皆がせきたてられている。大人も子どもも。男も女も。雇用者も被雇用者も。教師も生徒も。
Doingが強調される中、beingの旗色が悪い。「何もしないとは何事だ。ぼーっとするな。何かを生産せよ!」という怒声があちこちから聞こえてくるようだ。
社会人の責務とはdoingにあり、beingとはdoingの停止に過ぎない。Beingは再びdoingを始める活力を得る限りにおいて認められる休憩に過ぎない。合理的に数値目標をたてながら、doingを限りなく続けるのがグローバリゼーションなのだ—これが雇用者の、被雇用者へのメッセージである。
被雇用者は保護者として、上のメッセージを教師にも伝える。「民間会社では当たり前ですよ!」。かくして教師は子どもにこのメッセージを伝える。「何ができるかな。ここまでできれば成績をあげよう。次にはこれができるようになろう」。<次から次へ。休むな!>これが、大人が子どもへ伝えようとしていることではないか。
そうして子どもの毎日は数値目標達成として整理される。それは教師の成績となる。管理職はその達成度を書類にし、教育委員会はそれをチェックする。かくして教育界も産業界と同じ論理に染まり始める。教育活動が経済活動と限りなく同一視されはじめる。
言うまでもなく上の考えは正しいのだろう。上の考え方を失えば、日本の生産力はグローバル競争の中で急落してしまうのだろう。その場合の混乱の度合いは誰にもわからない。だから正しい考えは保たれなければならない。
だが正しい考えの欠点は、時にそれが正しくなりすぎるということだ。
Doingの強調も、それがbeingの軽視を招くようなら、それはあまりにも正しすぎる。
その正しすぎる考えが支配する世の中では、子どもはdoingの予備軍としてのみ評価される。Doingの力をもたない高齢者あるいは障がい者は社会の負担にすぎない。男女共同参画社会では男も女もdoingを求められる。同僚がただ共にいるというくつろぎの空間も時間も限りなく減少する。子どもや高齢者のそばにいること、いや夫婦がただ共にいることもdoingのために犠牲を強いられる。家を美しく整え、そこでただくつろぐことなどもはや富裕層にしか許されていないのかもしれない。Beingはdoingのための必要悪である。最小限に抑えよ。Doingを最大化せよ。それが現代人だ。人々がただbeingを愛することを、現代は忘れかけている。今や誰がbeingを擁護しているというのだろう。
かつてゲーテの描くファウスト博士は、哲学・法学・医学・神学—その当時大学で教えられていた科目の全て—を学んだあげく、自分が「いぜんとしてこのとおりの哀れなバカ」であると落胆する。それでも新約聖書の「初めに言葉ありき」を「初めに行為ありき」と書き換える。そして悪魔メフィストテレスと契約する。もしファウストが「時よ、とどまれ、おまえはじつに美しい」と言ったなら、彼はよろこんで滅びてゆこうというのだ。ファウストは自分がそのように言うことはないと考えている。ただそうあるbeingが美しいということなどありえないというわけだ。ファウストはまさにdoingを信じている。
その後のファウストとメフィストテレスの多様な経験の詳細は本に任せるしかないが、ファウストは第二部の終わりで、干拓作業を夢見る。彼は語る。
「協同の意思こそ人知の至り尽くすところであって、日ごとに勤めるものは自由に生きる資格がある。どのように危険に取り巻かれていても、子供も大人も老人も、意味深い歳月を生きるそんな人々の群れつどう姿を見たいのだ。自由な土地を自由な人々とともに踏みしめたい。そのときこそ、時よ、とどまれ、おまえはじつに美しい、と呼びかけてやる」(池内紀訳)
この言葉を思わず語ったためにファウストは絶命する。ファウストは人々の平穏なbeingに美を見た。そこではdoingはbeingの中に調和しているだけだった。意味深く自由なbeingこそが究極だったのだ。
翻って現代。Doingは暴走していないか。Doingは次なるdoingばかりを求めていないか。Doingにdoingを重ねることによってしか私たちは生きられないとしていないか。それこそがbeingを守ることだと言っていないか。だがdoingが増加し激化するごとにbeingは損なわれていないか。
世の中にはdoingもbeingも必要だ。だが「初めにあった」のはdoingではない。おそらくはlogosでもない。「初めにあった」のは—言葉遊びのようだが—beingである。まさに初めには「ある」のだ。最初にbeingがある。そうしてそのbeingを保つためにdoingが必要となる。だがdoingはbeingのためにある。Doingがbeingとの調和を忘れ、doingのためにあると思い始めたとき、世界は暴走する。ちょうど、映画『鉄コン筋クリート』が象徴的に表現しているように。
この世があるということ。この世に人々がただ存在しているということ。そして願わくは、幸福に存在しているということ。これこそがdoingの目的である。この幸福な時間にdoingは停止しなければならない。「時よ、とどまれ、おまえはじつに美しい」と思わず語りたくなるほどにdoingは停止しなければならない。この停止はdoingの再開のための休憩ではない。Beingそのもののための停止である。Doingはbeingのためにある。Doingはbeingに奉仕する。その逆ではない。だが現代社会はその逆をしようとはしていないか。Beingがdoingの奴隷になっていないか。
池内紀訳の『ファウスト』は次の「神秘の合唱」で終わる。
うつろうものは
なべてかりもの
ないことがここに
おこり
ふしぎがここになされ
くおんのおんなが
われらをみちびく
Doingはうつろうものを次々に作り出す。かりものがかりものを生み出す。それは進歩である。だが進歩は止まることを知らない。進歩の暴走は時にbeingをつぶそうとする。
しかし、人々がこの世で暮らすとは、beingを享受するということだ。そして人々がこの世を継いでゆくということは奇跡を要するということだ。
奇跡とは、無から有が生まれること、新たなbeingの誕生である。
そうしてbeingを愛し、beingを整え、beingを保ち、beingを美しくする「永遠に女性的なるもの」が私たちを導く。
「久遠の女」を私達は失いつつあるのではないか。
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