2009年9月23日水曜日

ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社

訳者である鬼界彰夫先生の素晴らしい解説論文「隠された意味へ」がつけられたこのウィトゲンシュタインの日記が示すのは、哲学史上に残る『論理哲学論考』(1922年刊)を書いたウィトゲンシュタインが、自らの虚栄心に苦しんでいることである。

私がするすべてのこと、あるいはほとんどすべてのことは、そしてこのノートへの記入は、虚栄心に染まっている。そして私にできる最良のこととは、言ってみれば虚栄心を切り離し、孤立させ、虚栄心が常に見つめていてもそれを無視して正しいことを行うことだ。虚栄心を追い払うことは私にはできない。時にそれが不在となるだけだ。(1930年5月2日)


虚栄心を捨て去りたい、と私が言うとき、またもやそれを単なる虚栄心から言おうとしているのではないとは言い切れない。私は虚栄心が強い。そして私の虚栄心が強い限り、より善くなりたいという私の願望も虚栄心に満ちている。そんなとき私は、自分の気に入っている虚栄心のない過去の誰々のようになりたいと思うのだが、すでに心の中で虚栄心を「捨て去る」ことから得られそうな利益を計算しているのだ。舞台に立っている限り、何をしようとも人は役者にすぎないのだ。(1931年11月15日)


数年後、彼は『論理哲学論考』をある意味無効化してしまうような『哲学的探究』(1949年頃に完成、死語の1953年に刊行)を書きはじめるのだが、その哲学的転換の背後には宗教的な転換があったのではないかと、鬼界論文に導かれて私たちは考える。

宗教的な転換とは、自らの虚栄心が理想とする状態から自分がどれだけ遠い存在かを認識し、自分は自らを誇る存在ではなく、救いを求める存在であることを率直に認めることである。そして無様に生きる自らの生を愛することである。


キリスト教教義の一解釈。完全に目覚めよ。そうするならお前は自分が役に立たないことを認識し、それによってお前にとってこの世界の喜びは止む。(中略) そこでお前には救いが必要となる。 (中略) お前にはどこか他の場所からの新しい光が必要となる。 (中略) お前は自分が死んでいることを認識し、別の生を受け取らなければならない。 (中略) この[現実のお前の]生は、言ってみれば、お前を大地の上に浮かんだままで保持する。つまり、お前が大地の上を行くときも、もはやお前は大地の上に立っているのではなく、天にぶら下がっているのである。そしてこの生が完全な者に対する人間の愛なのである。そしてこの愛が信仰なのだ。 (1937年4月6日)



さらにキリストを信じるということは、ウィトゲンシュタインにとっては、キリストが、私たちがなそうとしながらなしえないことをなしながら、およそこの世での低い位置に留まり続けたということを日常生活で痛感し続けることであったように思われる。

犠牲による救済とは、私たち全員がしたいと思いながらもできないことを彼[=キリスト]がなした、ということかもしれないと考えた。だが信仰において人は彼と同一化する、すなわちその時、人はへりくだった認識という形で負債を支払うのである。それゆえ、人は良くなれないがゆえに徹底して低くなるべきなのである。 (1937年3月25日)



言語と論理を突き詰めて使い、論理実証主義の台頭の契機を作り出しながら、後年そういった思想を解体するというように、近代的な西洋知性の頂点と底の両方に到達したともいえるウィトゲンシュタインの、この悪戦苦闘の悲劇性(あるいは喜劇性)と、例えば柳宗悦の平常の営みを比較することは大変興味深い。そもそも「へりくだる」など、「高み」を想定する人間のみが考えることである。




追記、
訳者に秀逸な解説論文を書かせた編集者の上田哲之氏と、ウィトゲンシュタインの精神を体現するようなカバー・デザインをしたデザイナーの古平正義氏の業績は特筆に値すると思う。ウェブ上で情報が氾濫する昨今、出版物とは、このように複数の専門家が協働的に作品を愛しながら創造されるべきものであると私は考える。



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