は、およそ「素」の方でした。世間で有名になった人間というのは、たいてい硬軟さまざま形で示威的になります。あるいは自分は示威的ではないということを示そうとして、妙に示威的であったりします。私が二日間で見た甲野先生は、そのような人間的弱さとは無縁の方でした。「素」であることにより、示威的でもなんでもない―というより示威というのが馬鹿らしく思えてしまう―強さをお持ちの方でした。

武術の実技指導でも、甲野先生は、私たち周りの人間に技を解説しながらも、それ以上に、ご自身の身体で武術を確認し、探究しているようでした。そうやっているうちに、甲野先生がふと「ああ、そうか」と静かにつぶやき、新たな動きを試されていましたが、それは甲野先生が以下のようにおっしゃるほどの大転換でした。私はその甲野先生の大転換を目の当たりにすることができた僥倖を本当に喜んでいます。


 突然降ってきたような予想外の展開に、私自身ひどく驚いたというのは、昨年の5月の末、岡山でそれまで30年以上刀を持つのに左右の手を離していた状態から、両手を寄せた持ち方に大改訂した時もそうだったが、今回の展開は、あの時とは状況がかなり違う上、その影響が剣術のみではなく、私の技の全体系に直に及ぶという点では、更に大規模な変革になるのではないかと思う。

 というのも、まだその全体像を理解するのには、かなりの時間がかかると思われるからであるが、そのホンの入り口ですでに大きな変化があるからである。それにしてもこんな事をよく気づいたものだと、その事がまず不思議である。
http://www.shouseikan.com/zuikan0908.htm#5




内田樹先生が、『先生はえらい (ちくまプリマー新書)』でおっしゃるように、「教師」には、「トレーナー」と「師」の2種類に分けることができます。「トレーナー」は、あなたに明確な到達点を示します。「ここまでできれば良い」と伝え、その技術を伝授しますが、その到達点(end)に学習者が達すれば、全ての活動は終了(end)になります。「トレーナー」の教育活動は、training(訓練)と言うべきでしょう。

それに対して、「師」は、あなたが向かうべき方向を示すが、そこにend(到達点)はないことを示します。師自らもその方向に向かい、探究しているわけです。そういった「師」の教育活動こそがeducation(教えること、啓発すること)ではないのでしょうか。深い意味での学びとは、trainingではなくeducationによってのみ引き出されるのではないでしょうか。


そういった意味で、まさに「師」である甲野先生は、現在、森田真生氏という1985年生まれの若者に注目されています。森田氏は、バスケットばかりやっていた中学生時代にバスケット指導に来た甲野先生に出会い―甲野先生の探究は、狭い意味の武術を超え、各種スポーツや音楽演奏、あるいは介護の動きなどの多方面に展開しています―、その後東京大学文科Ⅱ類に入学(2004年)、東京大学工学部システム創成学科知能社会システムコースへ進学決定(2005年)、東京大学工学部卒業(2008年)、直後に東京大学理学部数学科に学士入学した俊英です。


森田氏は、現在学ぶ数学について次のように語っています。



文系・理系という分け方があるが、高校時代までの私はそのどちらであったかというと、実はそのどちらでもなく、生粋の体育会系であった。

勉強は授業中以外にはほとんどせず、ただひたすら毎日バスケに打ち込んでいた。

そんな青春を過ごし、頭で考えることよりも身体で感覚することの方を信頼していた私にとっては、数学が目指す「絶対的真理」も、究極的な「完成」も、どうしようもなく胡散臭く思えた。

頭でっかちの天才たちが、その才能をもてはやされながら巨大なパズルを解いていくのはそれはそれでいいとして、そうしたところで人生の本当のなぞ、「わたしたちはなぜ生きているのか」、「なんのために生きるべきであるか」ということには少しも答えられないであろう。

そのように考えていたのである。

その私が、どういうわけか今では数学をしている。

それも一日のうち食べる時間と寝る時間を除いてはほとんど数学しかしていない。

なぜこのように、私の数学に対する態度が一転したかといえば、それはあるとき幸運にも、真の意味での数学に出会うことができたからである。


(中略)


「数学とはこころの学問であり、その目指すところは己のこころを見つめ、それを整えるということである。したがって計算や論理は数学の手段であってその本体ではない。

数学の本体は、数学的対象にじっくりと注意を注ぎ、その声に耳を澄ませるこころの姿勢そのものにある。そのためには自己自身のうちに数学的現象の世界を生み、育て、それを耕していかなければならない。そのような意味で、数学とは一部の天才たちの占有物などでは決してなく、個々がそれぞれのこころのうちに展開するひとつの内的な世界とそれとの交流を意味する。

したがって数学は職業数学者だけのためではなく、よりよく生きることを志すすべての人に開かれているべき、ひとつの実践であり、方法である。

また、こうした意味での実践としての数学に終わりはなく、したがって完成あるいは完結ということはありえない。」

http://www.shouseikan.com/zuikan0909.htm#2



現在、教育の場である大学までもが、金(予算)の話ばかりする人間に牛耳られようとしています(私は悲観的過ぎるのでしょうか。それとも小児的なのでしょうか)。大学は基本的にtrainingの場ではなく、educationの場であるはずのなのですが、ますます「すぐに役立つ知識・技能」を効率よく伝えるだけのtrainingだけの場所になりつつあります。

そういった「大学」で育てられ、educationの喜びも知らず、trainingの世俗的効用ばかりを気にする若者が現在大量生産されている懸念を私は有しています。そういった若者、あるいはその若者を育てている教師にとっては、上の森田氏の見解など意味不明の妄言のように思えるかもしれません。しかし本来、学ぶということは、心身を澄まして、場合によっては全霊を尽くして行なうことなのではないでしょうか。教師も学習者も、少なくともその深奥さの片鱗は体感する必要はないでしょうか。

現代日本に席巻している、知識・技能を市場価格に還元して、その価格を高めることばかり考えているような「教育」は、どこかでdead-endにぶち当たるような気がします。ちょうどハチが突然に大量死してしまったように。



そのハチの大量死を描いたジェイコブセン『ハチはなぜ大量死したのか』(文藝春秋)の紹介記事でも書きましたように、甲野先生と森田氏が、9/19(土)は福岡県福岡市で、9/21(月・祝)は広島県福山市で公開対談会を開催されます。






およそ「教育」「学ぶこと」に関心のある方は、ぜひご参加下さい。私も福山市の対談会には参加する予定です。

甲野先生による森田氏の詳しい紹介は、下記の記事をご覧下さい。
http://www.shouseikan.com/zuikan0909.htm#2




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