日本赤十字社が東北関東大震災義援金を受け付けています
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【今回の災害でお亡くなりになった方々のご冥福を心よりお祈りします。ご遺族の皆様に心からのお悔やみを申し上げます。またご自宅などの多くを失った方々に心からのお見舞い申し上げます。加えていま避難所で苦難を覚えている方のためにお祈り申し上げます。地震も津波も原発もまだ予断を許しません。私たちがなしうることをすべてなしえますように。私は現在このような方針の下、ブログ活動をしています。】
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(このシリーズは、「言語コミュニケーション力論と英語授業」で提出された学部3年生のレポートの中から私が個人的に興味深かったものをここで紹介するものです。紹介する文章は基本的にすべて原文で私は(ブログ掲載のための改行増加を除き)手を入れていません。)
今回の東北関東大地震で、日本が世界に向けて、もっとも通用性の高い言語と考えられる英語で広報をしてゆくことが重要であることが再認識されました。放射能や株式市場などは、国境と言語の壁を越えて、世界中に波状的に影響を与えます。その際に重要なのは、責任者が明確な言葉で状況を説明することです。
これほどの重大事は滅多に起こらないでしょうし、またそう願うばかりですが、低い程度なら、今後、日本語話者が英語で的確に物事を伝え、相手方からの疑問・質問に答える必要はどんどん増えてゆくでしょう。それがグローバリゼーションの一つの帰結かと思います。良い悪いの価値判断は抜きにして。
英語教師を目指す、SK君とUHさんは、英語教師であることについて考察してくれました。
SK君は、ずっと英語教師を目指していながらも、まだ、なぜ自分は英語教師を目指すのかを心底得心することができていませんでした。今回の授業を通じて彼なりに考え以下の文章をまとめてくれました。もちろん彼の思考はこれで終わりでなく、これからどんどん深まり、広がり、展開するでしょうが、現時点での彼の答えをお読みください。
「言語コミュニケーション力論と英語授業」レポート
SK
【はじめに】
この半年間の授業を受けて、私はたくさんの「コミュニケーション」あるいは「言語」に対する考え方に出会いました。もちろん、きちんと理解できたものから、今一つ理解しきれなかったものまであると思います。しかし、それらの考え方に触れられたことで、自分のなかに変化が起こったことは間違いありません。
それらの変化のなかで、私にとって最も大きかったことは、自分の中に「自分が英語教師を目指し、そう在り続けていく理由」が一つ見つかったことです。授業を受ける前まで、自分のなかで「なぜ教師を目指すのか」という問いに対する答えはいちおう持っているつもりでしたが、では「なぜ英語の教師なのか」という問いに対してはきちんと答えられる自信がありませんでした。せいぜい「英語以外は教えられないので」くらいだったろうと思います。しかし、今はそのことにいちおうの答えを出すことができると思います。このレポートで、私はその「答え」と、それを得てから思うことを書いていきたいと思います。
【ことばの教師として子どもと接すること】
英語教師を目指していく理由の一つとして、私が授業を通して見つけたものに「ことばの教師として子どもに接していく魅力」と言うものがあります。これは、内田樹さんと片山洋次郎さんの考え方を学んだときに強く思ったことでした。
英語教師としてやっていくうえで、英語という特定の言語を教えることは第一義的に大切なことだと思います。しかし、それと同じくらいに「自分はことばを教える教師なのだ」ということを忘れたくないと思いました。この「ことばを教える」というのは、言語知識そのものはもちろん、言語が持つ力の可能性やその限界、その使い方などをも示していくということです。
授業のなかで、「非言語的なシグナル」というものの存在に触れました。そこから、「子ども(人)は、色々なシグナルを出している。もう少しで『声』として聞こえるようになるかもしれないノイズをあえて引き受けるか、それとも面倒だから切り捨ててしまうのか、我々には二つの道がある」という考えに出会いました。教育者を目指すのであれば、当然ここでは「あえて引き受ける」という道を選ぶべきだと思うのですが、そのために必要なことが二つあると思います。
まず一つ目は、その解読不能で声になっていないノイズに出会ったときに、「この子は、きっとその子にとって意味のある何かを伝えようと頑張っているはずだ」という確信を持つことです。これは、今回の授業で言えばDavidsonのtruth概念に基づくことだという言い方ができるでしょうし、語用論の授業で習ったことで言えば関連性理論に基づくことだという言い方ができるでしょう。どちらにせよ、目の前の子がよくわからないことを口にしたとしても、ほとんどの場合その子はその子のなかの伝えたいことを、一生懸命に表現しようとしているんだという確信を持って接していくことが大切だと思います。そうでなければ、我々はそのノイズを無視してしまい、子どもが懸命に形にしようとしている気持ちや考えにフタをしてしまうことになるでしょう。それは、ことばの教師としてしてはならないことです。
二つ目に、自分のコミュニケーションに対する態度を振り返ってみることが必要だと思います。そのときにチェックすることは、コミュニケーションが「もとから価値のある何かを、聞き手と話し手で交換しあうこと」だと思っていないかどうかということです。もちろん、コミュニケーションにはそういう側面もあるでしょうが、もうひとつ大切な視点は「コミュニケーションとは、お互いの関わりのなかで価値あるものを創出していく営み」でもあるということです。これは、私も授業のなかでハッとさせられた視点でした。
前者のような視点しかもっていなかったとしたら、相手が言うことに目に見える意味や価値がなかった場合、その関わりは無意味だったということになってしまいます。たとえば、授業中の発問に対して「わかりません」と答えた生徒の発話は、この視点に立てば無意味です。その「わかりません」自体には求められている答えは含まれておらず、つまり価値がないからです。しかし、もし我々が後者の視点に立つならば、その「わかりません」は必ずしも無意味な発話ではありません。たとえその子がその時点でわからなくても、そこからの関わりの中でわかっていけばよいだけのことであって、そのなかで価値ある答えを共に作っていけばよいからです。
このことと同じように、どんなときも目に見える価値をコミュニケーションや相手の発話に求め続けていくならば、声にならないノイズは無視されてしまうでしょう。それゆえに、「コミュニケーションとは、お互いの関わりのなかで価値あるものを創出していく営みである」という視点を持つことが大切だと思うのです。
こうして考えていくと、ことばの教師として子どもと接するということは、子どもの心に言語という切り口から寄り添っていくことだというふうに思えます。言語について、あるいはコミュニケーションについて、きちんと学んだ英語教師だからこそ、先に述べたような視点を持ちうるのだと思います。授業のなかで「思いが言葉にならなくて、グズグズと堂々巡りをしている子を『それでいいんだよ』と認めてあげること」という言葉がありましたが、この姿勢こそが子どもの心に言語の面から寄り添っていくということに不可欠なものの一つだと思います。そうやって、子どもたちの言葉を探す能力を伸ばしてやることが、我々ことばの教師の大きな仕事の一つだと思います。
このような視点に立って子どもたちに教えてやれる能力は、一生彼らを支え続けるものであり、ずっと彼らの中に残っていくものだと思います。そのようなものを育んでいくことに魅力を覚えるがゆえに、私は英語教師になりたいと思うのです。
【英語の教師として子どもと接すること】
さて、ここまで「ことばの教師として」ということに関して述べてきましたが、ここからは「英語教師として」ということについて述べていきたいと思います。
英語の教師になるとなれば、一番に聞かれるであろう質問として、「なぜ英語を教えるのか」が考えられます。このレポートの冒頭でも述べたとおり、この問いは私にとってとても重たいもので、答えがなかなか見つけられずにいました。そんな私が今回授業を通して見つけた一つの答えは、「生徒に英語を通して自分を耕してもらうため」というものでした。
英語教師がことばの教師としての性格を持ち、子どもたちに言語の面から寄り添っていくことが可能であるのなら、彼らの自己表現のための手段を増やしてやることも、大きな仕事の一つではないでしょうか。子どもたちは成長していく中で、日々新しい感情に出会います。それらは初めて出会うものであるがゆえに「なんと言っていいのかわからない感情」であることもしばしばだと思います。とりわけ、思春期の子どもたちはそれまでの自分にはなかった、より複雑な感情と日々葛藤していくことになります。そんなときに、言葉にしたいのに言葉にならない気持ちにもどかしさを覚えることでしょう。ことばの教師としての仕事の一つは、そんな子たちに自己表現の手段を与えてやることです。
自己表現の手段を増やすと言っても、何も「日本語で言えないなら、英語で言いなさい」と言っているわけではありません。英語を教えることは自己表現の手段を増やすことに繋がると思いますが、それは必ずしも英語で自己表現することだけにとどまらないと思います。日々の生活のなかで、様々な機会において日本語を学んでいくなかで、英語という外国語の一つに触れることで、自分の言葉の視野を広げてほしいと思うのです。日本語だけに触れていたのでは、なかなか出会うことのない言いまわしや表現に触れていくことで、「へぇ、英語ではこうやって言うんだ!」とか「こんな言い方は日本語にはないなぁ」という気持ちを抱き、そのなかで彼らは自分を耕していくのだと思います。
私自身の場合を思い返してみても、このような気持ちを抱いたときに一番感動を覚えていました。最近のことでいえば、大学2年生のときに留学に行った際、「なるほど!」と思う表現に出会いました。それは”Nice to see you”でした。もちろん、日本にいる時からこの表現は知っていました。しかし、私はこの表現は人と出会ったときにのみ使うものだと思っていたのです。そして、留学先でこの表現は人と別れる時にも使うんだということを知りました。自分が帰国する日が近づいて、色んな人から”It’s so nice to see you”と声をかけてもらったとき、泣きそうになるほど嬉しかったのを覚えています。それまで日本語でお別れを言うとき、「あなたに会えて本当によかった」という言葉など思いつきもしませんでしたが、その経験後はその言葉が私の、相手と別れに際して自分の感謝や喜びを伝える言葉として根付きました。
この体験は、私のなかで英語を通して自分が耕された例の一つだと思います。私はこのような経験をたくさんの子どもたちにしてもらいたいと思います。何も英語が至上のものだとかいうわけではなくて、あくまで日本語以外の言語の一つとして。英語というもう一つの言語に触れることで、自分の日本語や日本語の思考回路を見直し、再構築していく。そのなかで、自分の中のもやもやしていた気持ちをスパッと言い表せる言葉に出会って、「あっ!」という驚きや感動を得る。そのような体験を積み重ねていくことによって、耕され豊かになっていく自分の感性、深くなっていく自分のなかの言語に気付いてほしいのです。もしかしたら、その言語はもはや日本語でも英語でもないかもしれません。英語の匂いのする日本語、日本語の色の混じった英語かもしれません。しかし、こだわるべきはそこではないと思います。大切なことは、子どもたちが確かに自己表現の手段を得たということです。そして、その手段を通して見えてくる景色や世界を知ってほしいと思います。
英語教師として英語を教えていくなかで、子どもたちの目に映る世界が昨日と一味違っていたとしたら、それは素晴らしいことだと思うのです。そのために大切なことは、未知の表現や言葉との出会いを、できるだけ素敵な形で子どもたちに与えていくことだと思います。それが、自分の授業力を高めていくモチベーションにもなると思います。
【終わりに】
ここまで、授業で学んだことを通じて自分の考えたこと、見つけた答えを書いてきました。まとめると、私は「ことばの教師」をして、子どもの心に言語という切り口から寄り添い、また「英語の教師」として子どもたちが自分を耕して、自己表現の手段を広げていく手助けをしていきたいがゆえに、英語教師を目指していきたいのです。この考えを得られたことは、これから教員採用試験に臨む身である私にとって、大変意義のあることでした。ここでまとめた考えを大切に、またさらに高めていけるように、残りの大学生活を送っていきたいと思います。ありがとうございました。
次はUHさんです。彼女は田尻先生の実践に非常に啓発され、「よい英語教師」とは何かを分析しながらも、田尻先生に憧れ真似をするだけではいけないことを十分に自覚しています。彼女の考察をお読みください。
「よい英語教師」の条件
―田尻先生の授業実践を通して―
UH
1.はじめに
今回のこの授業で、田尻先生の授業のDVDを拝見して、とても感銘を受けたのと同時に、私なりに多くのことを学ぶことができた。
そこで思ったのが、田尻先生のような「よい英語教師」になるための条件とは何であろうか。一口に「よい」と言っても、その定義は曖昧なもので、英語教師の目線から見たり、生徒の目線から見たり、また、親の目線から見たりすることで、人によって違ってくるはずだ。それなのに、多くの人から田尻先生が「よい英語教師」として認められているのには、何かしら一般的に共通する「よい英語教師」たる根拠が存在するはずである。授業の中でのディスカッションや柳瀬先生のお話を受けて、私なりに考えた「よい英語教師」である条件を以下に述べていく。そして、最後に私が将来英語教師を目指すにあたってこれから心がけていきたいことについて述べる。
2.目標が常に明確である
一つ目の条件として挙げられるのは、「目標が常に明確である」ということである。目標とは、毎日の50分授業、1学期、または1年間、そして3年間など、短期間から長期間に渡るものをここでは指す。
まず、最初に教師が自分の中にしっかりとした目標計画を立てることが重要である。初めに、最終的に到達すべきゴールを設定するのである。1年間が終わったらこういう力をつけさせるようにしたい、というような長期目標から立てると、そのためにはどの時期にどのような活動に力を入れたらよいかというような具体的な学習計画が見えてくるようになる。この目標はあくまで最初の段階の計画であるから、実際の生徒の反応や学力や進行状況に合わせて、変更できるようなある程度の柔軟性を持たなければならない。しかし、一方で、その都度簡単にぶれてしまうと、目標の意味をなさなくなってしまうので、教師の中に絶対に譲ることのできない、一本のしっかりと通った軸を持つことが重要である。
そして、次に、その目標が生徒にとっても明確であることが大切である。50分の授業の中で、教師が最終的にどういう方向に持っていこうとしているのかを生徒がはっきりと理解して、その目標に向かって教師が上手く動機づけを行いながら教えていくことができれば、クラスの中に必ずよい雰囲気が生まれるはずである。目標が目の前にはっきりと見えていることによって、初めて、生徒も頑張ることができるのである。
3.教師自身がいつも「学習」している
二つ目の条件として、学ぶ側の生徒だけでなく、教える側の教師も常に学んでいるということが挙げられる。ここで言う「学ぶ」という言葉には次に挙げる三つの意味がこめられている。
3-1.専門性
まず、一つ目に「専門性」である。英語教師は英語を教えることを職業としている。生徒に間違った英語に関する知識を教えることは決してあってはならない。ということは、確かな英語力を備えていることは必須条件である。英語力といっても、ただ単にTOEICで満点とれるとか、英語検定1級とれるとかいうようなそういった意味での英語力だけではなく、新しい文法事項を上手く他の文法事項と繋げて、体系的に、かつ分かりやすく教えることができるとか、文章の内容に合わせた文章の読み方を教えることができるとか、いろいろな質問をぶつけてくる生徒にでも対応できるような「英語教師」としての英語力、または説明力を身につけることが重要となってくる。そのためには、教師としての経験がものを言うかもしれないが、日々、自分で英語力を鍛える地道な努力を続けること、また、積極的にセミナーなどに参加して、いろいろな英語教師の教育実践に触れて、そこから自分の考えを深めていくなど、できることはたくさんある。教師になってからも、一生、英語力と説明力を高めようとする姿勢が大切なのである。
3-2.人間性
次に、「人間性」である。田尻先生はあのコロコロ変わる、豊かな表情を作り出すために鏡の前で何回も練習したとおっしゃっていた。田尻先生は「教師はエンターテイナーである」とおっしゃっていたが、似たような、有名な言葉に「教師は役者であれ」とあるように、教師は生徒の前では多少本当の自分とは違っているとしても「英語教師」としての仮面をある程度演じることが必要なのかもしれない。私は、田尻先生が実際にはどのような人物なのかは詳しくは知らないが、DVDを通して見る田尻先生は、たいていとても素敵な笑顔をしていて、一人一人と話す時など、真剣な時は、とても鋭い目で生徒を見つめ、テンポよく、聞いていて心地のよい英語で授業を進行し、生徒の答えに対してはオーバーリアクションで返して、クラスの雰囲気を盛り上げていた。私の見た限りでは、田尻先生は生徒にとって、魅力と人間性溢れる英語教師そのものであった。田尻先生はそういった教師としての自己像を実現させるための努力も欠かすことはないのである。
3-3.生徒から
最後は「生徒から」学ぶということである。上に述べたように、いかに自分の英語力や教師力を上げるための努力を積んだとしても、実際の授業で上手くいかないことはたくさんある。その時は、生徒の実態をしっかりと掴めていないのかもしれない。生徒がどこでつまずいているのか、また、どうしてついてこられないのかをしっかりと調べて分析し、そのたび、自分の方法に軌道修正を加えていくことができる。また、他のクラスでは上手くいったのに、また違うクラスでは上手くいかないこともある。ゲーム形式にした方がやる気を出したり、グループ学習の方が向いていたり、個人学習の方が向いていたりなど、クラスによってそれぞれに適した学習方法があるからだと考えられる。そういったことも、実際に授業をすることから教師は学んで、自分の教育実践に活かすことができるのである。また、生徒は日々、いろいろなことで悩んでいる。勉強のことだけではなく、友人関係、進路、家族との関係など、考えることは他にもたくさんあるわけである。そういったことが生徒の学習意欲に影響を与えることは簡単に起こりうる。授業内に限らず、授業外でも生徒一人一人と向き合って、実態を知ることも大切である。教師は生徒に教えるだけでなく、常に生徒から学ぼうとする姿勢を持ち、そこから自分の教師としての成長に繋げることができるのである。
4.生徒との信頼関係を確立
次に、生徒との信頼関係を確立することも大切である。生徒に英語力をつけさせるためには、生徒にある程度の訓練を強いたりなど、強制的にさせなければならないこともよく起きてくる。しかし、生徒との意志疎通をはかろうともせずに、教師からの一方通行の思いだけで、生徒に何か活動をさせようとしたら生徒がついてくるはずもない。そのような教育実践は上手くいくわけがないのである。クラスの中にも、英語に対してすごくやる気のある生徒もいれば、英語があまりできなかったり、大嫌いな生徒もいる。教師を嫌う生徒もいるだろうし、勉強や学校自体が嫌いな生徒もいるかもしれない。しかし、そういった生徒達のことも決して見捨てたりせずに、一人一人と向き合おうとする姿勢を田尻先生は持ち続けている。たとえ、生徒達が心を開いてくれなかったとしても、粘り強くそういった子どもたちに向き合おうとすることから、初めて生徒との信頼関係が生まれるのである。
5.試行錯誤の繰り返し
今や、日本だけでなく、アメリカでも「カリスマ教師」としてとりあげられるくらい有名になった田尻先生であるが、最初から成功した、順風満帆な教師人生を送ってきたわけではないと本人は語る。田尻先生が教師になりたての頃の英語の授業は、ただ教科書の本文を暗記しろと命令するだけのスパルタな内容、力を入れて指導していた野球部は、いい成績を残すことはできたものの、卒業する時になって、野球部員達に「頑張る力となったのは先生への恨みです」というあまりにも残酷な言葉を突きつけられたという、そういった壮絶な過去を持っているのである。
そのような過去があるからこそ、田尻先生は「自分は変わらなければならない」と考え直して、努力を積み重ねて、今のカリスマ教師の姿になったのである。つまり、常に成功体験ばかりだと人間は大きな成長をすることはできない。大きな失敗を経験することで、何故上手くいかなかったのかを真剣に考え、原因を探り出し、そこで初めて、自分に足りないものに気付いて、大きな成長を遂げることができるのである。しかし、私は、よい教師になるためには、必ず、大きな失敗をすべきだと言っているわけではない。日々の中でも、何か新しいことに挑戦してみて、失敗したり、上手くいかなかった時に、その原因をしっかり分析して、次に繋げることを当たり前にできる人が次のステップへと成長できるのである。
6.まとめ
ここまで、私が思う「よい英語教師」の条件を4つ述べてきたが、結論として言いたいのは、これらの条件全てに当てはまろうとする必要はないということである。田尻先生だからこそできること、逆に田尻先生にはできなくても、他の英語教師ならできることもある。結局は、それぞれの教師の個性に合わせた教育実践をしていくことが何よりも重要である。
よい英語教師の教育実践を目の当たりにして、そういう姿になりたいと思ったとしても、理論を理解せず、また、十分な経験も持たないまま、ただその真似をするだけでは上手くいくはずがないのである。どんな時でも、自分の頭の中でしっかりと理論を立てながら考え、実験的にいろいろなことに挑戦してみては、失敗するということを繰り返していって初めて、自分の個性に合った方法を見つけて、自分なりのよい教育実践に繋げていくことができるのである。
私は、これから「よい英語教師」に一歩でも近づいていくために、まず、自分のことを知ることから始めたい。私の個性とは何か。私の長所は何か。私のどういった個性や長所を英語教師という職業に活かすことができるのか。逆に、私が思い描く理想の英語教師になるために、今の私に足りないものは何か。どうしたらその欠点を補っていくことができるのか。これらの問いに対する答えをすぐに見つけることはなかなか難しいことではあるが、こういった小さいことを考えることから始めていきたい。
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2 件のコメント:
はじめまして。前田浩之と申します。こちらのサイトは好きでよく見させていただいてます。
UHさんはいい英語の先生になれますね。私は確信しています。よい教師の条件は自己を客観視して、向上を続けられる人間ですから。
Maeda-san
Thanks for your comment.
Y.Y. from Chicago
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