2011年2月25日金曜日

KHさんの証し 「悔い改めを待ってくれた神様」

以下は、私が所属する東広島めぐみ教会でKHさんが行った証し(=自らの信仰に関して会衆の前で語る話)です。

私はキリスト教などの伝統宗教は、人生の「型」として、人を迷いから救い出し、人を「自由」にする機能をもっていると思います。

「型」というのは一種の制限であり規制です。「型」を重んずる人は、その「型」が定める行動に従うことを自らに課します。これは表面的には自由の束縛のようにも思えるかもしれませんが、私は「型」こそは人間を「自由」にする―あるいは、私たちが肯定的に捉えている意味での「自由」をもたらす―と考えています。

例えば車の運転で考えましょう。ご承知のように車の運転は道路交通法という「型」によって制限が加えられています。そんな「型」に囚われず車を自分が思うように運転できたらと思う瞬間は多くの人に訪れるかもしれませんが、もしみんなが道路交通法という「型」を捨てたら、道路は混乱状況に陥りほうぼうで事故が生じて人々は「自由」に運転できません。(これに近い状況を私は大型台風で街中の信号機が停止した時に経験したことがあります)。道路交通法という「型」があるおかげで私たちは「自由」に運転ができます。

あるいは野球のバッターのフォームの例で考えてみましょう。バッターは野球のルールの範囲内で(例えば「バッターズボックスから出ない」ことなど)自由に球を打つことができます。しかしたいていのバッターは、練習を重ねて自らのフォームという「型」をつくります。シーズンを通して打ち続けながらそのフォーム・「型」が崩れないように細心の注意を払います。すぐれた「型」に従っている限りにおいてのみ、バッターは「自由」にピッチャーに対して勝負し、内角高めストレートでも外角低めスライダーでも打ち分けることができます。「型なし」になってしまえば、バットを振りまわすだけで、バッターとしての役割をはたすことができません。

もしくは学術論文で考えましょうか。私は「論文の構成要素とコミュニケーション的機能」「Research Questionの探究としての研究論文」あるいはThe Craft of Research (Chicago Guides to Writing, Editing, and Publishing)といった整理で、ある意味、学生さんを「型にはめて」論文を書かせています。最初こういった型は窮屈に感じるかもしれませんが、これは先人の知恵がつまった書き方ですから、この「型」の原理を理解しながらこの「型通り」に書いてゆけば、自らの恣意で迷うよりもはるかに短期間で他人に伝わる文章が書けるようになります。「守破離」という言い伝え(これも一種の「型」)に従うなら、自分なりの「型破り」な流儀を打ち立てるのは、まずは型を徹底的に守り、その原理を深く体得した後になります。私のあるゼミ生は、この「型」について他専攻(文学部)の同級生から「こんなのに縛られていたら自由に論文なんか書けないよ」と言われていたそうですが、二人がそれぞれに論文を書き終えるころにはその同級生に「やっぱりああいった指針は必要」と言われたそうです。わずかの勉強しかしていない自分の力を過信し、伝燈の力を軽んずるようなことを私たちはすべきではないと思います。

すぐれた「型」の多くは先人の知恵に基づくものですが、そういった「型」に従うことは、人を混迷や当惑から救い出し、望ましい行動ができる自由をその人に与えます。私は伝統宗教も、「解放」という名で何もかもがあまりにも混乱し人々がかえって迷ってしまっているところに一つの道筋を示す「型」だと理解しています(これは非常に世俗的な理解にすぎませんが)。

伝統宗教というのは、人間の意識だけでなく、無意識も深く理解していますから、教条的になりすぎずに人間を導く知恵を備えていると私は理解しています。伝統宗教という「型」を尊重することによって、私たちは(現代人が「自由」と混同している)無用の迷いから解放されて(逆説的に聞こえるかもしれませんが)人生を「自由」に生きることができるとは言えませんでしょうか。

もちろん下にもありますように、宗教組織の中には人間を、深く抽象的な「型」ではなく、表面的な意味においてのみ具体的な「形」(献金や労働の強制)で縛る集団―私はカルト集団とは、成員の自由を認めず、特に金銭や時間の上で成員を強制する組織すべてを指すと自らは定義しています―がありますから、注意が必要です。しかしその注意を怠らなければ、現代人はもっとキリスト教に限らず伝統宗教の知恵に敬意を払ってもいいのではないかと私は思っています。





「悔い改めを待ってくれた神様」



KH


私の名前はKHと言います。1972年に岡山県で生まれました。現在38歳です。

幼少時の私が見たものは、時間を守り約束を守り通してくれた母という存在でした。それゆえ、幼い頃の私は笑顔にあふれた者でした。

そんな私に暗雲がたれこめたのは小学校入学でした。同級生の余りあるいたずらに、クラス全員に対して怒る先生の存在が、私には恐怖以外の何物でありませんでした。この恐怖は毎日毎日繰り返されるのです。怒られることに慣れていない私は混乱するばかりです。さらに、怒られるということは、私が悪い事をしたから、という思いが常に私にあり、何もせずに相手に従う事で怒られることを回避する防衛本能だけを育みながら大人になっていきました。

22歳の時に、私は社会人となりました。ここでも私は怒られまいとする思いが私の心にありました。結果、私は心のゆとりを失い、行動範囲を狭め、次第に私は世の役には立たない者と自ら烙印を押す者になりました。

私は無意識のうちに人から離れていくようになり、心は内に閉ざし、まるで分厚いガラスを通して世の中を見るようになりました。「社会の中では人と接することは仕方ない。しかし私に意見をしないでくれ、ほおっておいてくれ」、と思うようになりました。そして、私の心の奥底にはモラルのような思いがあり、これが現実社会と噛み合わないことで、間違っているのは私と考え、正しい事は何かと探し続けていました。

親に相談は、できませんでした。人に迷惑をかけてはいけない、親に心配をかけてはいけない、という思いが働いたからです。結果、私は幾度と無く無意味に街を彷徨いました。彷徨い、家に帰り寝て、また会社に行き、彷徨う。私が25歳の時でした。

この時、私は自らを呪っていました。「自らの存在そのものが悪」と思っていたのです。しかしそんな私に、癒しの声をかける者がいました。そして連れて行かれた施設で、映像を通してマザーテレサが私に語りかけました。「わたしの目にはあなたは高価で貴い」と。私はその言葉に涙を涙し、心が温まりまし
た。しかしそこはとあるカルト集団だったのです。

私が東広島めぐみ教会に初めて来たのは、2002年の5月、私が30歳の時です。カルト集団からの脱会に力を尽くしてくださった、岡山県のある教会の牧師と、同じく岡山のある教会の信仰深い方の薦めでした。状況的には単身でめぐみ教会へ来たのですから、特に親しい友人がいなかった私です。そんな時に懇意にしてくださった方々に感謝です。夕ご飯に招いてくださったり、聖書の学びに時間を割いてくださいました。

そうして少しづつ教会の方々と知り合いになっていきつつも、私の心は孤独でした。自らを認めることがどうしても出来ず、むしろぞんざいに扱われることで、「ほらやっぱり」と思い続ける者でした。

しかし、この世は偶然では無く、神様が造られたことを知りました。聖書に示されたイエス・キリストは、人の価値とは職業や身分ではなく、その人の存在そのものであり、またイエス・キリストの願いは私達が神様のお心を行うこと、隣人を大切にする者だと言われました。そして正しいことを正しいと保証し、忍耐を持って人々の悔い改めを待ち、ついにはこの世の全ての罪を背負い十字架につけられ、尊い血をもってこの世の全ての人々を赦してくださったことを知りました。

いつの頃からか、私は「十字架の赦しの中に私も入れてください」、と祈るようになりました。隣人を愛するどころか、自らを否定し、そして私を見守ってくださった人々すら信じることが出来なかった私は、罪人です。私は認めます。私は神様を無視し自分勝手に歩む者だったと。

けれども、神様はそのような私を愛してくださり、その私の罪を背負って、イエス様が十字架にかかって死んでくださいました。このことを感謝します。神様は私の悔い改めを待っていたのだと思います。そして今はそれを確信しています。

最後に私の救いの源となった言葉を読みます。これは聖書の言葉であり、マザーテレサが用いた言葉でもあります。

わたしの目にはあなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している。
イザヤ書43章4節


私は今でも時々、私の存在そのものが悪と思うことがあります。しかし街を彷徨うことはもうありません。この御言葉が私を支えているからです。そしてこの言葉は地球上全ての人に注がれていると確信します。神様が私を待ってくれたように、私もこれから興される人に対し、忍耐を持って待とうと思います。

私はこの証を、イエスキリストのお名前を通して天の神様に捧げます。アーメン。










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