2011年2月21日月曜日

IYさん: テンプレートからの脱却

(このシリーズは、「言語コミュニケーション力論と英語授業」で提出された学部3年生のレポートの中から私が個人的に興味深かったものをここで紹介するものです。紹介する文章は基本的にすべて原文で私は(ブログ掲載のための改行増加を除き)手を入れていません。)

IYさんは、「テンプレート」というキーワードを使って自らの実践を分析しました。まとまりのよいエッセイなので全文を紹介します。



テンプレートからの脱却



IY



○Introduction テンプレート

 私が今「言語コミュニケーション力論と英語授業」の講義を振りかえろうとした際に、最初に浮かんだ言葉が「テンプレート」であった。それは私が教育実習中に生徒に投げかけた言葉や態度を指して担当の先生が私によくおっしゃった一言で、それ以降頭の片隅にずっと残り続けている言葉である。自分の発問に生徒が予想通りの反応を返してきたら”Great!”と、答えに行き詰ってしまったらある程度待ったあとで「大丈夫」と、この場合はこう答えるなどの小技をそろえたマニュアルが頭の中にあり、授業でそれをただ口にしていただけで何の実感も感情も伴っていなかった、ただの「テンプレート」では生徒に響かない、と先生はよく私に指摘して下さった。
 
 英語授業に関してのマニュアル、例えば一つの授業はIntroduction、Comprehension、Consolidationで成り立っていることや文法の導入は音声から文字へ移ることが望ましいとされることなどに関しては大学で学んだ理論を背景に自分の脳内にインプットしている自覚はもちろんあったし、教育実習はその大学で学んだことを実践してみる場であることは理解していたので、たった2週間というマイナスの点もあり、そういったマニュアルから外れた生徒の実態に即した英語授業はなかなか出来ないと割り切っていた。しかし、英語を教える以前の問題として生徒一人ひとりと向き合うことが出来ていないと指摘されたことは相当ショックなことであったし、自分の中で無意識のうちに生徒への対応に関するマニュアルが出来上がっており、それに即して授業をしていたという事実は驚きだった。
 
 この「テンプレート」という言葉を聞いた友人の一人が私は普段から言葉に感情が伴わないような話し方をする癖があると笑いながら忠告してきたことからも、私には教師としてどのような技術よりも何より大切な「心を伝える姿勢」が備わっていないことに気付くことができた。教育実習を終えて、私の大きな課題の一つとなったのがこの「テンプレートからの脱却」であり、そのためには何が必要なのか常にアンテナを張るように努力しているつもりなのだが、まさにこの授業で学んだことや感じたことは「テンプレートからの脱却」への大きな手掛かりになったように思う。
 
 したがってこのエッセイでは私が得た「テンプレートからの脱却」への手がかりとこれから目指していきたい英語教師像へのヒントを述べることにする。


○Chapter 1 脱却への手がかり

 この授業では、様々な言語学者などの考え方を学び、それを私なりに解釈して「テンプレートからの脱却」への手がかりや英語教師像へのヒントをつかむことが出来た。日ごろから言語に対して敏感になり、一つの文法導入にしても生徒がその文法を使う場面を明確にし、その文法が使えるからこそ伝えることが出来る気持ちをのせることが重要であると分かった。例えば先生が例文として提示された、関係代名詞を導入する際の例文:Did you steal this? ? No, this is a CD I bought.などはただ単に”This is a CD I bought.”をリピートするよりも場面が明確で自分は盗んではいないと主張する気持ちを例文に乗せやすく、生徒の心に響きやすいだろう。脳に直接的に働き掛けることが不可能であるからこそいかに生徒のその脳内をゆさぶることが出来るかが重要であり、もし教師が生徒の脳へ直接働きかけることが出来るのであれば私のもつ「テンプレート」とやらの成功率は100%であるだろう。それに一味もふた味も工夫を加え生徒の脳にスパイスを与える必要があるのである。
 
 またルーマンも主張している「脳への直接的働きかけは不可能」という考えは英語教育が現在目標としているコミュニケーション能力の育成とも深くかかわっている。許可をもらうときにはこの表現、褒めるときはこの表現、など教師がいくらその規則を教えても、話し手が聞き手の脳内に直接働きかけることはできないためコミュニケーションにおける誤解は生じてしまうものであり、その変化に対応する力を養うことも英語教育の一つの目標である。つまり英語教師は、相手の脳内にスパイスを与えゆさぶることが出来る力を、生徒の脳内に上手く働きかけゆさぶることによって指導しなければならないのである。
 
 内田・片山の「カラダ」に対する考え方やハンナ・アレントの「活動(action)」という言葉からもヒントを得ることができた。物語を読んだり人の話を聴いたりすることによって生まれる感動というものは、ただの話から、その話し手や登場人物の身体的体験に同調し他人の人生を内側から生きるからこそ生まれるものである。Wittgensteinの主張にもあったように言語は生活とは切っても切り離せない関係で、つまりは人間の言語活動すべてにはある種の感情がこもっており、その言葉を発した人に同調して感情を感じとれてこそ初めてコミュニケーションが成立するのである。英語の授業は機械的練習を積み重ねたあとの感情表現がメインであるといえるだろうし、それを促す教師側の感情が言葉に乗らず生徒に響かないとは元も子もない話である。英語というただの言語に大きな価値を見出してもらうためにも、まずは生徒が教師の言うことや教科書の内容に、それが英語で書かれているからこそ身体的に同調して感動を覚え、そして今度はそれを伝えることが出来るように指導することが英語教師の大きな役目であるだろう。
 
 また言語獲得訓練は「意識」を「無意識」に導くことであるという考え方は、よく考えたら当然のことであるのに強烈に印象に残った。どの段階で意識付けを目標とした活動を行い、どの段階で無意識化を目標とした活動を行うのか、その見極めが所謂ALL ENGLISHな授業を目指す上で欠かせないものになるであろうし、その無意識化を意識した活動の中で教師があまりに意識しすぎた、つまり発問の意図が明確すぎ、その場にそぐわないくらい浮いてしまった指示や発問をしてしまっては、自らその空気を壊してしまうことになるだろう。また意識化を目標とした活動においては、生徒の飽きを防ぐべく教師の活動の意図するところに価値を見出させることが重要であり、そのためにはやはり生徒の心をゆさぶるような発問や指示が必要不可欠であると言える。どちらの段階でもその目的は異なるものの、より生徒の反応に即した教師の動きが重要であるのである。


○Chapter2 テンプレートが隠された授業

 このように授業を受けて「テンプレート」がかかえる弊害の多さに改めて驚いたのだが、それを理解したのちに見た「テンプレート」がない授業、つまり見事生徒の実態に即したナチュラルな授業より得たものは大きかった。正確には田尻先生や蒔田先生の授業実践では決してテンプレートがないというわけではなく、見事にそのテンプレートが生徒に隠されていたという点でとても驚いた。例えば蒔田先生の実践であれば、リンキングから教科書の持ち方まで細かい点に気を配っているにも関わらずそれらが全て自然であるのは、何より先生が一番よいモデルとなり生徒の心をゆさぶっているからだろう。ただ淡々と指導するのではなく生徒に自ら語りかけることによって教室の雰囲気作りをし、最終的には自らが感動を生みだすことのできる人へ育てあげておられたその過程は何度も先生の中で試行錯誤されたのちに見つけた、隠された「テンプレート」であるに違いない。
 
 また、田尻先生の実践では生徒の心をゆさぶるタイミングは常にベストの判断を見極める努力をする重要性に改めて気づき、テンプレートと付随すべき、あるいはそれ以上になるべきものは生徒に応じてベストの判断を見極める力であることを知った。いつ答えを与えず、いつ声かけをして、いつ生徒が気づき始めたと判断するのか、それは生徒と一瞬一瞬向かい合わなければ見極められないものでまさに「テンプレート」が無意味になる瞬間であった。それは今日明日で身につくものではなく生徒との日ごろのコミュニケーションで成り立っているものであり、それを通じて教師自ら生徒の生活を知り生徒の心に身体的に同調するからこそ、より磨かれるものである。また田尻先生の表情や仕草も、生徒の心をゆさぶる大きな点であった。この練習を欠かさなかったと述べられているのはまさに、そうやって感情をオープンにすることによって生徒が教師に身体的に同調し活動に何かしらの価値を見出す手助けをしているからだろう。


○Chapter3 テンプレートからの脱却へ

 以上のように、この授業では、様々な学者の考え方や素晴らしい先生方の授業実践から「テンプレートからの脱却」への様々なヒントを得ることが出来た。英語授業の方法や持ち合わせるべきテクニック、生徒への発問や指導への技術的ポイントなどはもちろん重要でありこれからの大学生活においてより学んでいきたいことであるが、その土台となるべき、生徒と向き合い心と心を通わせる姿勢はこの授業をきっかけとして見失わないようにしたい。実際に生徒と向き合うことはこの大学生活においてもうチャンスはないし、実際に教師になってからも自分自身で満足いくまで数年かかると思うが、その基礎は大学にいるうちにしっかり固めておけるだろう。友人との付き合いにおいて、小さな変化を見逃さずその友人にきちんと同調してベストの判断を見極めて声をかけるという本当に小さなことから始めて、たくさんの映画や本に触れて自らが身体的同調する感覚を忘れないこと、自分が英語に対して価値を見出した瞬間とはどのようなときか思い返すこと、生徒が英語に価値を見出してくれるために必要なしかけとはどのようなものか、今から四方にアンテナを張り巡らせて言語に対する感覚を鈍らせないことなど、大学にいる時間だからこそ可能であることをしっかりこなすことを「テンプレートからの脱却」を目指す上での自分自身への課題としたい。そしてそれらをこなして、身体的に同調して英語に価値を見出し自ら感動を創造することが出来るような生徒を育てることが出来る教師が私の英語教師の理想像である。

 

(このシリーズはまだ続きます)
 
 







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