2010年12月7日火曜日

17歳と20歳が考える「考えること」

ほぼ日刊イトイ新聞で山田ズーニーさんが連載している「おとなの小論文教室」のある回に掲載された17歳の高校生の意見がめっぽう面白かったです。

この高校生は、どうやらそれなりの進学校に通い、吹奏楽か何かの部活動をしていながら、「自分で考えること」や「自分で感じること」を大切にしているようです。それだからこそ自分の世代があまり考えないことに危機感を抱き、彼なりの考察を展開しました。

以下、引用します。



僕たちの世代は、
「考える」ということが少なくなっている様な気がします。

もしかしたら、大学に行けば
「考える」人も増えるのかもしれませんが、
少なくとも今の僕の周りには、
そんな人は少ない様な気がします。

目の前に「やらなければいけないこと」がたくさんあって、
それをこなすので精一杯になってる感じです。
問題意識が無いというか‥‥。

(中略)

ひとつの考えが浮かびました。

それは、世の中には「ほぼ正しいやり方」が
出来上がっているのではないか、ということです。
山田ズーニーさんは
とっくに思っていた事かもしれませんが、
最近僕の考えている事なので、ご勘弁ください。

例えば受験。

「どうすれば受かるのか」を考える前に、
塾が「ほぼ正しいやり方」を提示してくれます。
その通りにやれば確かに受かるかもしれませんが、
それで良いんでしょうか。

(中略)

芸術関係の集団で出場するコンクールもそうだと思います
(特に学生のコンクール)。

吹奏楽部や合唱部など。
どうすれば全国大会に行けるのかという
「ほぼ正しいやり方」に、
いかに生徒たちを近づけさせるか。
より近づけば金賞、といった感じです。

(中略)

より高い基礎力を求められるが為に、
「考える」ことのできる余裕さえ無いのです。
それでは、表現までたどり着くことさえできません。
「どういう風に吹きたいとか無いの?」と
偶にいらっしゃる外部の先生に何度も言われましたが、
その時の僕等は意味も分らず、
笑って誤魔化しているしかありませんでした。
今考えれば、成程といった感じです。

受験やコンクールなどの競争社会では、
「ほぼ正しいやり方」が出来上がり、
それをこなすのに精いっぱいになり、
「考える」ことが減っているのだと思います。

http://www.1101.com/essay/2010-11-17.html



この記事を授業で紹介したところ、学部二年生が感想を書いてくれました。現在剣道三段の女子学生、M.N.さんです。

全文を引用します。


 
17歳からのメールを載せたWebページについて書きたいと思います。授業のときにもこの話はとても気にかかったのですが、それは「受験やコンクールなどの競争社会では、『ほぼ正しいやり方』が出来上がり、それをこなすのに精いっぱいになり、『考える』ことが減っているのだと思う」という箇所です。今まで言葉として意識したことはありませんでしたが、まさにその通りだと思います。ただし付け加えるとしたら、社会ではこの「正しいやり方」に沿ってさえいれば、間違えることはないと考えられている、という事でしょうか。

 クラシックの世界では、作曲者がいるのでまずはその作曲者の意図に沿わなければいけません。これを逸脱するのが「のだめ」流であって現実のコンクールではまず評価の対象にはなりません。ただしコンクール受けのするような演奏というのは、このいわゆる「ほぼ正しいやり方」にあたりますが、ある程度のところまでは評価されてもそれ以上は伸びません。結果を出すには一番てっとり早い方法ですが、そこに「自分」はありません。このような演奏は、少年のメールにもあるように、音楽の世界ではすぐに見破られてしまうことです。そして「のだめ」の強さもそこにあるのです。「自分」を表現する方法を知っているのですから、あとは楽譜を読み込み、作曲者と「対話」することによってそれまで枠からはみ出していた「自分」を納得させていけばいいのです。その過程は型にはまった演奏をするよりも何十倍も楽しいはずです。オーケストラやアンサンブルでは尚更です。「自分」をもった他者が何人もいるのだから、「対話」の数もその数だけあります。音楽の楽しさは突き詰めればそういった「他者」との対話にあるのだと思います。逆にいえば、そのようなことをしないただの「音の練習」に音楽の本質は存在しえない、と私は思います。

 勉強においても同じようなことがいえると思います。「ほぼ正しいやり方」に沿っただけのやり方で終えた受験には、結果の如何にかかわらず、何も残らないのではないでしょうか。何百時間も費やした受験勉強を終えたあと、手に入れたものは入学先(の学校)、、というのはまあそれはそれで(私も浪人をしているので…)めでたい事かもしれませんが、それだけじゃなあという気は拭えません。「理科で原子記号とか化学式とか化学反応式とか…習ったけど、『そもそも原子ってほんとに存在するの?』とかって1年間考え続けて、気づいたら受験も終わっていた。」という話は極端かもしれませんが、その疑問とそれを解決しようとする思考に、次の学習に続くプロセスがあるような気がします。実際、浪人時代に出会った友人には、そのような遠回りを繰り返してばかりの者も多く、彼らは私にとって「疑問の天才」でした。彼らと話すのは本当に楽しく、それは彼らが「自分の感性」、そして「他者の感性」を大事にしているからだと思います。「対話」というプロセスで答えを得たときの嬉しさはとても大きかったです。

 最後になりましたが、17歳からのメールにある、受験やコンクールなどの世界で子供たちの「考える」機会を奪っているのは、目先の結果を追いすぎる大人のエゴだ、とはいえないでしょうか。生徒をより良い進学先へ合格させたい、コンクールに入賞させたい、と思うことは、生徒の努力を結果に結んであげたいという理由があってのものだと思いますが、その結果は残念ながらその瞬間だけのものであるのも事実です。生徒がちょうど自分の目の前にいる、その時だけのものだと思います。「あと3偏差値だけ高い高校、大学にいれてあげればあなたの人生はもっと幸せになったわ」なんてことは火あぶりの刑に処させられそうになっても生徒には言いたくありませんし、教え子をそんな風に考える生徒に育てたくもありません。ただ、「考える」ことを身につけさせるかどうかで…と言いかけましたがおこがましいので、「生徒の『考える』機会を奪わない教師」になることで、生徒の人生、未来を豊かにしてあげることはできるのでは、という理想を私はもっています。
 
 私は物理が大の苦手で、テストは毎回赤点でした。ですが「考える楽しさ」や「他者との対話の楽しさ」を教えてくれたのはこの物理の教師で、彼は3年間で一度も問題の正解を教えてくれませんでしたが、大学で勉強をする上での、そして教師を目指す上での大きなヒントを与えてくれました。

 

いい感性をもち、観察力に優れ、きちんと考えることができる若者はやっぱりいるのだなぁと改めて思いました。

私も「生徒の『考える』機会を奪わない教師」であることを常に心がけたいと思います。










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