2008年8月5日火曜日

ある仕事中毒者の反省

物心ついたころから真面目だとか勤勉だとか言われてきたが、これは別に私の有徳ではない。小さい頃に厳しく育てられれば自制も強くなろう。貧乏な家庭に育てば絶えず動き回らないと生き残れないことが身にしみてわかるだろう。私の勤労態度の根本は育ちから来ている。

貧乏から家庭内は不和だった。家族がそろう食事は、父と母がけんかばかりをしていた。子どもの私にはそれを調停する知恵も力量もなかった。ひたすらに早く食事を終え、自分の部屋にこもることを望みながら、両親のけんか、あるいはその予兆に耐えていた。

部屋にこもれば本があった。音楽があった。本は私にまったく違った世界を見せてくれた。音楽は日常では表現できない複雑な表現を私のために代弁してくれた。図書館とNHK-FMは私を支えてくれた。

学業はそれなりにできた。学業での認証も私の存在を支えてくれた。自然と勤勉になった。

本、音楽、学業への適性、これらが私をいわゆる「通常のコース」にとどめてくれた。どれかが欠けていて、かつ私にガッツがあったならばいわゆる不良になっていたかもしれない(しかし私は昔からヘタレだった)。

私が中学一年の時に父は脳溢血になった。彼は12年後に逝去するまで基本的に寝たきりだった。困ったのは母だった。父の商売の失敗からできた借金を払いながら私を育てた。その苦労には感謝している。というより一人の人間として偉大な努力だった。

しかし生活保護を受けていれば大学には進学できなかった。私はどうしても大学で勉強したかった。もっと本を読みたかった。母は生活保護を打ち切った。私は最初の数ヶ月だけ家賃をもらったものの、その後はすべて奨学金と授業料免除とバイトで自活した。

自活して勉強していたから、授業に対しては傲慢な態度を取っていた。ちょっとでも面白くない講義だと自分で本を読んで勉強した。休める授業はすべて休んだ。

大学では宗教哲学を勉強したいと高校生の時分には思っていた。小説家になりたいと夢想していたこともある。しかしそれでは飯は食えないという周囲の助言に、貧乏人の私は素直に従った。文学部でなく教育学部に進路先を変えた。高校の国語教師になって、好きな小説を読みながら、高校生に読書の喜びを伝えようと思っていた。

ところが共通一次試験で、偶然で高得点が取れた。「これなら英語科でも行けるよ」「国語より英語のほうが就職にも有利だよ、きっと」と周りに言われて、進路を変えた。高校時代に数学をすぐに捨てたり、世界史を真面目に勉強しなかったり、最後の最後で進路先を変えたりと、私の高校時代の学びには方針というものがなかった。

英語科に入ってすぐに後悔した。「よくわからぬ他人のことばを勉強して何になる」と思った。新入生歓迎会の飲み会で大先達にその疑問を思い切ってぶつけてみた。ていよくかわされた。後悔の念は増した。二年の頃、授業はほとんどさぼって自分でユング心理学ばかり勉強していた。心理学科に転科してやろうと思っていた。

しかし技能としての英語というのはまったく新しいチャレンジだった。ESSの課外活動でディクテーションとか暗誦とかは真面目に毎日続けた。悔しかったのだろう。コンプレックスに負けそうだったのだろう。どこかで自分の存在を自分で認めたかったのだろう。だから懸命に続けた。私の勤勉などそのくらいのものだ。

英語を勉強する者の常として留学に憧れた。大学で留学奨学金を得ればなんとかなるかもしれぬ。だが事務官はそれでも自己資金で最低100万円は必要だと冷静に告げた。

アルバイトを詰めに詰め込んだ。しばらく必死で働いた。グランドでソフトボールをしている奴の気が知れなかった。そんな時間があれば時給いくら稼げるとか、勉強がどれだけ進むとか計算していた。私の目的合理性がここで強化された。

しばらくすると20万円たまった。しかしため息をついた。この調子で100万円ためるなら、自分はためた時に人相が変わってしまっているだろうと思った。留学は諦めた。

悔しかった。英語圏で生活する人間はすべての時間が英語の勉強だと思い込んでいたからだ。金がないという理由だけでそんな人間に負けるのが嫌で嫌で仕方なかった。かくしてコンプレックスの強い力を得て、私は懸命に英語習得に励んだ。「留学する奴もやがては帰国する。帰国したら彼らの勉強のペースは落ちる。私はこのペースで勉強を続ければ、留学期こそは負けるかもしれないが、帰国後はかならず私が勝つ」と自分で自分に言い聞かせた。人に負けたくないという歪んだ根性だった。そもそも誰も競争などしていなかったのに。

大学四年次に割りのいいバイトを見つけた。そのバイトでなら院生生活も何とか自活でやってゆけそうだった。それまでサークルのESSで英語ばかりやっていて、肝心の読書をあまりやっていなかったことに気づいた自分は大学院に進学することを決めた。

修士課程1年目は何をやっているのか自分でもよくわからなかった。最初の半年は大学院を止めることばかり考えていた。後半は何を勉強していいのかまったくわからなかった。しかし冬に当時隆盛し始めていた認知科学のリーディングの本に巡り合った。ようやくディシプリンのあるまともな学問に会えたような気がした。修士論文はpsychology of readingの真似事をした。

毒食わば皿まで、と博士課程後期にも進学した(バイトもより割りのよいものを見つけていた)。科学的なアプローチでリーディングのプロセスを解明し、それによって教授法を導き出そうと思っていた。いや出せると思っていたし、出さなければ教育は遅れたままであるとすらも思っていた。ちょっと学問をして馬鹿になる典型だった。

ところがコミュニケーションの問題が起きた。早い話がつきあっていた彼女と別れたということだ。私は自分を言語の、ひいてはコミュニケーションの専門家だと早くも傲慢に思い込んでいた。それなのにこの現実は何か。しばらくするうちに心理言語学が、巧妙に作り上げられた知的ゲームのように思えてきた。心理言語学にリアリティを感じられなくなった。

そうやって煩悶していた冬、生協食堂の外を歩いていたら、ふと半年前に他研究科で学んだウィトゲンシュタインが言いたかったことが一瞬にしてわかったような気がした。妄想だろう。だが妄想こそは人にエネルギーを与える。私はウィトゲンシュタイン全集を即刻注文し、それを読み始めた。

心理言語学の発想からウィトゲンシュタイン哲学へと自分の発想が転換するのに一年半ぐらいかかったと思う。その間、論文などまったく書けなかった。やがてようやく習作を書き始めたが、もちろん周囲の反応は「それ何ですか?明日の授業にどう役立つのですか?」だった。私は教育実践・教育研究における哲学の意義を直観的には把握していた(少なくともそう信じていた)。だが具体的に説明できなかった。しかし私にとっての哲学は、別れによって生じた自分の穴を埋めるために不可欠のものでもあった。私は頑迷に我流で哲学を読み続けた。

やがて幸運なことにある大学で英語教師としての職を得ることができた。リベラルな学部だったので、自分で好きなことが勉強できた。途中仏教哲学にはまったこともある。やがて(当時流行していた)複雑系の議論に興味を持ち、ハイエクを読み始めた。寛容な留学をさせてもらい(というより自分勝手な留学だった)、デイヴィドソン哲学の面白さを知った(スピノザの面白さをも学んだのだが、こちらはまだ勉強できていない)。

やがて大学を変わり、教育学部に就職した。教育学部では勝手な哲学オタクであることは許されなかった。どうあっても博士論文を書けと厳命を受けていた。ある晩帰宅途中の電車の中で、チョムスキーによるデイヴィドソン批判を読んでいた。「これだ!」と思った。この対立を軸に、応用言語学のコミュニケーション能力論を描きなおせばなんとかなると直感した。そこから博士論文にかけての勉強が本格的にスタートした。

その頃私は結婚して数年目だった。最初の頃は夕方には大学を出て早く帰宅していた。週末の休みは二人で街を歩いていた。

だがやがて仕事が増え始めた。それと同時に私の野心もふくれあがりはじめた。私のコンプレックスはまだ解消されていなかったのだろう。次々に仕事を引き受けた。大学行政の仕事も多くなった。専門科目を教えることの難しさがわかるにつれ、授業の準備時間も長くなった。

往復三時間以上の通勤時間を厭い始め、私は「合理的なシステム」を編み出した。週二日(時に三日)大学に泊まって仕事をし、残りの日は早く帰って妻と時間を過ごすというやり方だ。通勤による疲労のことを考えても、宿泊による長時間の集中的な仕事という点で考えても合理的だと私は信じて疑わなかった。

だが私が泊まった晩、妻はいつも長電話してきた。私はそれなりに愛想よく応えていた。しかしそのようなおざなりの会話を彼女は欲していたわけではなかった。彼女はおそらく人間と人間として空間と時間を共有したかったのだろう。だが、小さい頃から個室にこもり勉強をすることに慣れきっていた私は彼女のそんな欲求がわからずにいた。

結婚から五年後、幸せな関係は不幸な破局に終わった。離婚時私は怒っていた。怒ることによって自分の正しさを不問の前提としたかったのだろう。あくまでも自分は真面目で勤勉に仕事をする正しい男である、と思っていた。言うまでもなく、これは最低の野郎である。だが私は最高を目指して働く仕事人だと思っていた。だから離婚して半年間、博士論文が完成するまでは、私はごく限られた親友以外には離婚のことは伝えなかった。同僚には博士論文の完成の目処がついて初めて知らせた。途中で同僚に伝えると仕事人としての自分が崩壊してしまうと私は恐れていた。

離婚後私はすぐに次の合理的なシステムを作った。大学の近くに居を構えた。大学に泊まらずとも朝から晩まで仕事ができた。食事は生協食堂に任せた。朝8時に研究室に着き、昼食と早めの夕食をはさんで夜10時、11時まで働いた。深夜12時を越えて働くこともめずらしくなかった。出張仕事も多く入れた。土日はほとんどが出張だった。出張のない週末は、土曜に働き、日曜に教会に行った後働いた(私は離婚の苦しさからキリスト教に救いを求めていた)。毎日毎週毎月毎年、体力が尽きるまで働いた。どこかで仕事だけが自分の人生でしかないことを察知していたのだろう。外では「よく働くいい先生」という世評を欲しながら。

しかし生身の人間は「合理的なシステム」だけには耐えられない。離婚前から発症していた鬱病は、大学の近く居を構えてからも時折私を苦しめた。全身疲労がはなはだしく、キーボードに載せた自分の腕が鉛のようだった。日内変動ということで特に午前中は疲労感と希望の喪失で授業以外はほとんど何もできなかった(面白いもので、授業に出るとどこか「面白がってもらおう」と何とか身体が動いた。ただ時にはとてもしんどく、90分間ほとんど椅子にすわったままというのも何度かあったが)。本当に苦しい時は音楽も聴けなかった。方々で義理を欠いた。年賀状の返事を出さない(というより出せない)失礼を私はどれだけ多くの方々にしたことだろう。鬱病の経験のない方には理解しがたいかもしれないが、本当に苦しい時は、何もできない。健康な自分なら1分でできることの存在が、できない自分を苦しめ続ける。30分も1時間も、時には数日も。

昨年は7月に疲れがどっとでた。全身疲労。日内変動。授業はなんとかできるが本が読めない。読んでも頭が真っ白になって頭に入ってこない。複雑な事務仕事ができない。頭が回らない。脳を含む全身が徹底的に疲れ果てていた。秋になるまでその疲れを私は引きずってしまった。

そして今年の7月。またもや同じ症状に襲われた。考えてみれば昨年と同じような生活をしている。一月は年賀状の返事書きを終えないうちに長期出張、さらに複数の短期出張、2月に学会発表、大学院と学部の入試、複数の短期出張、3月は各種年度末事務書類提出、長期出張、複数の短期出張、論文投稿。ここらで実はヘトヘトなのであるが、4月に新入生が入ってくると張り切ってしまうのが外面の良い馬鹿である。お互いの緊張の中での授業やゼミ。しかし二つの長期出張、一つの学会講演。5月の連休は遅れた仕事を取り戻す時期である。そしてまた長期出張、複数の短期出張。6月で梅雨の低気圧に身体が重く感じられる頃、また長期出張と短期出張、そしてきついのが月末の学会発表。この学会は所属大学が深く関与しているから、ぜひとも発表しなければならない。しかしもちろんのことながらいいかげんな発表はできない。そこで疲れきったところに今年は原稿用紙40枚の原稿を書かなければならなかった。それが終わって長期出張。さらに別箇所から緊急な原稿依頼。これが終わったあたりで、私の頭は真っ白になっていた。疲労が全身を襲った。

去年にこりて私はひたすらスローダウンした。研究は全く断念した。授業は時々頭が働かなくなるがこれまでの経験で何とかやりこなした(ひどい教師だ)。行政では迷惑をかけた。穴の多い仕事をしかも締め切り後に何度も出してしまった。メールの返事をはじめとして、いたるところで義理を欠いた。それでも何もできなかった。夕方6時には大学を出て、家でひたすら静養した。テレビも音楽も読書もしばらく身体が受けつけなかった。睡眠障害なのか、ひたすら寝られる夜もあれば、一晩中半覚醒のままの夜もあった。

昨年よりは早めにかかりつけの医者に行った。去年と同じ薬を処方された。自助努力としてもビタミン・ミネラルなどの効果的な摂取を心がけた。すこしずつ、全身の鉛が軽くなってきた。朝もまともな状態でいることができるようになってきた。今はおそらく普通の体調に戻っていると思う。最悪の時期と比べると、全く別の人間、別の人生だ。言い古されたことだが、健康ほど大切なものはない。

この駄文も実は家で、リハビリ代わりに書きためていたものだ。大半が自己正当化や自己憐憫になっているだろうが、それでも書く事で多少は自分の半生あるいは生き方を振り返ることができる。それに若い人がこの駄文を読んで、少しでもこのような生き方の愚かさを学び、自らは断じて避けてくれればそれは望外の喜びではないか。

とりあえずここで仕事中毒というほどの私の真面目さと勤勉さについてまとめてみる。
根本は幼少の頃の育ちである。小・中・高の頃は家庭の不和から逃げるためである。部屋にこもって勉強すれば学校で他人から認められたからだ。家族からの無条件の認証ではなく他人からの条件付きの認証をよすがにしていたのだろう。大学の学部時代もコンプレックスから勉強していた。大学院時代は自分の欠損部分を埋めるため勉強した。
第一の職場で自由に勉強したのは、喜ばしい間奏曲のようなものだ。
現在の職場に変わってからは博士論文を期日までに完成させるためにひたすら勉強した。
離婚してからはおそらく自分の空虚さを忘れるため、そして外からの世評を得るために、仕事ばかりをした。

もちろん私の仕事(研究・教育)がすべて私の不全感を解消するためになされているというのも極端な見解である。研究と教育には、それぞれに他では得られない充足感がある。まず読書を通じて自分の知的世界がどんどん深く広く複雑になってゆくことは純粋な快感である。また授業や書き物を通じて、他者と結びつくことができるということも喜びだ。学生さんとの面談ではむしろ私の方が学んでいるぐらいだ。だから、私は仕事のし過ぎによって自らを壊しているが、仕事自体からは生きる意味をもらっている。その意味では私は自分にとってこれ以上ない幸運な職業選択をしているといえる。ただその職業生活において私が何かを歪ませているのだ。

ともあれ仕事中毒は進行し、二年連続同じように体調を崩した。
今回は特に、何もせずに、ただぼんやりするしかできなかった。
でもきっとそれが大切なことだったのだろう。
私は「何か仕事をする」ではなく「ただ存在する」という生のあり方を学び始めている。

ただある場所にいる。
特段何をするわけでもない。というより何をせずともそれだけでくつろぐ。
そんな「存在」の幸福を私はあまり知らなかったのではないか。

ぽつねんと、ただいる。あるいは在る。

いずれにせよ、ただ在ろうとすれば、おのずとその周りの世界は美しい世界であることを私たちは望む。なぜなら私たちは世界の中に存在する以外のことをしていないのだから。かくして人は部屋を整え、何も生産しない飾り物を置き、やがては枯れるだけの生花を活け、やがては伸びる庭を手入れし、そうしてぼんやりと座る。語り合う。あるいは語り合うこともせず、ただ共にいる。これは確実に人生のあり方の一つである。

しかし私はこの存在という人生の喜びをほとんど知らなかった。それどころか、存在を犠牲にして仕事の生産性を高めることばかりに血道を上げてきた。無論、この合理的な態度は近代社会に必ず伴うものである。合理的な仕事がなければ、私たちは高層建築に昇ることも、飛行機を利用することもない。

だが時に仕事は存在を敵とみなす。あるいは無能だとみなす。

逆に、存在からすれば、仕事は、時に自分たちを侵食し否定する敵に見える。あるいは有能で正しすぎるから、どうしても好きになれないと思ってしまう。

だが象徴的な意味での<男>と<女>が敵対関係にあるのではなく、相補的関係にあるように「仕事」と「存在」は相補的関係にある。

相補的といっても先行するのは存在である。存在こそは私たちの生の目的である。仕事は存在に奉仕する限りにおいて認められる。仕事が存在に取って代わることはない(ちょうど存在が仕事の代わりはできないように)。仕事の暴走が存在を損ねることはあってはならない。それは大きく言うなら地球に住む生物としてやってはならないことである。

話が大きくなりすぎてしまったが、私の仕事が中毒のように暴走し、私の存在を損ねるというのは、実は私自身の問題だけではない。バランスを失った私は、気がつかないうちに、周りの存在を損なっているだろう(早い話が私は元妻を損なった)。それは周りへの過剰な要求によって損なっているのかもしれない。何気ない瞬間に私が不要に緊張した顔を見せていることによって損なっているのかもしれない。乱雑な部屋(というよりゴミ箱のような部屋)を学生や同僚に見せることによって彼/彼女らの正常なバランス感覚を損なっているのかもしれない。親切な彼/彼女らは言う。「いや、先生はお忙しいですから、こんなになってもしかたないですよ」。いや違う。心が亡びているだけなのだ。必要な物が自分から最短距離に乱雑に置かれた部屋の合理性は実は高い。その仕事の合理性によって、存在の喜び、存在の美、ただその部屋にいることの幸福を、すべて忘れきっている私の歪が彼/彼女らにも伝播しているかもしれない。


私は生き方を変えなければならない。
たとえ少しずつにせよ。


リハビリを兼ねて部屋の大掃除をした。
散らかされた物やゴミを一つ一つあるべきところに収めてゆくことは、大げさに言うならこれまでの業を一つ一つ消してゆくことのようにすら思えた。
部屋は前よりはましになった。
いつまで続くか。

それはひとえに私が存在の美をどれだけ心から感じることにかかっている。

ただ在ることの至福を私はいつになったら学べるのだろう。

仕事で存在を忘れようとしてはいけない。
存在の欠損を仕事で補おうとしてはならない。

互いに異なるものとしての存在と仕事を共に受け入れなければならない。
そして仕事を存在に調和的に奉仕させなければならない。

人間の価値は仕事にではなく、存在にある。

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