2009年12月1日火曜日

工藤信夫 (2000) 『心の病とキリスト者の関わり』いのちのことば社

「べてるの家」について知るにつれ、自分がこれまでほぼ無批判的に肯定していた近代的発想、進歩の思想、上昇志向、正しさの概念がどんどん揺さぶられてきます。

だからといってこれらの考えを全否定して、正反対のベクトルにのみ向かうような愚かなことは考えていません。ただ、人間は上へのベクトルと下へのベクトルの両方を知らなければならないということは最近よく考えています。


この本は私が所属する教会の貸出用本棚で見つけたものです。


一部の人は、宗教や信仰がすべての問題を解決するとか言いますが、私はそのよう考えには賛同できません。所詮人間が認識したにすぎない「問題」を「すべて」「解決」することが全知全能と形而上学的に規定される神の視点からの義にかなうことかは私にとって大変疑わしいことのように思えます。

いや、そのように難しい話をせずとも、心の病といった「問題」も、少なからずのの教会が扱いかねています。そもそも牧師や信仰者自身が心の病にかかることも決して珍しくはありません。

私の理解 (誤解) するキリスト教とは、人間に神という上へのベクトルを教えると共にその上には決して到達できないことを理解させ [=旧約聖書的な教え]、かつ神から離れるという下へのベクトルからも人間は離れられないがその下に向かうベクトルにさえも救いはあること [=新約聖書的な教え] を教えるものです。

なんだか難しい言い方になりましたが、私が言いたいのは、人間は上へのベクトルと下へのベクトルの両方に引き裂かれていて、そうして引き裂かれている限り ―つまりは上か下へのベクトルのどちらか一つだけに従わず、両方のベクトルに従い矛盾を抱え込んでいる限り― 救われるのではないかということです。神を知り神ならぬ自らを痛感し、それゆえに神を希求し神ならぬ自らと隣人を愛する限り、人間は救われているのではないかというものです。

うーん、ますますわかりにくくなりましたね (笑)。


それでは口直しに、同書に見られた素晴らしい言葉をお読み下さい。



この本の著者は、精神科医でありながら (あるいは良心的な精神科医であるがゆえに)、精神医学の治験としての診断が、そのまま患者を救うことにはつながらないことをユングの言葉を借りて述べます。患者には、いや人には、物語という「意味」が必要なのです。



臨床的診断はそれが医者に一定の方向を与えるので重要である。しかし、診断は患者の役には立たない。決定的なものは物語である。というのはそれだけが人間の背景と苦しみを示し、その点でだけ医者の治療が作用しはじめることができるからである。
(A・ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子共訳『ユング自伝 1』みすず書房、182頁)



その「意味」とは、必ずしも通俗的なわかりやすさをもったものではありません。理屈で割り切れるものでもありません。心身の深いところで感得され伝わるものなのでしょう。その「意味」を伝えるものは「正論」ではなく「愛」と呼ばれるものなのでしょう。



わかっていて止められないのです、浅ましいと思いながら執着するのです。どうでもよいことに意地をはるのです、この人間の愚かさ、弱さ。それに甘えてはなりません。しかし、道理の通った正論でこの弱さをさばかれてはたまらないのも事実です。正論とは、道理は通っているが人間に届いていないせっかちさです。道理は通っていないが人間に届いているゆるやかさ、それを愛と言います。道理が通っていないという理由でこれを斥けてはなりません。人間の弱さに対する洞察において、正論は遠く愛に及ばないのです。
(藤木正三著『灰色の断想』「正義と愛」ヨルダン社、37頁)



しかし「意味」とて「愛」とて、人間的な問題のすべてを解消することはないでしょう。宗教も医学もあるいは教育も、人間が苦しむ問題の減少は目指せても根絶は目指せません。いや目指すべきではないのかもしれません。宗教も医学も教育も、人間が人間を超えることを教えるのではなく、人間が人間であることを教えるのではないでしょうか。



心理療法の最後の目的は、患者を(人間に)あり得ない幸せな状況にすることではなく、彼に苦悩に耐えさせる強さを可能にさせることである。
(C・G・ユングのことば。本書295頁)



人間が人間であるということは、神から隔絶された存在であるということです。それにもかかわらず神を知っている (あるいは予感している) ことから人間的苦悩は始まります。しかしその苦悩を引き受けることこそが人間の救いではないでしょうか。



存在への勇気は、受容されるべきでないにもかかわらずなお受容されたものとして自己自身を受容する勇気である。 ・・・ 受容を受容する勇気をうる資格を与えられているのは善人でも賢者でも敬虔な人でもなくして、これらすべての資質に欠けていてみずから受容されるべきでないことを知っている人々である。
(ポール・ディリッヒ著、谷口美智雄訳『存在への勇気』新教出版社、221-222頁)



日本文化に親しむ者は「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」を思い出すでしょうが、キリスト教的にはやはり新約聖書『マタイによる福音書』5章3節を思い起こすところでしょう。



心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。(新共同訳)

Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven. (King James Version)

God blesses those who are poor and realize their need for him, for the Kingdom of Heaven is theirs. (New Living Translation)

Selig sind, die da geistlich arm sind; denn das Himmelreich ist ihr. (Luther Bibel 1545)

Glucklich sind, die erkennen, wie arm sie vor Gott sind, denn ihnen gehort die neue Welt Gottes. (Hoffnung fur Alle) [ウムラウトが3カ所ないことをお許しください]




「心の貧しい人々」とは少し理解しにくい表現かもしれませんが、今のところ私は「神から離れていることを痛感し悲嘆にくれる者」といったように理解しています。自らが善人でも賢者でも敬虔な人でもなく、金持ちでも権力者でも才人でも麗人でもないこと、あるいは仮に自分がそれらしき者に見えたとしてもそれは虚妄に過ぎないことを熟知していること ― これこそが人間らしさではないでしょうか。






2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

突然のコメントをお赦し下さいませ。私は愚か者ですから工藤先生がおっしゃる事を難しいと考える事が時々あります。しかしながら、その旨を直接、工藤信夫先生にお手紙で差し上げますとお返事を必ず下さり、私にも解りやすくご解説下さるのが有り難い限りです。本当に霊的な成長を望んでいらっしゃるので、ご多忙の合間を縫われお手紙を下さいますから、感謝です!個人的なコメントで失礼致しました。

柳瀬陽介 さんのコメント...

匿名さん、
工藤信夫先生を私は個人的には存じ上げておりませんが、やはりすばらしい方なのですね。
寒く、暗い季節ですが、温かい光がさしますように。
2013/12/09
柳瀬陽介