2011年3月16日水曜日

中沢新一『純粋な自然の贈与』講談社学術文庫


日本赤十字社が東北関東大震災義援金を受け付けています
http://www.jrc.or.jp/contribution/l3/Vcms3_00002069.html




【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。地震も津波も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】



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今、国内外から被災した方々への義援金が寄せられています。この贈与は貨幣という形をとります。

しかしお金といってもこのような贈与として送られるお金は、通常のお金のような貨幣の交換価値(いってみるならお金の「値段」)を失っています。義援金を贈る人は、その対価(お金の「値段」「交換価値」)が返ってくることを期待などしていません。贈るということ、受け取ってもらえるということの方が大切なのです。

『純粋な自然の贈与 (講談社学術文庫)』で中沢新一氏は次のように述べます。


贈与という現象にあっては、贈ったり贈られたりしたものの価値には、値段がつけられない。つまり、贈与では、ものの価値は計量化されないのだ。また贈与がおこなわれる場所では、ものや言葉の意味も、ひとつには決定されない。価値や意味をひとつに決定するよりも、贈与がおこなわれる場所では、価値や言葉の対話やキャッチボールがくりかえされ、そのくりかえしのなかから、おたがいの間の理解や信頼が生まれてくる。そのプロセスのほうがずっと大切にされているのである。(148-149ページ)


中沢氏は、贈与が人々を結びつけると説きます。「純粋な気持ちで贈り物をかわしあう二人の間には、個体性をこえたつながりが、つまりはエロスによる結びつきの感覚が発生するのである。」(187ページ)

この贈与が、近代(特に新自由主義の跋扈以降の近年)の私たちが浸りきっている貨幣による商品売買とはいかに異なるかを、中沢氏はモースの思考を紹介しながら次のように説明します。


モースは、人間の社会を全体として統合している力のありかを、探りだそうとしていた。法律や商業や教育には、そういう力はない。法律や教育は、人に外側から力を加えることによって、社会をまとめあげる力にしようとしている。商業経済にも、その能力はない。商業はその本質から言って、人と人のあいだに、分離と距離をつくりだすからである。ある「もの」が商品となることができるためには、それが製造者やもともとの所有者の手を離れていなければならない。それに、家族や親しい友人の間では、なるべく「もの」を商品として、売ったり買ったりしないようにするのが、エチケットだ。切手集めの好きなあなたの親友は、以前からあなたの持っている古いアルメニア切手を欲しがっていた。ある日、あなたはその切手を親友に差し出した。親友はあなたがそれをくれたものと思って、友情に胸を熱くする。ところが、どうしたことか、あなたの口からは、その切手の値段が告げられる。しかも、冗談ではなく。その瞬間、長く続いた友情に、絶望的な裂け目が発生したのを、二人ともはっきりと感じとる・・・。(183-184ページ)


現代の私たちは、24時間営業のコンビニやATMが至る所にあり、パソコンや携帯からワンクリックで買い物ができるようになることをもって、社会が統合されていると思い込みかねません。しかし商業的な等価交換だけでは社会は潤いを失い、貨幣所有の多寡により異なるだけの人々が群居しているだけの場所になってしまいます。そのような場所では、今回のような災害が起こったならば、不運な者や貨幣をわずかしかもたない者は、人間の尊厳さえ奪われてしまうような目にあってしまいます。

こういった災害を前にすると、人々は自ずから「何かせねば」と思います。もちろんこれを「思いやり」や「お互い様」という言葉で説明することは可能ですし適切です。しかしこの自発的行為を、人々が贈与の深い意味を知っていることの証左と解釈することもできるでしょう。いくら社会が資本主義化するにせよ、贈与という古来からの行為はなくならないでしょう。いやなくなってはいけません。資本の論理からすれば、非合理的とさえもいえる贈与が、人間の社会を統合するために必要なのです。


 贈与がおこなわれるとき、等価交換では伝わらない価値や意味が、相手に伝えられている。等価交換のシステムでは、使用価値の異なるものの間に「同じもの」が見いだされ、この「同じもの」はものごとを平準化して、計算可能なものにつくりかえる力をもっている。このやり方を徹底していくと、世界をとても単純ななりたちに還元してしまうことができるので、経済の世界では大いに重宝され、この等価交換で物品を交換する組織が、史上として発達した。近代的な思考法は、等価交換の考えから、深い影響を受けている。

 ところが、贈与では平準化したり計算したり情報化したりできないものが、伝わるのである。心の内面で動いている無意識の思考や、情緒的な感情や、平準世界を抜け出していく超越性への思いなどが、交換されるものや表現を仲立ちにして、伝達されていく。市場の外の経済行為や、芸術と宗教の領域では、等価交換はむしろ遠ざけられて、こうした贈与の原理が前面に出てくる。(258-259ページ)


今回の災害で、気がついてみたら私たちは思いの外「市場の外」に出ています。あらゆる異なるものを「同じ物」に換算してしまう貨幣と呼ばれる不思議なものの魔力から(ほんのわずかにせよ)抜け出ています。贈与の原理で動いています。

もちろん株式市場は地球規模で動きつづけています。東京株式市場の動きは、日本人だけでなく、負の連鎖を恐れる世界の人々の関心事でもあります。市場は動きつづけます。しかし震災後の私たちは、それがわずかのことであれ、市場の外に出ているのです。

だからといって、純粋なる贈与の社会に移行しているわけではもちろんありません。贈与においても、物品の送付より貨幣の送金(義援金)の方が好まれることは、日本も大規模社会である以上、避けられないことは上でも述べたとおりです。大規模社会では、小さな部族社会では求められないような合理性(分化と再統合)が必要とされるからです。ですから今回の義援金では糸井重里さんが提案するような配慮が大切だと私も思います。

しかし、たとえ今回私たちが行なっている贈与が銀行振込やネット上でのクレジットカード決済に過ぎないにせよ、義援金を贈ることによって、私たちはその顔も名前も直接には知ることができない方々を、自分にとって親愛なる人とすることができます。被災地の皆さんも義援金を受け取ってくださることによって、これまた直接には出会うこともない私たちを友人とみなしてくれます。ここに新たな場が出現します。直接に顔や名前を知らないままの親愛なる関係です。そしてこの親愛なる関係は国境を超えて結ばれていることはご承知のとおりです。


(今回は)安全な場所にいる皆さん、私のように「う~ん、これだけあったら○○が買えるのになぁ」などと吝嗇な等価交換的思考に煩わされることなく(笑)、自分でできる範囲のお金を「ぽん」と喜捨しましょう。それは対価的な意味でなく、人知を超えた循環的な意味で、私たちの社会を豊かなものにします。私たちが時に命をかけて守りたいと思えるほどの豊かな場になります。

そして復興しましょう。また資本主義的経済競争に邁進しようというのではなく、思い立ったらすぐに市場の外に出て、必要としている世界各地の人々に義援金を贈ることができるぐらいに復興しましょう。

日本は今回、海外から多くの贈与をいただきました。ありがたい。日本もいつかまた、いや今こそ、贈与の関係に―等価交換の商業的関係ではない親愛なる関係に―身を委ねましょう。

お亡くなりになった方々の貴い命が返ってこない以上、生き残った私たちには今回の災害を、世界を豊かな場にして、お亡くなりになった方々の霊に応える責務をもっています。


というわけで、もう一度(笑)


日本赤十字社が東北関東大震災義援金を受け付けています
http://www.jrc.or.jp/contribution/l3/Vcms3_00002069.html

















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