***広報***
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)
第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健
***広報***
8月は本当に忙しい月であった。昨年、一昨年と夏に心身の調子を崩してしまった反省から、今年は義理を欠きながら、できるだけ仕事を断ったのだけれど、気がついたらやはり忙しすぎる月となってしまった。とはいっても今年の夏は、出張が一段落した今の時期の軽い夏風邪の微熱と咳だけで済んでいる。これがどんどん仕事を受けていたら、またもや過去のように調子を崩してしまっていたかもしれない。
日頃は効率と能率ばかりを考え、与えられた時間の中で最大限の仕事をこなすことばかり考えているが、出張が続くと疲れてそうとばかりはいかない。だから出張が続くと私は、仕事とは関係ない読書をすることを自分に許す。さらに体調を崩してしまうと、仕事用の思考もできなくなる。そうなると横になるしかなく、私は微熱などの症状に助けられて、思考と感情が混濁した状況で、半覚醒・半睡眠の状況の中に漂う。合間に仕事とは関係のない本を読む。疲れてまたうつらうつらする。
こうして疲れ、あるいは病は、私を日頃の合理的で明晰な意志の世界から、混沌として不経済な無意識的な世界へと引き戻してくれる。読む本の物語と、半覚醒・半睡眠の混濁した思考と感情によって。それはあまりにも「近代」の論理で歪められた私を癒すための、必要な過程なのかもしれない。物語と混濁した思考・感情により、私は、死すべき事だけを確実とし、さまざまな限界に阻まれ、数時間後の運命さえ実は知ることのできない、非合理的で不経済な生命としての感覚を取り戻すことができる―もちろんある程度ということだけど。
近代性の獲得をしていなかったら、私は現在のような給料を得ることはできなかっただろう。しかし疲れや病、そして混沌とした物語―思考と感情の混濁―がなければ、私は今の私よりももっと卑しく、邪悪なぐらいに「有能な」近代人となって、周りの生命をますます損なっているだろう。今よりもはるかに。
この夏に読んだのは、やはりというべきか、村上春樹であった。『アンダーグラウンド』、『1Q84』、『ねじまき鳥クロニクル』。前二者は初読。最後は三読目であった。
地下鉄サリン事件の被害者―あるいは体験者、当事者―の語りを聞き出した『アンダーグラウンド』は、ナラティブという観点からも非常に面白かった―この本を読んだ8月初めの私は、まだ仕事から離れていなかったのだろう―(注)。
カルト集団による突然の無差別テロという未曾有の体験に、当事者は、ことばを失う。ある者は、少しずつことばを見出し、ことばを選び―ある人は、自分を被害者として考えるのではなく、体験者として考えることを選んだ(87ページ)―、自らのありようを再構築する。だが体験を言語化できない者は、精神科医が証言するように(124-138ページ)しばしば身体にその表現を病的な形で見出す。
60人の語りを聞き出して、書き出した村上春樹は後書きで、物語について次のようにまとめる。
アメリカの作家ラッセル・バンクスは小説『大陸漂流』の中でこのように述べている。
「自我より大きな力を持ったもの、たとえば歴史、あるいは神、無意識といったものに身を委ねるとき、人はいともたやすく目の前の出来事の脈絡を失ってしまう。人生が物語としての流れを失ってしまうのだ」(黒原敏行訳)
そう、もしあなたが自我を失えば、そこであなたは自分という一貫した物語をも喪失してしまう。しかし人は、物語なしに長く生きていくことはできない。物語というものは、あなたがあなたを取り囲み限定する論理的制度(あるいは制度的論理)を超越し、他者と共時体験を行なうための重要な秘密の鍵であり、安全弁なのだから。
物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。でもあなたは息をするのと同じように、間断なくその「お話し」の夢を見ているのだ。その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。あなたは実体であり、同時にあなたは影である。あなたは物語を作る「メーカー」であり、同時にあなたはその物語を体験する「プレーヤー」である。私たちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによって、この世界で個であることの孤独を癒しているのである。(749-750ページ)
近代的な枠組みで、私たちは、ガリレオらにより見出され、ヒュームの懐疑にもかかわらずカントが必死に擁護した因果律に適った物語だけに即して生きることをしばしば強制される。最先端の科学者は、存外に科学の限界をわきまえ、人間の想像以上に複雑で微妙な世界に対して、単純な因果律がいかに無力化を熟知しているのだろうが、一知半解の中途半端な知性の持ち主に限って―学問をした馬鹿というべきだろうか―単純な因果律だけで、物事を裁定し、設計し、構築しようとする。単純で単一な世界だけしか想像できないという点で、この中途半端な知性は「全体主義」につながっているのかもしれないが、それはともかく、近代組織に適応する私たちは、貧困な物語、物語ともいえない物語だけしか認めないよう調教される。
だが世界は、そして人生は、はるかに深い。はるかに複雑で複合的で、はるかに繊細で微妙である。やがて多くの人々が、単純な因果律を越えた物語―上で村上が言うような意味での物語―を希求する。
文学を読む意味の一つはここにある。物語を体験することである。
言うまでもなく物語を読むことは、一銭の得にもならない。近視眼的で単純な合理性からすれば無駄であり、害悪とさえいえる。
しかし世界と人生のありようを垣間見る人間は、物語を必要とする。そうしてその物語の中で、人々がどのように語るかを読書で体験し、新たなことばと世界の関係のあり方を学ぶ。その物語、あるいはことばは、そのままの形で、読者の人生の中で再生されることはないだろう。だが深いところで消化される物語とことばは、読者の血となり肉となる。それは読者が新たな世界に踏み込むために必要な血であり肉である。
と、そんなことを明晰に考えていたわけではないが、私は村上春樹の最新作『1Q84』と『ねじまき鳥クロニクル』を読んだ。疲れて、微熱をもった私の身体は春樹の物語を欲していた。
ここで二作の詳しい評論はしない。前者は、おそらくこれまでの彼の作品の中でもっとも完成度の高い―あるいは方法論的自覚が高い―作品であり、後者はその祖型とも言える荒削りな、しかしその意味でより面白い作品ともいえるだろうという私の感想を言うに留める。両者共に、単純な因果律を越える物語であり、徹頭徹尾有能な近代人なら蔑視するか、理解できずに豆鉄砲をくらった鳩のような顔をしてしまう物語であることは言うまでもない。
私はこの小文で何が言いたいのだろう。
何を物語りたいというのだろう。このパラグラフ・ライティングや論文執筆の基本から大幅に逸脱した文章で。
確実に言えることは、今の私がこのような語りを必要としているということであり、このように語ることにより私は再生されているということだ。
つきあって読んで下さった方、申し訳ない。
だが、お互い申し訳ないとしか言いようのないのが人生とも言えまいか。
(注)『アンダーグラウンド』は、日本の官僚的大組織が、戦争時から今日にいたるまで、いかに組織の末端そして外部の人間に対して冷酷か(そして内部の核の人間にはいかに親切か)という点も訴えている。これもきちんと考えたいが、本日は割愛する。
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