2011年2月17日木曜日

OYさん(観察と思考)とIHさん(ソフトテニス練習と英語授業)

これから数回にわたって、「言語コミュニケーション力論と英語授業」で提出された学部3年生のレポートの中から私が個人的に興味深かったものをここで紹介します。紹介する文章はすべて原文で私は(ブログ掲載のための改行増加を除き)手を入れていません。


まずはOYさんですが、彼女は自分が教育実習で行った授業を具体的に分析し、授業における観察力と思考力の重要性について述べてくれました。結論部分だけを引用します。


OYさん:授業中の生徒指導 ― まずは生徒を見て観察し、それから考える


まず、生徒指導と言うのは一、二回の授業だけでは、到底できるものではないし、継続した生徒の観察によってできていくものであると考える。では、私が教育実習の授業の中でできる生徒指導とは何だったのだろうか。それは、授業の中で生徒をよく見ること、生徒について深く考えることだったのではないかと思う。私は、授業の中で生徒に理解させること、英語を使わせることに必死になってしまっていて、生徒の表情や考えに意識を向ける余裕がなかった。つまり、生徒指導で最も重要である、生徒を見る、観察するということができていなかったのである。

今回分析に使用した授業の対象クラスは、私のHR担当のクラスであり、また前日にも授業を行ったクラスでもあったので、少しだけではあるが、生徒の様子や性格、授業への姿勢、英語の得意・不得意など分かっていた。しかし、そういう特徴を持った生徒であるからと勝手に決めつけ、「なぜ授業に集中できないのか?」「どうすれば授業が楽しいと思って集中できるようになるのか?」「英語を使いたいと思わせるためにはどうすればいいのか?」などを考えることを怠っていた気がする。生徒指導という側面でいうと、行動に移すためには長期間における生徒観察が前提となるが、行動するための第一歩となる「考える」ということは、指導案作りや授業の中においてもできることであったし、授業をする上でとても重要なことであったと思う。OY




次にIHさんですが、彼女は自分が練習してきたソフトテニスとの対比から英語授業について考えました。英語授業といえど、結局は人間の営みなのですから、他の営みとの共通点が多々あると私は思っています。もちろん相違点はしっかりと認識しておかなければならないのですが、例えば運動技能学習の観点から英語学習を再考することなどは重要です。

もちろん運動技能学習と英語学習の類似性については多くの人が語ります。しかしそういった人も運動技能学習についての自覚・分析・記述が十分でないと、「ま、要は繰り返しだね」や「最後は根性よ」といったおよそ粗雑な結論だけに留まってしまいます。IHさんは日頃から言語表現力に長けた感想を寄せてくれる学生さんですが、このレポートでも比較的詳しくソフトテニス練習について分析的に記述し、そこから英語授業について考察してくれましたので、ここで紹介する次第です。


IHさん:ソフトテニス練習と英語授業

授業で、英語は記憶しながら勉強するのではなく、音楽やスポーツのように慣れるものであると習った。その点で、このパターンプラクティスは慣れさせることを目的にモデル文の模倣・反復練習などをみっちり行うために理にかなっていると言える。私はソフトテニスを長年やっているのでテニスにたとえてみることにする。

テニスの初心者がまずやることは、素振りを何百回も何千回も行うことである。フォームを自分のものにしなければ、ボールに当てることの原理を体得できず、ボールに当たることはまぐれでしかなくなる。この、「フォームを自分のものにする」ために、英語においてもまずは教師が発するモデル文を何度も何度もリピートするのである。

そしてテニスではフォームが形になってからやっとボールを用いた練習に入るのだが、ここでいきなり相手がコートの反対側から打ったボールを打ち返すというのは至難の業である。人が打つボールは毎回同じ特徴を持たせることは難しいため、打ち返す方は個々のボールに応じた動き方が要求されるからだ。どんなにプロだっていつも同じ地点に同じ孤を描きながら着地させることなんてできない。それに加えて、ボールの飛距離によって、ワンバウンドしてからのボールの伸びが変わってくるため、コート反対側から打たれたボールは予想以上に自分に早く向かってくる。これが初心者には予想できず打つのが難しいのである。

このようにさまざまな応用力が必要になることから、初心者は次に、ボールの「落とし打ち」をするのが一般的である。これは打つ人の打点になるだろう地点に別の人がボールを上から落としてやる。打つ人はそれがいい高さのときにラケットの面に当たるようにラケットを振ればいいだけである。素振りを通して習得したフォームを崩さないように、今度は一歩進んで打点を意識するように練習する。しかし飛んできたボールとの距離の取り方や打点への入り方のような実践的なことはまだ考える必要がない。

テニスについて少し熱く語り過ぎてしまったが、この「落とし打ち」はパターンプラクティスでいえば先に反復練習した「モデルの構成要素を入れ替えたり、拡張したり」して実際に少し文を作り変える段階のことではないかと考える。まだ実際のコミュニケーションの場面で使えるような実践的な内容ではないが、先に学習したモデルを活用するレベルへの第一歩である。

私がテニスを始めた頃は、この素振りから落とし打ちまでの活動をほぼ2カ月間も行った。しかしこの2カ月間の下積みのおかげで、後の実践でどんなボールが来てもフォームを崩さずに打ち返すことが可能になったのである。これまでのところ、ドリル練習などの訓練はぶれない基本を自分の中に作るという意味で大変重要であるといえる。

そして、完璧にボールを打つタイミングを習得した後は、打つ人のいる地点の少し前からボールを投げてやってそれを打つ練習をし、そうやってボール出しをする人と打つ人との間の距離を長くしていく。それを徐々にクリアしていき、最後に実際にコートの反対側からラケットで打たれたボールを打ち返す練習へと持っていくのである。

しかし英語の方では、パターンプラクティスを終えた後に、それらを次の活動にどうつなげていくのかが問題である。つまり、パターンプラクティスの欠点のひとつは、機械的にモデル文を定着させることを目的とするため、実際の場面で使用するためにはそのモデル文を活用して出力へとつなげるための別の活動が必要になってくることである。

ここで教育実習での実習生の授業を振り返ってみると、パターンプラクティスを少し行った後にその活用練習としてinformation gapやbingoなどゲームを用いているものが多かった。そしてそれなりに楽しんだ後に「ここまでで今日の文法は終わりです。では教科書を開いてください。」という具合に、インプットとアウトプットとを一通り終えたつもりで区切りをつけて教科書の内容に入っていくものが多かった。

私を含み全体的に、授業の目標に沿って指導案が練られているにもかかわらず、各活動がぶつ切りに並べられているようであったし、またただ生徒にとって楽しいから、流行っているからやってみる、という風に投げ込んだ活動が多かったように思う。テニスで言えば、落とし打ちをして打てるようになったから「よし、試合をしよう」といきなり本番に入ってしまうようなものである。それでは例えば10回連続で相手とボールを打ちあう、などのような実践的な練習がまだできていないのだから、結局ボールに対応することができないのは目にみえている。

このように考えていると、英語はスポーツや音楽と同じように実技教科であるという認識をする人々に納得する人は多いだろうに、ではなぜ授業の進め方、学習の方法を実技教科と同じような理論で考えないのだろうか、と言いたくなってしまう。つまり、体育や部活動では基礎練習→応用練習(実際の場面を想定した練習など)→練習試合→本番試合という流れが一般的であるのに対し、なぜ英語の授業ではその基礎練習から練習試合、さらには本番試合までとばして行ってしまうものが多いのだろうか、ということである(これはあくまで私のこれまでの経験からの印象であるが)。IH



(このシリーズは続きます)











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