2010年12月20日月曜日

学校秀才と茂木久美子さん

学部一、二年生の授業では積極的に時事的な話題を「無駄話」として語るようにしています。その一つで山形新幹線の売り子さんである茂木久美子さんの話(『買わねぐていいんだ。』)をしました。JR東日本で売上ナンバー1の彼女は、仕事でさまざまな知恵を生み出していますが、中学時代はアルファベットを最後まで言えなかったそうです。

この茂木さんの例から「結局は、生きる知恵が大切で、学校の成績が優秀でも現実社会で知恵が湧かないと意味がない。現実社会での対応ができなくて『俺は/私は学校では秀才だったんだ』などと言っても惨めになるだけだから、学校で学ぶことと現実社会の知恵を結びつけるように今から心がけておいてほしい」といったことを述べました。

それを受けて、ある学生さんが次のような感想を寄せてくれましたので、ここに全文掲載します。


学校秀才なんて自慢したってみじめなだけ。「生きる知恵」をつけよというお話が印象に残りました。まったくその通りだと思います。

中学・高校時代、いわゆる「正しいやり方」で受身の勉強を必死にしていたせいか、私はどちらかというとテストなどの成績はいい方でした。そんな私に対して周りは「頭いいんだね。」という。そして、自分自身も「どんなもんじゃい。がんばって勉強してよかった。」などと思っていました。

しかし、自分が得たものはただテストのための知識だけで、「生きる知恵」ではありませんでした。そして、「生きる知恵」がつかなかっただけでなく、あれほど勉強して得たテストのための知識でさえも今ではもうほとんど忘れてしまっています。「生きる知恵」がどれだけ大切なものなのかということに今になってに気付き、過去の自分を後悔しています。

でも実際、多くの人が「学校秀才=頭いい・知恵がある」という式が当たり前のように成り立つものだと思い込んでいると思います。先日、ある美容師さんに「どこの大学生?」と聞かれました。私が「広大です。」と答えると、彼に「うわーすごいね、頭いいんやね。」と言われてしまいました。「いや、そんなことないです。」といっても「またまたー、良いくせに。」といわれ、かなり心にグサッときました。「いや、本当にそうじゃないのに…実際あなたの方が...」と心の中で呟いてました。本当にみじめです。

それでもやはり、世間一般では、特に学校ではそのように「成績がいい」ことが「良いこと」だと思ってしまう人が多いのは事実だと思います。自分もそう勘違いして後悔しているわけですが、残りの大学生活では受身の勉強ではなくいろんなものに自分から挑戦し、学び、視野を広げて、「生きる知恵」をつけたいです。そのうえで、自分が教師となったときに、どういうことが本当に必要なのか、大切なのかを生徒たちに伝えられるようになりたいです。生徒には自分のように「成績がいい=頭いい・すごいこと」とは信じてほしくありませんし、将来後悔してほしくありません。成績がいい生徒だけをちやほやするような教師にだけは絶対なりたくないと思います。



この『買わねぐていいんだ。』では茂木さんがコミュニケーションの達人であること、そしてそのようになれたのは、現実世界で他人の中でもまれて、いろいろな感情を経験したことであることなどがわかります。

言語使用の基盤はこのようなコミュニケーションの力にあると再認識させられた書でした。いずれにせよ、学校英語教育も現実世界の「生きる知恵」につながればと思います。

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