2011年3月21日月曜日

荒谷卓(2010)『戦う者たちへ』並木書房




【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。余震も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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福島原発の問題は、この文章を書いている時点でも予断を許しませんが、それでも日本国民に「なんとか対応できるのではないか」と安心をくれたのは、3月19日(土曜)夜の東京消防庁ハイパーレスキュー(HR)隊の佐藤康雄警防部長、第六方面消防救助機動部隊・冨岡豊彦総括隊長、高山幸夫・第八方面消防救助機動部隊総括隊長による記者会見でした。

自分たちが行ったことを丁寧な言葉でわかりやすく説明する佐藤康雄警防部長、冷静に説明を補う高山幸夫総括隊長、武人を思わせる無骨な言い方で淡々と説明する冨岡豊彦総括隊長の会見は、やるべき事をやるために日常から鍛錬を怠らず、与えられた場で最大の働きをなし終えた人間のみがもつ静かな威厳がありました。この10日間でまさに「マスゴミ」という蔑称が似合うようになってきた(少なくとも一部の)マスコミ記者陣も沈黙せざるを得ませんでした。

福島原発の様子を外野で見る(私も含めた)無責任な連中は「なにやってんだ」「今すぐ行けよ」などと好き勝手を言っていましたが、当然のことながら日本を守るべく日々訓練をしている強者は、一報を受けるや否や直ちにこの対応のためのシミュレーションを短期集中的に行い、3/19の活躍となったわけです。

無責任な外野は「命を賭して」などと簡単に言いますが、そのような者は現場に行けばすくんで動けません。あるいはかろうじて動いても、日頃から鍛錬していない人間など邪魔にしかなりません。

仮にそのような腑抜けが命令を下す立場に立ったとしても、そのような者は、徒に精鋭部隊を犬死させ、達成するべき目標を達成できず、遺族には直接目も合わせずに形ばかりのお悔やみを言うだけです。

東京消防庁を始めとして、自衛隊、警察、(および原発現場の職員)など福島原発の最前線で、日本を守るために戦っている人々は、「原子炉の冷却」という第一目的と「隊員の安全確保」という第二目標という、しばしば矛盾する目的の中で最善を尽くしています。

「隊員の安全確保」というのは、部隊が怖がっているからでは決してありません。この事故が今後どうなるかもしれず、この時点でも他にどんな災害が起こるかもしれず、ましてや今後どんなことが起こるかもしれない中で、何年・何十年もの献身的な訓練抜きではありえない精鋭の隊員を失うことは、日本全体の安全保障としてはできません。

加えて隊員とて人の子です。たとえ本人が死を覚悟できても、それと同じ程度まで家族も覚悟がもてるとは限りません。

記者会見で、もっとも武人らしかった冨岡豊彦総括隊長も、「もっとも大変だったのは」と問われると、感極まり目に涙を浮かべながらも必死にそれをこらえ「隊員・・・」と言って10秒ほど絶句しました。その後「隊員の士気は高く、彼らはよくやってくれました」と言いながらも、まだ目に涙を浮かべたまま「しかし家族に対しては申し訳ないことをした。この場を借りてお詫びとお礼を申し上げたい」とだけ言ってマイクをおきました。

東京消防庁の佐藤康雄警防部長、高山幸夫総括隊長、冨岡豊彦総括隊長は、日本を守る人々を代表している人物でしょう。彼らは自信を有しているものの傲岸でなく、冷静であるものの慈愛にみち、そして何よりも果敢に目的を達成します。彼らこそは侍です。近年、評価を落としていた日本文化の中にもこのような人物がいることを私も私なりに伝えたくて、昨日Three Samurai of Tokyo Fire Department's Hyper Rescue Squadという文章を書きました。

日本の侍は、日頃の備えに基づき、冷静沈着に作戦を立て、現場で果敢に行動し、作戦の成功を収めています。しかも冨岡豊彦総括隊長のように家族には「安全を確保しない限りは作戦を実行しない」と語り、家族を安心させ出動しました。彼らは日本を守るという国との約束と自らの身を守るという家族との約束も守りました。



この10日あまりで、私たちは国のあり方について大いに考えさせられています。一つ得心がいったのは、"nation"が「国」であり「国民」であるということです。高校生の頃の私は、"nation"という英単語を見たら、それは「国」という制度の意味である場合と、「国民」という人間の意味である場合があると習い、制度と人間というものがなぜ一つの語で表現されるのだろうと不思議に思っていました。"Nationalism"の訳語が「国家主義」にも「民族主義」にも収斂せず「ナショナリズム」とカタカナ表記にしかならないことにも居心地の悪いものを感じていました。

もちろん「私たち」という存在には様々な規定が可能です。しかしこの国土に住むという限りにおいて「国民」です。そして「国民」あるいは国民の努力の総計こそが「国」です。





以下は、この「国民」=「国」を守る自衛隊で特殊作戦群初代群長となった荒谷卓(あらや・たかし)氏(現在は明治神宮武道場「至誠館」)の著作『戦う者たちへ 日本の大義と武士道』からの抜粋です。私は地震発生後の3/16(水)に広島市内に出かける用事があり、その帰りに大型書店に寄り、この本を偶然に目にして買い求め一気に読了しました。

「国民」=「国」を守るということを考え ―ある意味このことはこれまでの日本の「進歩的な」言論の場でタブーですらありました―、その中で「侍」であること、「武士道」「武道」「武術」の意義を考え直すために、以下のまとめをします。



■国を守る方々の覚悟と精神的支柱


今回でほとんどの国民は自衛隊・消防隊・警察などの国を守る方々のありがたさを知りました(あるいは改めて確認できました)。しかし、これまで私たちは国防についてほぼ思考放棄していたことは上記したとおりです。それどころか、むしろ国防(特に自衛隊)を志す人に対して冷たい視線さえ投げかけていました。


「人の命は地球より重い」などという社会風潮の中で教育された者には「自分のために生きることが正義」であり、「自己の生死を問わず行動する」などと言った日には犯罪者扱いさえされかねない。(7ページ)


しかし国民・国を守るためには、相当の覚悟が必要です。


そうした社会では、自己保全のためではなく、他者の保全、そして社会の正義のために自己犠牲を覚悟して行動できる人間が希求される。少なくとも自衛官、海上保安官、警察官などは、それを使命として期待されている以上、武士道のような精神的支柱を必要としているのである。(8ページ


「自分の生命の危険すら顧みず」ということを実際に行うには(口でいうだけならどんなに簡単でしょう)、単なる組織の規則や権限による命令だけでは人間は動きません。覚悟が部隊の一人ひとりに浸透していなければなりません。


必要なのは、任務行動に際して、他人や自分の「死」に直面しても正義を貫き行動できる精神的支柱を備えた戦闘員である。ましてや、指揮官は自分だけでなく部下の生死に関しても責任を有する。部下が何のために人を殺し、自分の死を許容するのかについて、責任を深く自覚しなくてはならない。(9ページ)


「いやぁ、そんなに大げさに考えなくても、やるときは、やりますよ」という声に対して荒谷氏は経験から次のように言います。


「やるときは、やりますよ」などと言って、自分の生き方、死に方について具体的に肚決めをしていない者は、いざというときにうろたえる。自分の生き方に関わる肚決めは、事に直面するよりもずっと前に、自分自身で決め手おくべきものだ。(103ページ)




■各人が自己利益だけを追求する社会

このように自らを超えた国民・国という共同体を守るという公的な意識は、自己利益だけを追求する発想からは出てきません。現在、私たちの多くは、経済学的合理性ばかりを思考の枠組みとし、教育の現場でさえ自己利益の追求ばかり教えかねない勢いですが、人々が自分の利益だけしか考えないようになれば人間らしい社会は崩壊するでしょう。


ソロス氏が指摘しているように、これまで国家においては、民主主義が資本主義の暴走を抑制していたが、グローバル市場には市場原理と呼ばれる資本主義は存在しても、民主主義は存在しない。個人の利益が唯一絶対的な価値を持ち、公共の利益という考えは存在しない。国家の政治が、グローバル市場の原理に焦点をあてて運営されれば、その国は、富を獲得したものだけが生き残る社会へと変質するのだ。(35ページ)





■「自分のため」から「自分を超えて」

実は「公共のために」というのは、国防を仕事とされる方々だけに必要とされる精神ではなく、私たち一人ひとりも家庭・職場・その他様々の共同体で自分を超えるという発想を必要としています。ただ国防を職業とされる方は、この精神・発想をより確固としておく必要があります。

現代の私たちはよく「自己実現」や「自分探し」を語り、マズローの自己実現理論を引き合いに出します。マズローは人間は以下の順番で欲求の程度を高めてゆくと説明しました。


1 生理的欲求(physiological need)
2 安全の欲求(safety need)
3 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4 承認の欲求(esteem)
5 自己実現の欲求(self actualization)


しかし荒谷氏は、武士道はこのマズローの「自己実現の欲求」を超えた価値観を提供していると言います。


これに対して、武士道は、自己犠牲をも容認し、社会の幸福のために奉仕し貢献しようとする「自己超越の欲求」に基づく最高位の精神を目指している。(93ページ)




■身心を清澄にして実行の人となる

それでは「武士道」とは何か。スポーツなどでは「サムライ・ジャパン」などといった言葉を気軽に使うものの、現代日本人の多くは「武士道」あるいは「武」ということをきちんと考えていません。

私も人のことを言えません。しかしわずかなりにも私が様々な形で師事する諸先生方から武術を教えてい頂いている人間として言えることは、「武」とは、決して頭の中・机の上だけの知識では、自らの身心を澄ます実践であり生き方であるということです。

荒谷氏は武道と神道 ―神道についても私たちは思考放棄しています。外国からすればまさに不思議な国民でしょう― の密接な関係を踏まえて、武道とは感性を育て自然に戻ることかもしれないと言います。


日本の武道や神道は、人間の持つ感性の歴史と経験で築き上げてきたものであって、知識のマニュアル化ではない。逆に言えば、現代において武道や神道を学ぶ重要な意義は、知識の啓蒙作用によって失いかけた人間の感性を磨き、自然の普遍的原理に立ち返るということなのかもしれない。(54ページ)


あまり安っぽい言い方にならないように気をつけなければなりませんが、現代教育は言語化されマニュアル化された知性ばかり重視し、語れず定式化もできない感性を軽視しています。「感性を大事にしよう」などと言えば「どうやって評価するんですか?客観的な測定をどうすればいいのでしょう」などという私からすれば「軍靴に足を合わせる」「寝台に合わせて足を切る」ような理屈が教育界の「正論」としてはびこり、感性を抑圧してしまいます。

しかし地震・津波からこの10日のことを思い出してください。あなたを支えてくれた人、あなたの力になってきた人は知性・知識だけの人ですか?むしろ感性・行動の人の人ではありませんでしたか?もちろん知性・知識は有用、というより必須でした。しかし知性・知識で、この誰も解答を知らない混迷状況で皆を導いていた人は、知性・知識だけでなく感性・行動も兼ね備えていませんでしたか?


「感性」が鈍い人は、実用的な知識や技術をほとんど保有しないか、無用な知識や技術をやたら貯め込んで整理しきれず、いざというときに役立てることができない。一方、「感性」が豊かな人は、一見まったく関係ないものからもヒントを見つけて、さまざまに応用できる。(171ページ)



武道とは、稽古を通じて自らの身心を清澄にし、その身心をもって正義のために生きることです。武術とはその稽古の到達目標である実効的技術です。(稽古もきちんとしていないのに、このように言葉ばかり連ねる自分が実は恥ずかしいのですが、それは別の話とさせてください)。


心身の汚れを祓い清め、自分の中に存在する真心(神に通じる心)を見い出して、その心を自己の「正義」の拠り所とすることで、「何のために武術を身につけるか」という問いへの答えが出てくる。「正しさ」は心の状態であって概念ではない。また、それを求める生き方が「道」である。

 つまり、武の目的である「武道」を達成するために用いる実効的技術を「武術」と言い、あるいは、前者は「文」、後者を「武」と言い、武道と武術、文と武は常に一つでなくてはならない。(78ページ)




■「武道」を"martial arts"と訳してはいけない

私も昔は「格闘技」という言葉をよく使ってきましたが、最近になって「武道」「武術」は「格闘技」("martial arts")は違うということが体験を通じてわかってきました。詳しくは以下に掲載している「日本の大義と武士道」の動画シリーズをご覧頂きたいのですが、日本の武道・武術には、相手を傷つけずに「まいった」と言わせるだけの技術があります。


武道の究極の姿として「相手をして包容・同化する」という考え方がある。どういうことかといえば、相手を倒して殺傷するのではなく、相手の「邪気」を清め祓い、正気を取り戻した相手を仲間とみなし、共存共栄を図るというものだ。(62ページ)


こういった言葉を聞くと、現代人は「漫画の読み過ぎでしょう」と冷笑的な態度を取りますが、こういった技をかけられて倒されたり動けなくなってしまうことを自分自身で体験したら、このような偉大な身体操法があるのだということが実感できます(私はこのような技をまだかけることはできませんが、かけられることは稽古で経験しています。こういうことを理解するのは体験が一番ですが、言葉でとりあえず理解の端緒を切り開こうとすれば矢田部英正先生の身体論山岡鉄舟のエピソードなどをお読みください)。


私が稽古でかけられる技も、以下のような特徴をもっています。


「やっつけよう」と思う邪念が強く出ると、相手に逆をとられる。相手に苦痛を与えて降参させようという発想も、必死の相手には、腕が折れていたいとか、首が絞められて苦しいなどという程度の技では通用しない。筋力で無理やり押さえ込まれると、相手は「畜生」という思いを強くし、戦意が高揚する。

 これに対して理合いにかなった技で抑え込まれたときは、倒されながらも「すごい」と感嘆してしまうことがある。そのような状況において、勝者が敗者に礼を尽くす心の広さを見せれば、敗れたほうは精神面でも完敗を認め、勝者に敬意を抱くということが起こり得る。(145ページ)





■身体と心を整える

このように「武」とは身体にも心にもおよぶ生き方なのですが、頭でっかちの近代教育と比べると、武道・武術は明らかに身体を重視します。身体を整えることで心のあり方が変わってくることは、私も私なりのつたない経験を「椅子を換えたら姿勢が変わり、姿勢が変わると・・・」で説明した通りです。デカルト的近代西洋哲学発想を超えて言い切るなら、身体と心は同じものです。身体を整えると心が整い、心が整うと身体が整います。


思考がぼやけていると生き方も行動もふらつくように、体に中核(重心と中心)の意識がないと体がぶれてしまう。思いや考えが絞り込まれると、方向性がつかめて強い生き方ができるようになる。心が定まり体が決まると、時がつかめ、技も冴えてくる。(149ページ)



武術の稽古の大半は、もちろん身体操法に費やされますが、武術が武道と不即不離である以上、武術の稽古の始まりや終わりにはしばしば言葉による心構えが確認されます。以前私が通わせていただいた道場でもこのような道場訓をよく唱和していました。


一、吾々は心身を錬磨し確固不抜の心技を極めること

一、吾々は武の神髄を極め機に発し感に敏なること

一、吾々は質実剛健を以て克己の精神を涵養すること

一、吾々は礼節を重んじ長上を敬し粗暴の振舞いを慎むこと

一、吾々は神仏を尊び謙譲の美徳を忘れざること

一、吾々は知性と体力とを向上させ事に臨んで過たざること

一、吾々は生涯の修行を空手の道に通じ極真の道を全うすること


荒谷氏は自衛隊の特殊作戦群の精神的支柱を、日本の伝統文化である武士道に求め、以下のように訓を定めました。



特戦群戦士の武士道


一、確たる精神的規範(正義)を有し生死の別を問わず事に当たる肚決めをすること

一、臆せず行動できず勇気(気概)とこれを維持する気力(胆力)を鍛錬すること

一、事を成し遂げる実力(知力、技術、体力)を修養すること

一、言動を一致させ信義を貫くこと


私が通わせていただいた道場でも、入出の際には一礼をし、稽古がの始まり・終わりには黙想を、正面に礼、師範に礼、お互いに礼をし、ほぼ毎回道場訓を全員で唱和していました。

このような礼・黙想・訓唱和は、現代日本の学校教育では考えられないものでしょう。礼・黙想・訓唱和などを学校授業で実施しようとすれば猛烈な反発と底意地の悪い冷笑が生じるだけでしょう。

しかし考えてみてください。学びの始まりと終りの度に、身体を整えた礼をして学びの場への敬意を示し、黙想により自らの心を整え、訓の唱和で学びの目的を再確認する学びと、そういった身心の作法を冷笑する学びのどちらが深い学びをできるのか。急な転換は、反動に終わるだけですが、私たちはもっと日本の伝統文化に学ぶべきだと思います。


以下は荒谷卓氏が登場する動画です。どの動画も著作権保有者により掲載されたものだと理解しましたので、ここでも紹介します。



【戦闘者の本質Ⅱ】 荒谷卓氏、伊藤祐靖氏に聞く




この動画は、上記の東京消防庁隊員の言葉を理解するのにも役立つでしょう。印象的な言葉を私なりにまとめると次のようになります。


「規則で人を動かすことはできない。それは脅しに過ぎない。」

「生死をかけた行為で人が動くには『士気』が必要で、それには上に立つものが、嘘をつかずそのまま生きて、かつ本気であることが必要だ。」

「行政指示ばかり伝達して指揮しているなどと思っている『政治将校』は自分の保身や出世ばかり気にしている奴であり軍人ではない。」






「日本の大義と武士道」




この動画を見ると、「武道」を"martial arts"が異なることがよくわかります。また軍隊の特殊部隊のあり方(軍事的制圧ではなく平和構築)についても学べますし、今回の危機で顕になった内閣総理大臣の権限についても考えさせられます。




戦いの本質




この動画では何よりも次の言葉を噛み締めるべきでしょう。


我の強い奴ほど理屈をこねる。

理屈をしゃべってばかりいるような奴にまっとうな者はいない。











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