2009年12月9日水曜日

12/12-13 甲野先生と森田さん(および名越先生)のセミナー開催

甲野善紀先生と森田真生さん (および名越康文先生) のセミナーの案内を再度します。


甲野先生が森田さんからのメールの一部を公開していますので、ここでもその一部を引用します。このセミナーで目指そうとしていることの一部がここからでもわかると思います。
http://www.shouseikan.com/zuikan0912.htm#1



最初の引用は「ことば・コミュニケーション・私」に関することです。


10月21日
甲野先生

今日の綾瀬までの車中の会話は非常に楽しく、本当にあっという間に時間が過ぎ去ってしまいました。

ことばというのは不思議なもので、私の発したことばが先生の中に受け入れられ、そのとき私のことばが先生のなかで響く「音」に私は耳を澄ませ、私はその音色に導かれるようにして、また次のことばを発するのです。

私は、私のことばが先生の中で生み出す音を通して先生を知り、またその音色を通して私自身のことばを知るのです。

ですから、今日の私が、先生でない別の方と、同じ時間同じ電車の中で、同じように会話をはじめたとしても、おそらくまったく違った展開になったでしょう。

そうしてみると、今日の対話の間、果たして「わたしがしゃべっていた」ということが正しいのかどうか分からなくなってしまいます。
(後略)


コミュニケーションに関して少しでも深く考えたことがある人なら、上記の森田さんの述懐は得心がゆくことでしょう。

孤立し隔絶した個体が、予め標準化された情報を符号化し、別の個体がその符号を解読するといった「通信機器的なコミュニケーション観」しかもたない人なら別ですが、ことばにより関係が拓かれ相互がそれぞれに自己を見出す豊かな対話を体感している人なら、上のコミュニケーション観はぴたりと理解できるはずです。



追記 (2009/12/10)

この記事は昨日の昼休みのほんのわずかの時間に書いた文章なので、森田さんが「音」について書いていたことについて言及することを忘れていました。

上の引用で森田さんはことばを、活字のように標準化された記号として捉えておらず、身体的に感じる「音」あるいは「音色」として取り入れています。この相手のことばの音もしくは音色の身体性こそが、森田さんの理解や思考や感情を引き起こしているわけです。さらに、そこで引き起こされた理解や思考や感情は、森田さんのものとも相手のものともつかない、頭蓋骨の中に孤立した「個人」を超えたものだと森田さんは言っています。

この見解は内田樹先生の最近のエッセイの一節を思い起こさせます。内田先生は、読むことと聴くことの身体性を強調し、「身体的体験の同調」を通して「内側から『生きる』こと」こそが読むこと・聴くことの根源であると述べています。そのように身体で読むこと・聴くこと人間の経験を広げ、その人に成熟をもたらすと書かれています。



教育の目的は子どもを成熟させることであり、成熟とは、「どうふるまっていいかについてのガイドラインがない状況にも対応できる能力」のことであるという「いつものお話し」をする。
それは対人関係においては「その人がなにを求めているのか」を言い当てることである。状況においては「その状況がどこからどこへ向かおうとしているのか」、文脈と趨勢を言い当てることである。

この能力を涵養するためには経験知を蓄積するだけでは足りない。

自分の経験にはおのずと限界があるからである。

他人の経験もまたおのれの経験知に取り込む必要がある。

自分の中には自生していない想念や感情、欲望や考想は「取り込む」必要がある。

「取り込む」というのは分類したり標本化したりすることではない。

それを内側から「生きる」ことである。

「感情移入」といってもいい。

物語を読むのも、他人の話を聴くのも、他人の人生を内側から生きるための好個の機会である。
「感情移入」という言い方をすると、私の「感情」だけが身体をするりと抜け出して、他人の身体に入り込み、その感情に同調する、というような風景を想像する人がいるかもしれないが、それは誤りである。

感情移入といったって、感情だけなんか取り出すことは人間にはできない。

あらゆる感情は身体経験を随伴している。

感情は眼に見えないし、手では触れられないが、身体経験の多くは眼で見えるし、手で触れることができる。

それゆえ「再演」することができる。

感情移入とはなによりもまず他人の内側で起きていることを身体的に再演することから始まる。
そこからしか始まらない。

場合によってはそこで終わる。

それでもよいと私は思っている。

書物を読むというのは理想的にはその書き手の思考や感情に同調することであるけれど、よほどの幸運に恵まれないかぎり、そんなことは起きない。

私たちにできるのは、文字を読むことと音声を聴くことだけである。

書き手の脳内に何が起きたのかを知ることはきわめて困難であるけれど、書き手がその文字を書き記していたリアルタイムにおいて書き手が「その文字」を視認し、「その音声」を聴取していたことはまちがいない。

その文字を見つめ、音を聴く限り、読み手と書き手は「同じ経験」を共有している。

「作者は何が言いたいのか?」というようなメタレベルに移行した瞬間に、「同じ経験」の場から私たちは離脱してしまう。

あらゆる感情移入はまず身体的体験の同調から始まるべきだと私は思う。

そのためには「理解する」や「解釈する」や「批判する」より先に「見る」と「聴く」にリソースを集中すべきだと私は思っている。

たいせつなのは外部からの入力を自分の脳内に回収して、分類し、整序してしまうより前に、手つかずの外部入力「そのもの」に、「生」の入力情報に、身体的に同調してみることだと思う。

そのようにして経験知をゆっくり積み増ししてゆくことが教育の基本だろうと私は思っている。
成熟するとは要するに「さまざまな価値や意味を考量できる多様なものさしを使いこなせる」ということである。

そのような「複数のものさしの使いこなし」は「単一のものさし」をあてがって万象を考量しようとする「オレ様」的態度とはついに無縁のものである。

子どもは最初一つの「ものさし」しか持っていない。

生理的に快か不快か、それだけである。

それ以外の「ものさし」はひとつずつ自作するしかない。

現実原則についてフロイトが言ったように、「短期的には生理的に不快であるが、少し長いスパンで考えると、安定的に高い快をもたらすもの」を考量できるようになると「次のものさし」が手に入る。

それを空間的・時間的に拡大してゆく。

そして、やがて「自分にとっては不快であるが、同時的に存在する多くの人々に安定的に高い快をもたらすもの」や「自分が死んだあとに未来の人々に安定的に高い快をもたらすもの」を「自分の快」に算入できるようになる。

それが「だいぶ大人になった」ということである。

教育は子どもたちの自己利益の拡大のための機会ではない。

それは子どもたちを成熟させるための機会なのである。

というような話をする(だいぶ違うけど)。

http://blog.tatsuru.com/2009/11/28_1003.php


言語コミュニケーションの身体性はもっと強調されるべきかと私も思います。

(以上で追記は終わり)

※この追記にもさらに追記が必要となりました。新しい記事をお読み下さい。おそまつ。



次の引用は、いわゆる「エリート」についてです。


10月22日
(前略)

このように考えてきますと、真のエリートとは「この先は行き止まり、の先」を描き出すような人物であるということが言えるように思えます。

現代社会において「エリート」と言ってもてはやされているのは「この先は栄光の道」をただ進むだけ、の人材であるようにも思われます。

しかし、「この先」が描かれている道を着実に進むというのであれば、真のエリートでなくてもできるはずです。

一方で、「この先」があるとはとても思えないような道の、先。

それを描き出すというのは、ものすごく困難な作業であり、極めて創造的な作業なのです。

私は数学を通じて「この先は行き止まり、の先」を次々に描き出して行きたいと思っています。

そうして、少しずつ私たちが暗黙のうちにかけられている様々な「暗示」を解いていきたいと思うのです。


これも名利のためでなく、深く感じられる「意味」のために創造的な仕事をしている人ならただちに同意するような見解ではないでしょうか。


最後の引用は数学と音楽についてです。


11月10日

先日の先生の「消す」という話しを伺って以来、わたしのなかでもいろいろと変化が起きつつあります。

私は最近「数学と音楽」ということについていろいろと考えを巡らせております。
そして近頃、沈黙こそが究極の音楽なのではないかという気がしています。
「沈黙」とここで言うのは、「音を出さない」という意味での消極的な沈黙ではなくて、なにかもっと積極的な意味での沈黙です。

音を出す(これには普通の意味での音楽の演奏、あるいはことばを発するという意味での「語り」ということも含まれますが)、という行為の極限には音のない沈黙があり、その極限たる沈黙こそが数学の目指すところであるように思えてならないのです。

つまり、数学は沈黙を演奏するのです。
(沈黙の中でこそ、人の聴覚はもっとも鋭く機能するのですよね。)



武術の「消す」や数学の「沈黙」については私は語り得ませんが、音楽についてなら、音楽を糧にしてこれまでの人生を何とかやり過ごしてきた私は少しは語れるでしょう。

音楽表現とは静寂を切り裂き沈黙を否定することです。音楽表現は音の生成により静寂を部分的に浸食し沈黙を破ります。しかし私たちは音楽において、生成された音と同時に、生成された音によって逆説的に示されるようになった音の不在 ― つまりは新たな静寂あるいは沈黙 ― を聴き取ります。音楽を聴くということは、ある意味、音の存在によって示される音の不在を聴くことです。

音の不在を聴いていることがよく自覚されるのは、乱れたリズムやテンポの音楽を耳にする時です (音楽の本質を損なわないで単純化するために、ドラムソロ演奏を考えて下さい)。リズムやテンポが不調な音楽演奏に接すると、私などはどうも身体の動きが乱されて不快になります。聴くべき静寂が聴けず沈黙の間が悪いからイライラします。

逆に優れたドラムソロを聴いていますと、演奏によって引き起こされた静寂・沈黙の時間は本当に楽しむことができます。そのような静寂・沈黙には独特の味わいがあります。ある意味、音以上に雄弁です。音楽とは音の存在と不在を楽しむことと言えるかと思います。

まあ、これは単なる音楽ファンの戯言ですが、「沈黙を聴く」といった言葉をキーワードに、音楽・武術・数学・コミュニケーションなどについて討議が深まれば、これは非常に面白い知的体験になるのではないでしょうか。いや身体で感じられる知の体験といった方がいいのかもしれません。


ご興味のある方はぜひセミナーにご参加下さい。



12/12(土) の福岡県福岡市でのセミナー


12/13 (日) の広島県福山市でのセミナー







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