2010年12月12日日曜日

映画『ラストサムライ』(The Last Samurai)

映画『ラストサムライ』(The Last Samurai)を初めて見た。完全なフィクションで、誤った時代考証やあり得ない設定や展開などあげつらうところは沢山あるが、そのような瑣事にとらわれずこの物語が語ろうとしたことをつかむべきだろう。原作者、映画監督、そして俳優を始めとしてこの映画に関わるすべての人が表現したかったこととは何か。

しかし二時間半あまりの映画表現が伝えようとすることを、ここで私が語り尽くせるはずもない。だからここでは一点だけについて書く。

それは「死をもって生を完成させる」ということ。

しかし、これは死に急ぐということでは決してない。そうではなくて「生の限りを尽くして死を迎えることで生を完成させる」ということ。

映画の中の台詞で(うろ覚えだけど)"Do what you can until your destiny is revealed."というのがあったはずだが、それに近く「成しうることをただひたすらやり尽くさんとする中で死を迎え、それをもって自らの定めとなし、自らの生を終えること」と言うべきか。

あるいは映画の最後で渡辺謙演ずる勝元について、"Tell me how he died."と天皇に問われたトム・クルーズ演ずるネイサンが、"I will tell you how he lived."と答えるくだりが象徴しているように、「生き尽くすことの果てにあるのが人間の迎えるべき死であり、そのような死を遂げた者の生こそを私たちは尊ぶ」、と言うべきだろうか。

ある僧侶が言っていたのだが、自分が死ぬということほど確実なことはない。私たちは、この仕事がうまくいくだろうかとか、この人間関係がどうなるだろうかとか、いろいろなことを悩むが、それらはどれもそうなるかならぬかはわからぬこと。ただ確実にわかっていること、避けられぬ定めこそは、自分が死ぬこと。なのに現代人は、ひたすらに死を忌避し隠し忘れ去ろうとしている。しかし、毎日、自分はどう死のうか、つまりは、今この時に死んでも自分の人生が完成されたものであると言い切れるほどに、生を充実させるにはどうしたらいいのか、ということを切実に考えることは重要なのかもしれない。

菅野覚明 『武士道に学ぶ』によれば、武士道というのは、(1)実際に斬り合い・合戦が絶えなかった時代、(2)帯刀はしても斬り合いが事実上なくなった時代、(3)新渡戸稲造によってキリスト教的解釈によって考察されるようになった時代、で大きく認識が異なる。
現代日本人が「武士道は・・・」と言う場合、多くは(3)の新渡戸稲造解釈をとっているが、それは(1)の時代の武士道とは大きく異なる。斬り合い・合戦で実際に命を落とすことが身近にあった時代の武士道は、徹底的な現実主義の冷酷さと気迫に充ち満ちたものである。その後、(2)の時代になり、文にも長けた武士が、人が闘い殺し合わなければならないことを思想的にも深めたが(例えば「逆縁」の考えなど)、『ラストサムライ』の武士道は、(1)の斬り合い・合戦を日常としている時代の武士が(2)の思想をもっていたという想定で描かれているように思われる。

闇夜の敵の急襲や合戦のシーンは、まさに一切の限定なしの闘いであり、「武芸十八般」という素養は、こういった現実を基にしてできてきたのかと思わされる。現代の「武道」の考えでは、剣道(剣術)をしない柔道家、柔道(柔術)をしない空手家、空手(当身)をしない剣道家などは「当たり前」であり、「忍者」と聞けば笑い出してしまうことが「常識」になってしまっているが、この『ラストサムライ』で(もちろん映画表現として誇張されて)描かれている殺し合いを見ると、そのような現代の「武道」観は武人としてはとうてい受け入れられないものとなる。そもそも試合の日時に合わせて闘う準備をするだけで、若さだけでやってゆける頂点を過ぎたら引退、という生き方自体が、武人的ではないと言えるだろう。

『ラストサムライ』の勝元は最後に討ち死にするが、それは人々に畏敬の念を喚起させるものであった(ただ、映画の描き方は大げさ過ぎる)。武人が死ぬこと、いやそれどころか合戦で負けて殺されることは、それ自体では恥ではない。人が死ぬことは必定だからだ。必定が恥だとしたら、人生の意味が崩壊してしまう。だからどう見事に死ぬか、どう自らの宿命を生き抜くかが大切になる。「潔い」でもなく、「諦めた」ものでもなく、自らの可能性の限りを尽くした上での死こそが、偉大な生なのだ。



買ったままで本棚に置いたままにしていたこの『ラストサムライ』のDVDを取り出したのは、昨晩見たK1グランプリでのピーター・アーツの負け姿に感動してしまったからである。この映画を見れば何かわかるかもと思い、取り出したわけだ。

今回のK1の一つのテーマは、セーム・シュルトをどう止めるか、だった。セーム・シュルト(37歳)は213センチ、136キロの大男で、K1グランプリを4回制覇している。今回、勝てば前人未到の5回制覇になった。しかしセーム・シュルトは、見る限り技術のある選手ではなく、体格の大きさだけで勝っている(ように思える)。今回、彼を止めるのは、これまた195センチ、126キロの筋肉の塊のようなアリスター・オーフレイム(30歳)かと思われていたが、実際に止めたのは192センチ、107キロとセーム・シュルトと比べたら一回り(約20センチ・30キロ)小さいピーター・アーツだった。しかもピーター・アーツは40歳だ。

ピーター・アーツは技術と気迫の試合でセーム・シュルトを判定で下したが、もはやその準決勝で彼は刀折れ矢尽きていた。だから決勝のアリスター・オーフレイム戦では一ラウンド開始早々に負けてしまった。

しかしなぜか私はその負け姿―リングの上に座り込んでしまったピーター・アーツ―に感動してしまった。有明コロシアムの観客もそうだったと思う。フジテレビのスポーツニュースは「新王者誕生」でアリスター・オーフレイムを主に取り上げていたが、私にとっては新王者よりも、新王者に無残に負けたピーター・アーツこそが英雄だった。私の記憶の限り、私は敗者に「よくやった」と慰めるように同情することはあっても、感動したことはなかった。それはなぜなのかと考えるうちに、『ラストサムライ』に手を伸ばしたわけだ。

昔日の日本は、ハリウッドにこのような映画を作らせるぐらいの文化をもっていた。ヒクソン・グレイシーも「サムライ」に憧れていた。だが、実際に日本に来てみたら「サムライ」は一人もいなかったと明言している。

しかし日本の文化の片鱗は現代日本にも残っているはずだ。実際、私もそのような文化を体現するような方に何人かお会いすることができたり、以前の武道・武術の達人の著作を読んだりして、日本文化の奥深さを感じることはある。とくに先日ある本を読んだが、その人が直接書いた言葉をそのまま読めることの幸せをしみじみと感じた。もしこれが外国語ならば、おそらく少々辞書を引いたとしてもわからない、あるいは隔靴掻痒ではないかと思った。

妙に誤解されてはいけないが、死を忘れぬ生、生と死の表裏一体性を身体で感じ取り、充実した生をまさに体現すること、こういった日本文化に対する敬意の念を忘れないようにしたい。「文武両道」というのは「進学校の生徒がスポーツでも頑張る」といった浅く短期的なものでなく、深く生涯を通じて追求するべきものだろう。少なくともそれが「サムライ」である。









おじさんは、今夜も、熱いぜwwwww





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