2011年2月25日金曜日

津本陽『春風無刀流』文春文庫

前の記事で伝統宗教を人生の「型」としましたが、日本人の多くは自らを「無宗教」と規定し、他の国の人々に驚かれることが多いというのもよく聞く話です。

新渡戸稲造『武士道』は、西洋的な意味では特定の宗教に専心していないが、道徳的な高潔さは保っている(昔の)日本人の行動規範とはいったい何なのだというある西洋人の問いへの答えとして書かれたものですが、この本は廃刀令(1876年明治9年)が施行された後の1900(明治30)年―つまり日常から「武士の魂」でもあり実際に人を斬り殺すことができる刀がなくなってしまった時代―に著されたものであり、かつ新渡戸が武士道を自身の信仰であるキリスト教的解釈に寄せすぎて記述したものではないかという批判はあります。

行動規範として、昔の日本の侍だけでなく、その他の人々にも波及的影響を与えていたと称される武士道とは何かという問いに答えるのは、もちろんのことながら、このようなブログ記事ではとてもできないことですが(参考記事:映画『ラストサムライ』)、ある出張の車中で気分転換に読んだ津本陽による『春風無刀流』(文春文庫)は、山岡鉄舟を描いた小説として、(津本陽解釈の)山岡鉄舟の武士道を描いていました。

山岡鉄舟(鉄太郎)は武士道についてこう語っていたそうです。


わが邦人に一種微妙の道念あり。神道にあらず儒道にあらず仏道にあらず、神儒仏三道融和の道念にして、中古以降もっぱら武門においてそのいちじるしきを見る。鉄太郎これを名付けて武士道という。然れどもいまだかつて文書に認(したた)め経に綴りて伝うるものあるを見ず。けだし、人事の変遷とともに種々の経験により吾人の感念に寄せられたる一種の道徳なるが如し。(173ページ)


この武士道という行動規範が諸外国の宗教と異なるのは、単に神儒仏という三つの(広義の)宗教を融和させたというだけでなく、身心の鍛錬によって、行動の規矩が自ずから体現するものである点にあると私は考えます。

鉄舟は23歳の時に、剣を学ぶ目的について、次のように述べたそうです。


予の剣法を学ぶは、ひとえに心胆練磨の術を慎み、心を明らしめもって己れまた天地と同根一体の理(ことわり)、果たして釈然たるの境に到達せんとするにあるのみ。(11ページ)


重要なのはこういった言葉が、単なる観念論ではなく、生死をかけた闘いを前にした現実の鍛錬から生まれてきたことです。実際に武術では(日本でも中国でも)高い境地に立てば、単に反射神経の速さや一部の筋肉肥大の強さに頼らずに、相手の心の動き(「起こり」)を察知することによりいち早く動く(「先」(せん)をとる)ことができます(私は自分ではとてもできませんが、こういった技をかけられたことは何度もあります。横から見れば決して速くない動きを私も他の人々もどうしても止められませんでした)。

つまり、負けが死を意味する勝負に勝とうと思えば、「勝とう」と思う念(妄念)を逆に捨ててしまって身心を清明にし、逆に相手の妄念を察知できるような状態になり、相手の妄念に間髪入れず感応することの方が圧倒的に有利になるわけです。(詳しくは例えば宇城憲治先生著作やDVDをご覧ください。特に『宇城空手 第二巻 [DVD]数見肇氏や岩崎達也氏がどのような空手家であるかをわずかでも知る者にとっては圧倒的な説得力をもっているでしょう)。


山岡鉄舟も次のように言ったそうです。


剣法修行の根元は、敵に対しすこしも隙なきを専一とす。隙とは如何。敵を打たんと思い、われ打たれじと思う念おこるを隙という。この念はすなわち妄念なり。念は本来無念にして、明鏡には一点の曇りなきがごとし。しかれども一念おこれば、鏡のなかに物の影を映すがごとし。影を映せば明鏡の曇りたると同じ。明鏡も曇りたれば影は映らず。これを敵にむかいて、打たれじ打たんと思う無明の妄念という。かくのごとくいうときは、敵前におなじく立てると思えどもさにあらず。打てばはずし、突けばひらくの理、敵に対すればおのずから具足せずということなし。これ自然の妙理にて、思慮分別を用いず、勝を制するの妙理なり。人、この妙理を悟得すべし。(85ページ)



かくして徹頭徹尾現実的な武術は、人の道、ひいては天の道につながることとなります。津本陽は鉄舟の言葉として、次のような表現を紹介しています。


「世人が剣法を修める目的は、おそらくは敵を斬らんがためであろう。私はそのような目的を持ってはいない。私は剣法の呼吸によって、神妙の理を覚りたいのである。ひとたびその境地に達すれば、私の心は止水のように湛然となり、明鏡のようにあきらかとなるであろう。そうなれば、物事に対応するにとどこおりなく、いかなる事変に会うとも、精神はすみやかにはたらき、いかなることもおのずから悟りうるであろう。真にこの境地に達するならば、天道に叶うのである。(202ページ)


これらの言葉は、実際に剣術の達人であり、江戸無血開城の端緒を創り出した人間のものだけに、おそろしく重みがあります。たとえ現代日本人のほとんどが頭でっかちになり、このような境地を想像しがたいにせよ。


身体の鍛錬から、心胆の練磨につながり、身心を清明にする武士道(あるいは武道)も、伝統宗教に並ぶ人生の「型」かと思います。学習指導要領は中学で武道を必修化しましたが、この武道が、徒に勝負を争う競技スポーツとならず、身心を練磨する古来の武術に基づくものであるようにと願うばかりです。



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参考:『武士道』 山岡鉄舟(鉄太郎)述 安部正人編 光融館 1902年(明治35年)1月 - 国会図書館近代デジタルライブラリー










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