2011年2月21日月曜日

OY君:英語教育界にはびこる「美しい言葉」

(このシリーズは、「言語コミュニケーション力論と英語授業」で提出された学部3年生のレポートの中から私が個人的に興味深かったものをここで紹介するものです。紹介する文章は基本的にすべて原文で私は(ブログ掲載のための改行増加を除き)手を入れていません。)

OY君は、英語教育界にはびこる「美しい言葉」の弊害を指摘します。以下の一節など傾聴に値します。


私は昨年の夏に全国英語教育学会に参加しましたが、その議論や質疑応答には驚きを禁じえませんでした。その場面では質問者は質問をするのではなく、ただ持論を展開しているというだけで した。そこには意見をすり合わせたり、発表者を理解しようという雰囲気は皆無でした。彼らは同じ言葉に対してまったく違う前提や認識をもって臨んでいました。


以下に、個人的なことを書いた部分以外の全文を紹介します。




「言語コミュニケーション力論と英語授業」レポート



OY




本レポートでは「言語コミュニケーション力論と英語授業」の中で私が考え、感じたことについて述べたいと思います。

 まず、Chomsky, Hymes, Canale, Bachman, Palmer, ら言語学者の言説を学習する上で感じたのが「コミュニケーション」(または”communication”)や”competence”という言葉に関して各人がそれぞれにそれぞれの解釈や理論を同じ言葉で述べようとしているということです。これは大きな混乱を引き起こしてしまいます。実際に授業の中で自 分も何度か整理をつけながら理解していかなければ、混乱してしまいそうでした。
 
 そしてこの言語使用の混乱というのは英語教育に限らず、様々な議論の場で深刻な問題となっているのではないでしょうか。
 
 私は昨年の夏に全国英語教育学会に参加しましたが、その議論や質疑応答には驚きを禁じえませんでした。その場面では質問者は質問をするのではなく、ただ持論を展開しているというだけで した。そこには意見をすり合わせたり、発表者を理解しようという雰囲気は皆無でした。彼らは同じ言葉に対してまったく違う前提や認識をもって臨んでいました。このような不毛な議論が繰り返されるというのは英語教育界、ひいては日本にとって大きな損失です。
 
 こういった失われてしまった知的リソースをもっと有効活用するためには一定の共通認識や「目指すべきもの」が必要ではないのか、と考えました。
 
 また、現在では教育現場限らず、就活の場面や企業内でも「コミュニケーション」・「学び」・「気づき」といった言葉が乱用されています。これらの「美しい言葉」たちはもともと私たち の生活に深く根ざしていたものや外国語から借入され、いつの間にか日本語に定着していまっていたものが多数です。どちらにせよ、私たちの日常の言語感覚では もはや曖昧にしかその明確な「意味」が意識されることはない言葉です。多くの人たちがこれらの言葉の「意味」を問われると答えに窮してしまうか、同語反復 を繰り返してしまうしかないでしょう。
 
 したがって、これら「美しい言葉」は誰でもが容易に使うことが可能です。そしてだからこそ今のような混乱した状態が生み出されてしまったのではないかと思います。もともとこれらの言葉を使い始めた人たちには明確な意図や「意味」が存在していたと思います(「学び」という言葉では「学びの協同体」で有名な佐藤学先生などがいます)。しかし、それらが一般大衆の目に触れ始めると同時にこれらの言葉を使い始めた人たちが込めた「特殊な意味」から「言葉」自体が乖離し始めてしまいました。誰もが身体感覚として体得している言葉だからこそ、誰もが これらの言葉に自身のイメージや経験を付与してしまいます。まさにルーマンの社会システム理論のようにそれぞれのシステムがそれぞれのシステムの仕方で言葉を理解してしまいます。また、もともと実生活の中で明確な「意味」が意識されることが少ない語であるため、各システムの「理解」の受容の幅も広く、相互 作用の中で支障をきたすことも少ないため、本来どのような「特殊な意味」が込められていてどのように使われていたのかを意識することがなくなってしまいます。
 
 その結果、誰もが自分の経験やシステムに準拠した「自分の美しい言葉」を使い始めます。実に都合が良く、便利な言葉です。誰もが簡単に使用するけれど、その意味するところは各人によって微妙に時は驚くほど大きく異なる、という事態に至ってしまいます。
 
 そういった「何を指しているのかよくわからないのにみんなが重要に思っている」という状態は非常 に危険です。求めるものがどこにも存在しないのにいつまでもそれを求め続けねばならない。それはいつか疲弊してしまいます。そして一心不乱に何もないものを目指し続けるというのは気持ち悪い状況ではないでしょうか。
 
 日常生活の場面ではそれでよいのかもしれませ ん。しかし、教育的・学術的場面でこのような状況が繰り返されているのは本当に危機的事態ではないかと思います。
 
 今回の授業を通して切実に思ったのが、こういった状況には何か打開策が必要なのではないかということです。このような不毛な状況に貴重な知的リソースが浪費されているというのは悲しむべき事態です。そのために手っ取り早い解決策とうはやはり共通認識を作り、また定着させるということでしょうが、考え方の多様性や実現性といったことを考 えるとこれは難しいとしか言えません。
 
 現実的な案としては少なくとも現状を知って意識しつつ行動すべきである、ということではないでしょうか。
 
 本授業「言語コミュニケーション力論と英語授業」では繰り返し、身体性の重要さが強調されていました。
 
 私たちは言語教育に携わる人間なのでやはり「言葉」という側面に注目してしまいがちです。です が、言語を操るのも、教育を行うのも生身の人間です。人間が生物である限り、身体という側面を無視することはできません。
 
 また、教育という営みは種々雑多な要因が複雑に混ざり合ったものです。そこには教師自身の経験や子供たちそれぞれの経験、集団としての経験など様々な「経験」が大きな割合を占めていま す。それらについて理論や分析を用いて一般化していくというのは非常に困難を極める作業であると思います。
 
 教育現場にはそういった「経験」によって醸成された「直感」といったものが溢れています。私たちはこういったものを無視すべきではないでしょう。このような身体感覚というものは既存の理論の枠組みにはまるものではありません(だからこそ面白いのだと思います)。なので、この身体感覚に関してできる限り記述し、そして新しいできる限りこの身体感覚について説明し得るような枠組みを形成することができれば、新たな展望が開けるのではないかと思います。
 
 上記のようにこの授業では一見 記述することが不可能なものである「コミュニケーション」というものを中心に扱ってきました。
 
 実際に「コミュニケーション」 というものが何なのかを記述するは本当に困難を極めるものだと思います。今回の授業のなかで取り扱われた様々な理論のどれもが「コミュニケーション」という城の一部を表してはいるものの全体像やそのすべてを記述しているものはないように感じました。
 
 Chomskyは”A study of communication is a study of everything.”といったその難しさや複雑さを揶揄しましたが、私はむしろその難しさこそが面白いと感じました。「コミュニケーション」というも のを記述しようと考えた場合、そこには様々なアプローチが存在します。言語学、哲学、心理学、経済学、神経科学、脳科学などなど一般的言う理系と文系の別 もなくアプローチを行うことが可能です。これだけ多くのアプローチが存在する研究対象というのはなかなかないのではないでしょうか。だからこそ面白い。
 
 私はまず、言語学・哲学という面からこの「コミュニケーション」に立ち向かいたいと考えています。
 
 現在の日本社会ではひたすらに「コミュニケーション」の重要性が叫ばれています。そして「コミュニケーション」を「評価」しようとさえしています。
 私は「コミュニケーション」が 何なのかもわかっていない(少なくとも何なのかという合意形成がなされていない)中でそれに関して「評価」を下すというのは傲慢なで無謀な考えであると 思います。何でもかんでも数値化しなければならないという考え方は改めるべきでしょう。
 
 確かに人類はこれまで仕組みはわからないけれども使えるというものを利用してイノベーションを成し遂げてきまして(とりわけ自然科学の分野で)、しかしその後にはその「仕組み」を解明しようという試みがあってしかるべきではないでしょうか。
 
 「コミュニケーション」はこれまで立派に実践されてきたし、今現在も実践されています。どこまでを「コミュニケーション」と定義するかにもよりますが、「コミュニケーション」の成し遂げてきた、またはそれなしには考えられなかったいのべーションというのは星の数ほどにものぼるでしょう。
 なので、そろそろ腰を据えて「コミュニケーション」とはいったい何なのかという問いに挑んでいってもよいと思います(だいぶ昔から行われているとは思いますが)。



現在、授業の中で田尻悟郎先生 らの授業ビデオを見るなどしています。こういった授業実践に近づく場面があるたびに考えることがあります。

 それは自分にとってルーマンの 理論や様々な哲学などを実践に繋げて考えるというのが難しい、ということです。授業の中では他の学生の振り返りや予習などが紹介されます。それらは本当に見事です。ポイントを押さえていたり、「授業」との関連を突いたりと感心するばかりです。その中で「授業」とそれらを結びつけることがどうしても難しい自分がいます。
 
 それはそれでいいのではないかという気持ちもありますが、それでいいのかという気持ちもありま す。なぜなら授業実践というのが英語教育の肝であり、これなくして英語教育は成り立たないもいえます。しかし、これまでの英語教育は現場を意識しすぎていたために研究の分野も中途半端に終わってしまっていたのではないかと思います。
 
 この問題とどう付き合っていくのかというのも今後の私の課題ではないかと思います。




(このシリーズはまだ続きます)










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