anfieldroadさんさんのブログ「英語教育2.0」での企画[みんなで英語教育] 第1回「私の英語学習歴」が面白そうなので、下記の私の英語学習歴を簡単にまとめてみます。といっても今はあまり時間がないので、下記の文章はぶっきらぼうな文体で書きます。偉そうでごめんなさい。
・・・と書き始めたら予想以上に時間がかかったので、今回は私が大学院を終了するまでの学習歴にします。これは、言い換えるなら「留学なしの私の英語学習歴」です。
*****
■小学生の時の英語教材
英語との最初の出会いは、田舎者の両親がセールスマンにうまく説得されて購入した英語教材ソノシートだったと思う。たしか小学校1年生の時だったと思うが数ヶ月ぐらい聞いてやめた。効果があったかどうかわからない。(英語の発音に関しては、中学校の同級生がもったいぶって教えてくれた「モノマネがうまい奴は英語も上手になる」という俗説を私はまだ結構信じていたりする(笑))。
■セサミストリートは大好きだった
夏休みはNHK教育テレビでセサミストリートを見るのが楽しみだった。たしか英語音声で日本語字幕だったと思う。歌も人形劇もフーパーおじさんも大好きだった。
■中学生の時の予習:英語を二回書いて訳を一回書く
中学校に入って英語の予習は「ノートの左側に教科書の英語を筆写して、右側に日本語訳を書くもの」だと教わったが、子供心にも「英語を勉強するのに、ノートの半分も日本語を書くのはおかしいだろう」と思って、英語は二回筆写してから日本語訳を書いていた。音読はあまりやれとは言われていなかったと思う。その後、この「ノートの左に英語、右に日本語訳」というのが高校時代終了までの予習スタイルとなる。今考えると、英語の意味も音声もわからずに英語を筆写するのは時間の上でも効果の上でも合理的な方法ではなかったと思う。
■中学生の時の英語塾
友達と一緒に、その友達のおじさんに英語を教えてもらった。ここで文法をしっかり教えてもらったのは良かったと思う。その頃友達と「WhatとHowの感嘆文での使い分けは、塾で教えてもらっていなかったらきっとわからないままだったね」と言い合ったのはなぜか今でも憶えている。
■ビートルズにはまる
当時の中学生にとっては、ラジカセでNHK-FMを「エアチェック」する(=好きな曲を録音する)ことは最高に刺激的なことだった。たしかこの頃から(今はなき)『週刊FM』を買って番組表に線を引いていたはずだ(副産物として長岡鉄男の文章が好きになった)。
ある夏休みにビートルズの特集があって、彼らの全作品をカセットに録音し、以後それを何度も聞いた。やがてLPでポール・マッカートニー&ウィングスのLPも買ったりした。歌詞を見ながら英語で歌おうとしたが、歌えなかった。また、あるライブの録音では確かポールが"Can you hear me?"と言っていたのだが、当時の私には「キニヒームニー!」としか聞こえなかった。
■NHKラジオ基礎英語は続かなかった
担任の先生(教科は理科)がNHKラジオ基礎英語を聞くことを熱心に薦めてくれたが、時間帯がなかなか合わず、ついぞまともに聞いたことがなかった。
■高校の同級生に圧倒される
高校に入ったら急に英語が難しくなってびっくりした(数学の驚きはもっとすごく、高一の二学期で自分は文系にしか行けないと思い込むに至った。実際、数学の成績はおそろしく悪かった。さらに化学については、先生が言っていることがほとんど理解すらできなかった)。とにかく田舎の子どもだったので、高校に入ってみると同級生が中学校の頃から大学受験を意識して勉強をしていたことに驚かされた。ある同級生などは高一の入学時点で「赤尾の豆単」を全部暗記していたとの噂だった。
英語の成績が人並みになったのは高二の頃で、しかしその頃でも研究社の英和中辞典を手垢で真っ黒にしている同級生などを見るにつけ(実際、彼は英語ができた)自分の英語に自信が持てなかった。この高校の頃の感覚を思い出すと、現在私が教育学部で英語教員養成をやっていることが信じられない。当時は高校でもずっと得意だった国語を教える高校教員になるつもりだった(一時期は出版社の編集者(その後、小説家)になろうと思っていたが(笑)、関東の私立大学に進学するには新聞奨学生になるぐらいしか方法がなく、その新聞奨学生制度についても、近所であまりよくない噂を聞いたので諦めていた)。
■研究社英和中辞典を読んで、ノートにまとめる
高校の英語の予習も「ノートの左に英語、右に日本語訳」のスタイルだった。ただ新出単語の予習に関しては、他の人が使っていた小さな手帳サイズのいわゆる「単語帳」は使いにくいと思い、レポート用紙をばらけないように束ねて新出単語の意味と例文を書き写していた。辞書は学校で薦められていた研究社英和中辞典で、その紙質や表記法がずいぶん大人っぽいなぁと思っていた。
単語の意味と例文(および発音記号)を書き写す際は、まず単語の項目をすべて読み、だいたいその単語がどんなものかを自分なりに理解してから選択的に写していたと思う。発音記号は巻末の一覧表を適宜見ながら少しずつ覚えた。授業で体系的に教えられたことはないと記憶している。
■単語集と文法問題集は嫌いだった
上記のように辞書を読んで単語についてある程度理解してから辞書の内容を選択的に書き写すというのは誰に教えられたわけでもないが、そうでもしないと自分は納得できないからと思い高校の三年間続けたと思う。逆に言うなら、「英単語一つにつき、日本語訳一つ覚える」といったスタイルの単語集が嫌いだった。赤尾の豆単も森一郎の『試験に出る英単語』も周りにつられて購入し暗記しようとしたがついぞ最後までは終わらなかった。ただ桐原書店だったかの単語集は例文も多く、レイアウトも合理的なものだったので受験直前には何度か読みなおしたと思う。
文法は得意でなく、文法の問題集に至っては嫌いだった。不定詞のナントカ用法とかいわれると「そんなにきれいに用法を分けられるわけないでしょ」と心中密かに思い、気を入れて勉強しなかった。文法問題集は、とにかくパターンを暗記して得点が取れるようにしようという形でこなしたのでまったく面白くなかった。結果、仮定法などの意味が自分なりに納得できたのは大学に入って安藤貞雄先生の『英語教師の文法研究』などを自分で読んでからだった。とにかく生徒に理解させないまま点数をとらせようとする受験指導が大嫌いだった。
■高校のO先生の日本語の自然さに驚く
英語の授業は典型的な文法訳読式だった。だがO先生の訳は達意のもので、当時小説家になりたいなどと妄想していた(笑)自分としても、先生の日本語の自然さに驚いた。単語については上記のようにそれなりに辞書を読み、書き写していたので、O先生が英和辞書に載っていない訳語もどんどん使って訳出していくのを聞いて、なるほど見事なものだと思った。英語教師の日本語に感心したのはこのO先生だけだ。(O先生が選ばれた教科書の内容も教養的なものが多かったように覚えている。少なくとも授業で読んだトルストイの「人にはどれだけの土地が必要か」の課はイラストまで今思い出せる)。
O先生は(確かジョーンズの)発音辞典も常に授業にもってこられていたが、その発音辞典を開いたのは三年間で一度もなかった(笑)。ただO先生の発音は、他の先生とくらべても端正なものだったと思う。常にスーツ姿というのは英国紳士を意識されていたのかもしれないが、卒業文集には勝海舟の言葉を引用していた。考えてみると、このように英語も日本語もすばらしい先生というのが私とってのあるべき英語の先生の姿として印象づけられたのかもしれない。
■O先生にLongman英英辞典を薦められた
O先生は私たちが2年生か3年生の頃にLongman英英辞典を薦められた。何人かの仲間と共に私も買った。回数としては余り使うことはなかったが、使ってみるとなるほど面白いものだと思った。(後述するように、このLongman英英辞典は大学時代に使い倒した)。
■英語の先生がカセットテープレコーダーを持ってきた時には何が起こるんだろうといぶかしがった
ある日そのO先生が授業にカセットテープレコーダーを持ってきた。それを目撃した私は「英語の授業なのにカセットテープレコーダーを持ってくるとは、一体今日は何が起こるのだろう」と不思議に思った。授業で先生は「たまには生の英語を聞かせようと思って」と、ネイティブの英語(教科書の朗読だったろうか?)を聞かせてくれた。高校三年間の授業でネイティブの英語を聞いたのはこの数分だけだったと記憶している。昔はこんなものだった。
■怖かった英作文の先生の指導
三年生になったら「怖い」と評判の先生が英作文を担当し始めた。その先生は(名前は忘れてしまったが、口癖は覚えている 笑)、生徒が黒板に書いた英作文を見ると、しばしば「こんなのは英語ではな~い」と一喝し生徒の英作文を全部消して模範解答を自ら板書していた。たしかに私も、当時英作文に"Be it ever so humble..."といった構文を使い、(別の英作文の先生に)「こんなのは英作文で使わないんだよ」と言われて「英文解釈で習った表現なのに・・・」と不思議に思っていたぐらいに文体感覚がなかったから、先生も生徒の英作文をあえて添削しなかったのかもしれない。
しかしうがった見方をすれば、あれは指導ができなかったのを大声でごまかしていただけではないかと今では思える(爆笑)。
■『英文標準問題精講』とラジオ講座
授業以外では原仙作の『英文標準問題精講』をみっちりやって、英文の統語関係がきちんと分析できるようになると「あとは語彙力を強化するだけだ」と自信がついた。旺文社の「大学受験ラジオ講座」のテキストもよくできていたので、よく勉強した。
『和英標準問題精講』と『英文法標準問題精講』は一応通してやったぐらいだ。英作文については当時は自分に力がついていなかったし、英文法は上で述べたように大嫌いだったからだ。
ただ英文解釈に関してはこの高校の勉強で底力をつけることができたので、その後大学・大学院で英語やドイツ語を読んでも、(妙に聞こえるかもしれないが)日本語で難解な哲学の文章を読んでも、要は高校の時の英文解釈の要領で読めば意味はわかるはずだと思い、実際、(語彙や背景知識さえあれば)一字一句ゆるがせにしない態度で言葉に忠実に読めば理解できたので、この英文解釈は一生の宝となった。
逆に言うと最近の学生さんはこのような訓練を経ていないからか、特に英語を読ませると言葉に忠実に読めず、片言隻句をきっかけに自分で勝手なことを言い始めることが多い(最初はなぜ学生さんが本文に書いてもいないことを言い出すのかわからなったが、その後、四択問題を解くだけのためのような英語授業しか受けていないとこうなるのかと思うようになった)。
ついでに文句を言うと、当時流行っていた『構文700』とかいう受験書も一応やったが、この本は後年見ると、話し言葉や書き言葉などがごちゃまぜになった本だった。今手元にないから確認できないが、あれはひどい本だったと思う。
■はずみで国語科から英語科を受験してしまった
国語の教師になるつもりが、共通一次で偶然で高得点を得てしまった。(諦めていた数学Iの確率の問題を、マーク箇所に合わせて、約分できる答えが出るわけないからと適当に正解の当たりをつけてみて、問題を逆向きに解いたらそれがまさに正解で一挙に得点が上がった)。学校の先生から「これなら英語科でも合格するよ」と言われ、親にも「国語より英語の方が食いっぱぐれがないだろう」と言われた。常見のない貧乏人だったので、英語科を受験することに急遽変えて、合格した。
国語は昔から好きで、小学生の頃は井伏鱒二の『ドリトル先生』シリーズ、中学生の頃は上記の長岡鉄男、井上ひさし、北杜夫、夏目漱石(ただし『吾輩は猫である』と『坊ちゃん』だけ)などを愛読していた。どれも文体が好きだからであった。
高校の頃は「新潮文庫の100冊」などを頼りに本を読み、ひねくれた田舎高校生によくあるパターンで大江健三郎の小説やエッセイを愛読していた。大江健三郎の変態的な日本語を読み慣れていたので、「国語の問題で自分に理解できない文章が出題されることはない」と確信していた(笑)。
少ししか読んでいないのだが、井上光晴や高橋和巳の文体にも魅了された。好きな文体で本を読んでいると、その文体が自分に憑依したようになり、自分もその文体によって呼吸し思考するのが、新たな身心を獲得する経験のように思えてとにかく読書が楽しかった。
逆に言うと、世間に媚びたような文体の本が大嫌いで、確か立原正秋の『冬の旅』だったかを読んでその(私からすれば)気骨のない文体に憤慨し「新潮社はこのような本を『100冊』の中に入れてはいけない」と一人怒っていた(笑)。
そのように文体がもたらす身心の体験が好きで言語の道を選んでいたので、大学で英語科に入った当初は、共感できない外国語を専攻することにしたことをずいぶん後悔した。そんなこともあって大学二年の時はユング心理学関係の本ばかり読んで、心理学科に転科しようと思っていたが、ぐずぐずするうちに進級し現在に至っている。
■ESSで発音・スピーチ・ディベートなどを学んだ
英語を話せるようになったのは大学時代だが、正直言って、大学英語教育からはほとんど恩恵を受けていない。少なくとも話し言葉に関しては、ESSで自らあるいはお互いに学んだ。ESSではドラマコースに入り、安い発音教本を使って先輩に発音のやり方を教えてもらった。さらに五十嵐新次郎の『英米発音新講』のカセットテープ付き版を、学生としてはかなり高価だったが購入したりして、英語の構音法に関しては理論的にも音声的にも学んだのでこれが一生の宝となった。
英語のスピーチに関してはESSでもあまり分析的な指導はなかったが、スピーチのうまい先輩が多くいたので自然に学んだ(またドラマで発声法を練習したのもよかったと思う)。
ディベートはかじったぐらいだが、それでも「立論とは何か」「反論とは何か」を教本などを使って教えてもらったし、議論の際のメモの取り方も指導してもらった。これも一生の宝となった。しかしESSを一歩出ると、(ESS流の)「立論」「反論」ができない「議論の花を咲かせる」ような話し合いなので、その(私からすれば非論理的な)「話し合い」に付き合うのには苦労した。
■NHKラジオ英会話はカセットで購入し毎日ディクテーションと暗記
ESSでは毎日「昼のコース」と称して集まってお互いの学習を確認していた。NHKラジオ英会話のディクテーションと暗誦から始めた。最初の数ヶ月はディクテーションに苦労したが、何度もテープを聞き正解と合わせるにつれ少しずつ自分の耳が、それまでの日本人英語から「矯正」されてきた。また何度も聞いて音読したので、それほど苦労せずにその日の本文が暗記できるようになった。この訓練は自分の話し言葉の基礎となった。二年間ほぼ毎日やった。最後の頃はディクテーションはほとんど必要なくなり、6回音読したらだいたい暗誦できるようになった。三年生になったらさすがに飽きたのでやめた。
■Spoken American English Courseの中級と上級を暗記
Spoken American English Courseというロングセラーの英語教本をESSではよく使っていた。これも一課ずつディクテーションと暗誦をして、中級と上級の二冊をあげた。こういった経験を通じて、いわゆる「英会話」はある程度の数の構文パターンを使いこなせばなんとかできるものだと思うようになった。
■NHKテレビ中級英会話で話し方を学ぶ
とはいえ、上記の教材は「作られた会話」なので、会話の中でどのようなタイミングと表現で発言したらよいのかなどがあまりわからなかった。そのような問題意識があったので、英語でのインタビューをそのまま流していたその当時の「NHKテレビ中級英会話」(だったっけ?)を見ることは非常によい勉強になった。
■ドラマで「感情を込めて台詞を言うように」と指示されて閉口した
ドラマコースでは発音・発声の基礎訓練を終えたら、脚本を渡されそれを読み、かつボランティアで脚本を朗読してくださったゴールズベリー先生のテープを何度も聞いて、稽古を始めた。脚本を読み朗読テープを聞いていても、ディレクターから「感情を込めて台詞を言うように」と指示されて閉口した。微妙なニュアンスを英語の音声に込める術を知らなかったからだ。「感情が高ぶれば大きな声で」といった粗野な方針ではとても脚本の英語が本来もつはずの微妙な息遣いは表現できない。その当時の私の英語力は、息遣いの体得とは程遠いところにあった。
■いつの頃からか英語の活字から「声」が聞こえるようになってきた
大学で英語の活字を見ると、それなりに標準的な発音は自動的に心中に浮かぶぐらいにはなったが、その音声は息遣いを伴った自然な発話ではない、いわば機械合成音のように表情を欠くものだった。しかしいろいろやっているうちに、活字を見ていてもそこから自然な「声」がだんだんと聞こえるようになってきた。主観的な言い方にならざるを得ないが、活字から自然な「声」が聞こえてこないうちは、話し言葉は身についていないと言えると思う。
■「英語で夢を見る」ことも始まった
当時「英語で夢を見たか」というのがESS仲間で時に話題になった。英語で夢を見るようになれば、無意識で英語を使えるようになっているはずだ、というわけである。これは案外早く経験した。もちろん夢の中の英語はでたらめかもしれないが、最初は確か英語の本を猛烈な速度で音読している夢を見たと思う。もちろんその音読も、それなりに「声」になっていたものだった(なんせ夢の中のことだから、なんとでも言える 笑)。
■フォニックスと語源は自学自習した
活字から自動的に自然な声が浮かび上がってくることの前提は、もちろんまずは活字から自動的に・苦労せずに標準的な発音が再生できることだ。これも特に誰かが教えてくれたわけでもないと記憶しているが、竹林滋先生のフォニックスの本を自学自習し、かつWebster系の辞書や当時のCODで採択されていた、英単語に添えやすいdiagraphの方法を自分なりに覚えて、調べた英単語にはいちいちdiagraphの記号を添えているうちに、つづりを見ただけで発音とアクセントに関してはだいたい正確に予測できるようになった(もちろん例外的な綴り字に関してはこの限りではない)。
他に自学自習したものに語源がある。確か『英語の語源事典―英語の語彙の歴史と文化』だったかと思うが、これは一時期常に持ち歩き、読んで覚えていた。上に述べたように「一単語一訳語」といった単語集は大嫌いだが(というよりそのような単語集が好きな人に聞きたい。そんな単語集を使って暗記した単語は自分の身についていますか?)、語源を学ぶといろいろと応用が聞くので重宝した。さらに(たぶん)この本にはいろいろと解説が詳しく、自分なりに納得した上で単語を学ぶことができるので嬉しかった。
■英英辞典を愛用した
大学一年から二年の間は、Longman英英辞典(Longman Dictionary of Contemporary English)を使い倒した。最初はなかなかなれなかったし、文法訳読式の大学授業の予習用には必ずしも便利ではなかったが、英英を使っているうちにだんだんと英語の感覚がつかめてきた。ある英語表現から別の英語へとつなげてゆくことに慣れてきたから、英語を話す際に重宝した。
ある時、Longman英英辞典の背が「ぱかり」と割れたが、その時は「ああ、よく勉強したなぁ」となんとなく感慨深かった。電子メディア全盛の昨今だが、英語を身につけようと思ったらいわゆる学習者用の英英辞典は紙媒体で購入し常時持ち歩いて使い、線を引き、線を引いたところを折りにふれ何度も読んで、ボロボロになるまで使い倒す方がいいと思う。感情的な満足感だけでなく、学習上の合理性も高い方法ではないかと思っている。
大学三年ぐらいから、学習者用の英英を卒業して、母国語話者用の英英を使い始めた。一番使ったのは、Concise Oxford English Dictionaryだ。歴史の長い辞書だからか、わずかのスペースに、かゆいところに手が届くように語義が説明されていた。あと好きだったのは、Webster's New World College Dictionaryで、これは語義が頻度順でも歴史順でもなく、典型的意味から派生的意味へと並べられていて語の全体像をつかみやすかった。(後には、携帯に便利で意味記述も簡明なPocket Oxford English Dictionaryの革カバー版を愛用するようになった。革カバーは丈夫で、背が割れることもないので重宝した)。
ロングマンだけでなく、Oxford Advanced Learners' Dictionaryや、Chambers、(後年では)COBUILDなどの学習者用英英もかなり使ったが、英語を専攻する人間としては、卒業するまでにぜひ学習者用英英では物足りなくなり、教養ある母国語話者のための英英を愛用できるようになってほしい。そのくらいになるとインターネットにあるリソースが無料でふんだんに使える。
しかしおじさん的説教モードに入ると(笑)、最近は下手をすると大学院生まで高校生用の学習英和を使っている。それでは英語は使えるようにならないだろうと、いつものように自分のことを棚に上げて苦言を呈しておく。(自らの学習履歴を説明するのに、説教が入ってくるというのは教師の職業病であろう。ご寛容を)。
■留学できる同級生がうらやましくてたまらなかった
当時円は安く、留学は難しかった。大学の制度を使えば留学は可能のはずだったが、大学からのお金とは別に私費で最低100万円程度は必要だった。大学に入って私は最初の三ヶ月だけ家賃の仕送りを受けたが、その後は完全に自活していた(アルバイト+奨学金+授業料減免制度)。その中でお金を貯めるのは苦しかったが、留学の夢は断ちがたく、数ヶ月ほど必死にバイトをして20万円ほど貯めたが、「こんな働き方をしていたら100万円貯まるころには、自分の人相が変わってしまう」と思い、留学の夢は諦めた(20万は、電話と中古のサイクリング車を買うことなどに使った)。
だから留学に行ける人がうらやましくて仕方なかった。逆にそのコンプレックスで「留学期間の英語学習では負けても、こっちは常に英語を勉強しているのだから、生涯を通じての英語力は決して負けない」と自分に言い聞かせていた。以前の「ある仕事中毒者の反省」にも書いたように、以前の私は、まあ暗くて歪んだ嫌な奴だった(今もかなりそうなのだが 笑)。
■松本道弘氏の影響でTIMEを購読し始める
そんな私の心性は、松本道弘氏の「英語道」の考え方に妙に惹きつけられたのかもしれない。(当時のESS仲間の少なからずがそうであったように)私は松本道弘氏を指針として、英文週刊誌のTIMEを読むことを確か大学二年生から自らの訓練としていた。
最初は英語はもちろん、世界事情に関する基礎知識がなかったので『TIMEを読むための背景知識』といった本を読んだ。結果的には政治や経済についての知識を得ることができたのでよかったといえばよかったのだが、今から考えると新語や造語を好むTIMEよりも、平明かつ深い表現を好むThe New Yorkerを購読するべきだった。結局TIMEは20年以上購読したが、その間もしThe New Yorker(あるいはThe New York Review of Books)を購読していたら私の英語も少しは変わっていただろうと思う。「習慣は第二の天性」なのだから、定期購読物の選択には知恵が必要だと思う。
松本道弘氏はその他にもFENラジオ(現在はAFNラジオの英語を聞くことを勧めていた。広島市は岩国基地に近いのでFENも聞けたが、結局はAmerican Top 40という音楽番組を楽しむぐらいでしかできなかった。
■雑誌English Journalのカセットを聞き続ける
英語講座のLL教室は雑誌English Journalを購読しており、カセットも借りられたので一本のカセットを借りて、一ヶ月ぐらいウォークマンで折にふれて聴き続けた。聴き続けていると、いくつかの表現は覚えてしまい、テープに同調して英語表現(の一部)が言えるようになる(一種の意図しないシャドーイングだ)。これはいい訓練になったと思う。30歳前後ぐらいまでこれは続けた。
■初めて読了したペーパーバックはGift from the Sea
初めて読了したペーパーバックはGift from the Seaだった。大学三年生の夏だったが、これはスラスラ読めたので、「しまった、TIMEにこだわらずに、もっと早くから平明で深い本を読むべきだった」とその当時ですら後悔した。
その後、映画の『ナチュラル』が面白かったので、原作のBernard Malamud The Complete Storiesも読んでみたが、結末が映画と小説ではまったく異なっていたのでこれには驚いた。
■学部三年生の冬に英検一級に合格
英検一級には学部三年生の冬に合格した。この時も学生としては大枚をはたいて通信教育教材を買ってそれなりに勉強した(私は概して英語を使うことは好きでも、勉強することは好きではないので、これはまったく珍しいことだ)。英検二次試験リスニング試験にはFENを聞いて準備していたら、試験ではずいぶんと英語がゆっくりなのでびっくりした。スピーキングの試験会場で何人かの人と話をしたが、私などよりはるかに高い英語力の人が多くいた。
それでも合格した私は、同時期に英検一級に合格したESSの一年後輩(理学部数学科)と顔を見合わせて「英検一級に合格したぐらいじゃ、何もできないね」と言い合ったことは今でも憶えている。
■大学の英語の授業は面白くなかった
このように私は、不遜を承知で言うなら、英語力のほとんどは授業外で学んだ。
というよりその当時は「勉強は自分でするもの。大学の教師は適当に授業をやって単位を出してくれればいいから、あまり色々と口出しをしないでほしい」という思い上がった文化が学生側にまだまだあったし、大学の先生にも「わかる奴が講義を聞けばよいし、あとの縁なき衆生は適当に勉強しておけば単位は出すから、無理に出席などしないように」という方がまだいらしたと思う(時代は変わるものだ 笑)。
だから私は興味の持てない授業はできるだけさぼっていたし、出席を取るなど無粋なことをされる先生には学生仲間で協力し、出席した者が七色の声を使い分け代返していた(教師も気がつかないふりをしていたのではないかと思われる)。教養課程で役に立ったと思える授業は、ゴールズベリー先生のように教養ある話をされる先生の授業と、ひたすら機械的にLL演習を学生に課した授業ぐらいだ。そのLL演習の先生は常に背後のモニタールームにおり、姿を現したのは最初の授業の最初の5分程度だったと思う。人格的な交わりは一切なかったが、こっちとしては英語力を上げるつもりだったから、これぐらいに機械的にやってくれた方がむしろありがたかった。ただ英語専攻ほどに動機づけられていない国語専攻の学生にとってはあのLL演習は苦役だったであろう。
学年が上がるにつれどうしても出なければならない少人数の授業も多くなったがその場合は、「学生の英文音読→学生の日本語訳→教師の模範訳」という授業の流れの中で、「学生の英文音読」のところだけ耳を傾けていて、後のところでは自分でどんどん教科書を読み進めていた。
しかしもちろん立派な先生はいらした。ある授業ではRalph Waldo EmersonのThe American Scholar: Self-reliance. Compensationをテキストにしたが、この授業は先生が身を入れて教えて下さり、かつ内容的にも共感できたので、自分もしっかりと勉強した。
ただその先生の他の授業では、私はテキストの内容に共感できなかったので、予習もあまりせず、授業中はひたすら気配を消して「風になり」、指名されることを避けていた(笑)。
■VHSビデオで映画にハマる
大学院に入り、塾や予備校で教えるようになってから金回りがよくなって、VHSビデオを買った。勉強に疲れたら「半分休憩、半分勉強」の名目で英語の映画を見ることを自分に許した。レンタルビデオ屋で借りたビデオは一回目は日本語字幕付きで見て、二回目以降は字幕の部分を物で隠して見るようにした。繰り返すにつれ、認識できる英語表現が増えるのが嬉しかった。
ことのほか好きだったのはコメディだった(後年、これに法廷ものと潜水艦ものが加わる)。コメディとは(スラップスティックを除くならば)言葉の微妙な使い分けに基づくものだから、字幕では本当の面白さはわからない。元々笑いは好きだということもあり、コメディの言葉使いに学ぼうと、コメディはかなり見た。近所のレンタルビデオ屋のコメディは全部見尽くしたはずだ。
ちなみに法廷ものは、法定弁論の言葉遣い一つでがらりと形勢逆転するので、これまた言葉の力を学ぶのにはいい。また潜水艦ものは、密室での判断を描くものであり、判断のための外部からの情報は極めて限られている中、緊迫する人間関係の中で言葉を使うからこれまた言葉遣いがめっぽう面白い。
いずれにせよ私はほとんど留学することなく、ある程度の話し言葉英語の力をつけることができたが、その仕上げはこの映画の繰り返し鑑賞だったと思う。
■TOEFL受験
大学院時代にTOEFLを受験した。一回目(これは学部時代だっただろうか?)は得点もあまりよくなく、文法が一番悪かった。対策が必要かと、文法の問題集を買ったが、上に述べていたような好みからその問題集はほとんどやらなかった。しかし二回目の受験の頃までには、かなり英語を読んで聞いていたので、二回目の受験では得点が確か635点(ペーパー版)になり、かつ文法もぐんと上がった。
一回目の受験は、文法問題は考えなければわからない(あるいは考えてもわからない)ものだったが、二回目の受験では文法の間違い探し問題は、考える間もなくある箇所が間違いであることに気がつき、その後でなぜその箇所が間違い出るかを確認のために考えるというようになった。後に「集中的入出力訓練」についていろいろ書いた時も、この時の印象が忘れられなかった。三回目の受験では確か647点だったと思う。
数年前試しに受けてみたら確か640点台前半ぐらいであまり伸びていなかった。ただこの時は、かなり時間の余裕があり、読解の二問程度に関しては、むしろテスト問題作成者の立場から「この問題は複数の正解を許すのではないか」などと考えていた。
点数が伸びない醜い言い訳を重ねるならば、私はリスニング問題が苦手だ。特に嫌なのは短いリスニング問題で、いきなり様々な話題が出てくるから、こちらとしては頭の切り替えに苦労する。短い問題は苦労しているうちに終わったりするので、得点できなかったりする。まったくの負け惜しみだが、こういった問題に関しては対策が必要だと思う。逆に言うなら長いリスニング問題なら、聞いているうちに頭も「ああ、こういう話題か」と慣れてくるので、得点しやすい。
そもそも試験というのは、いきなり特定の話を聞かせたり読ませたりするという点で極めて人工的である。現実世界なら、ある場所にいけばどのような話がされるかが予期できるし、ある本を手にとればどのような論が展開されるか予想できる。リスニングでもリーディングでも「以下は○○に関する話です」といった「前振り」が必要だと、ここでは負け惜しみを込めて言っておく(笑)。
■修士課程では心理言語学の英語論文を大量に読む
修士論文のテーマは迷ったあげくに、心理言語学(psychology of reading)にした。その当時は日本語文献がほとんどなかったし、広大教育学部心理学講座の図書室は英語文献が充実していたので、文献はほとんどすべて英語文献を読んだ。量もそれなりに読んだので、英語を読むのには慣れた。というより学術論文の表現は意外に限られているから慣れるのも早い。
このことから言えるのは、英語を限定的な目的のために使うこと(English for Specific Purposes)は、教養ある英語母国語話者のように英語を使おうとすること(English for General Purposes)より簡単なのだから、合理的な訓練をすれば存外速くESPの力はつくのではないかということである。
残念ながら英語教師はEGPの文化に育ち、EGPの力の向上を自らに課し学生にもそれを期待しがちである。だが学生の多くはESPで十分で、特にEGPなど求めていない。今後は英語教師は自らにはEGPを課しながらも、学生それぞれのESPをきちんと分析できる力が必要となるだろう。(参考:ESP的バイリンガルを目指して‐大学英語教育の再定義)
■博士課程で哲学に興味が出てきて主要学術言語が日本語に戻った
その後、心理言語学研究が、実験で有意差を出すために条件をうまく整えるだけの知的ゲームにすぎないようい思えてきた(心理言語学者の皆さん、ごめんなさい)。現実世界との関係が感じられなくなってきた。そうなると単純なもので、心理言語学研究をするつもりがまったく失せてしまった。
紆余曲折あって結局ウィトゲンシュタインの哲学に流れ着いたが、ウィトゲンシュタインについてはかなり日本語文献もあったので、私の主要学術言語は再び日本語となった(ここできちんとドイツ語を勉強するのがまともな研究者(の卵)なのだが、私はここでもヘタレであった)。外国語で哲学をするのは無理だとも思っていた。
後年、英国に滞在し、はじめから英語で哲学を行うことも可能であったのではないかと思うようになった。可能だったかもしれない。そうしていれば私の英語力は今より数段上になっていただろう。
しかしその反面、例えば今の私は武術に興味をもっているのだが、そういった私の日本での生活世界と私の研究活動のつながりは薄くなっていたと思う。ひょっとしていたら英語論文の数は多いけど、年に数回国際学会に行くことだけが楽しみで、日頃日本では給料のために働いているだけ、といった大学人になっていたかもしれない。
どちらにせよ、言語とは生活世界の中にある自己に基づくものである。だから「英語ができる/できない」だけを語るのは愚かで、それよりもいかに英語がその人とその人の生活世界に結びつき、どれだけその結びつきがその人と周りの人を幸福にしているかで判断すべきだと思う。
■まとめに代えて
改めてこうして振り返ってみると、自分は、英語学習の内容や意義にしても、はてまた音声にしても、自分の身心にぴたりと即さないと、英語を勉強しない頑固な人間だということがわかる。
英語学習の内容については、丸暗記の単語集や得点獲得のための文法問題集は大嫌いで、自分なりに面白いと思える内容の教材ではないと本気で勉強しようとはしなかった。このことは、英語学習の意義を、世間的な報酬といった外発的な動機づけでは感じられず、あくまでも自分が面白いと思えるかどうかという内発的な動機づけで動いている、とも言えるだろう。
英語の音声についても、ただ標準的な発音だけでも駄目で、英語の音声と自分の身心がしっくりと同調することが、自分にとって英語習得の規矩となっているように思える。雑誌English Journalの音声を聴くのをやめたのも、インタビュー以外のいわゆる「英会話」コーナーの人工的なイントネーションを聴くのが苦痛になったからだ。あくまでも自然な声でないと繰り返し聴く気になれない。
要は英語学習によって、自分の身心が成長すれば学び、身心の成長が実感できなければ学ばないということだろうか。
(また何かの機縁があれば、この続き(就職後の英語学習履歴)を書くことにします)。
英語教育ブログみんなで書けば怖くない!企画(http://d.hatena.ne.jp/anfieldroad/20110301/p1#tb)に参加しています。
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1 件のコメント:
親がセールスマンにうまく説得されて購入した英語教材ソノシートは、私も全く同様に使ってました。
なつかしくて・・
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