2011年3月10日木曜日

本多勝一(1982)『日本語の作文技術』朝日文庫

本日の学部ゼミ課題の一つは、本多勝一『日本語の作文技術』(朝日文庫)を読んでまとめてくることでした。

この本に書かれていることも、先週の内容と同様、当たり前のことなのですが、残念ながら多くの大学生はこの当たり前の作文技術を身につけていません(というより私自身も数年前にこの本を約30年ぶりに読んだら、いかに自分の文章の読点(「テン」「、」)の打ち方が恣意的であるかに気づき、愕然としました)。

本来、こういった基礎的な言語技術は中学校や高校でやっておくべきでしょうが、大学生の多くがこのような素養を欠く以上、時間を割いてでも学部ゼミでやる必要があります。実際、やってみると、学生さんもいろいろと学んでくれます。

以下は、この本のガイド代わりに、ゼミ生のまとめをここに掲載します。


最初のゼミ生は、コンパクトにまとめてくれました。「改行」や「材料不足の文章」などは本当に当たり前すぎるぐらいなのですが、これらの原則が徹底していないメールや書類は実は結構あり、私たちはそのために仕事が円滑に進まず困っています。まずは当たり前すぎることを確認しましょう。



0 外国語としての日本語

日頃から日本語を使っている私たちは、日本語を使うことに慣れ、使えることが当たり前になっている。文章を書くときも、私たちは日本語を無意識に使っている。しかし文章を書くことに際しては、日本語でも客体としてはっきり意識して使わなければならない。つまり、文法や規則などの決まりに則って書かなければならない。それはまさに、外国語で文章を書くときに私たちが気をつけていることである。

以下に、これから特に気をつけていきたい二点を書く。


1 思想のまとまりを意識する

文章は、いくつかの「章」で構成される。その「章」を構成するまとまった単位として、「段落」と「文」が挙げられる。このうち「文」は、さらに読点で区切られることもある。この「まとまり」は一体なにか。それは、意味・思想の「まとまり」である。分かりやすい文章を書くには、これらの「まとまり」を理解することが重要である。これらのまとまりは、改行や句読点で示される。

1.1 改行

改行をすることは、段落を作ることである。段落は、まとまった一つの思想・意見を表す。つまりそれは、場合によっては長いことも短いこともある。特にその「まとまり」を意識せず“何となく”改行することは、一つの思想を分断することに等しい。

1.2 マル

 マルは、ある文が終わったことを示す。文は、一つの思想を表す。これを「まとめた物」が「段落」になる。
 
また日本語には、終止形と連体形の形が等しいものが多い。もしマルがなければそれらの区別ができなくなる。些細なことではあるが、重要なことである。

1.3 テン

 テンは、思想の最小単位を表す。したがって、大きく二つの原則こそあれ、それを逸脱しなければ打ち方は自由である。その原則は以下のとおりである。
 
原則①:長い修飾語――長い修飾語(修飾句)が二つ以上ある時、その境界に打つ。

原則②:逆順――語順が逆順の場合打つ。



2 具体的に書く

脚色を加えずに書く、と言い換えることもできる。『これからレポート・卒論を書く若者のために』(酒井聡樹)の内容に照らし合わせれば、「頭を冷やして書く」(p135)ということもできると思う。事実を事実のまま、それ以上でも以下でもなくそのまま書くということは難しい。以下に二点、気をつけるべきと感じた事を書く。

2.1 笑っている文章

 自分が書くことは、自分にとってはとても面白い。面白いとしか思ってないから、面白い面にだけ注目して書く。さらに、大げさな表現で誇張することもある。そうすると、物事の本質をとらえることができずに、独りよがりな文章になってしまう。そんな文章を他人に読んで頂いていたと思うと、非常に申し訳なく、また恥ずかしく感じる。
 
2.2 材料不足の文章

やっつけ仕事になると、調べた少しの情報を希釈して“レポート”にすることがある。「材料が足りないと、どうしても筆先でカバーしようと」しているのである。
調べる量が十であれば、書く量は一というのが妥当だと言われている。これから卒論を書こうとしている私たちに求められる量は30-40枚である。すると必然的に(理論上)、300-400枚書けるほどの材料を用意する事になる。卒論だけは、材料不足にならないようにしたいと思う。




次のゼミ生は、もう少し丁寧にまとめてくれました。


本書では、新聞記者として長年日本語と格闘してきた著者が、日本語における作文技術について詳しく書いています。著者が現場での実践により、見出した単純な原則が実例と共に解説されているのでとてもわかりやすいです。そして、悪文やこれまでまかり通ってきた「常識」を鋭い視点で斬っていきます。書き物を日本語でしようという人間にとっては必読の書でしょう。


1. 修飾する側と修飾される側

わかりにくい文章の中で最も多い例として修飾関係が明確でないものがあげられています。次の4つの原則があります。


1)節を先に、句をあとに。

2)長い修飾語ほど先に、短いほどあとに。

3)大状況・重要内容ほど先に。

4)親和度(なじみ)の強弱による配置転換。


1.1 長い修飾語ほど先に、短いほどあとに

本項では、2)「長い修飾語ほど先に、短いほどあとに」を解説します。これは後で述べる句読点の打ち方に関係するからです。

それでは以下の文を読んでみてください。

私は小林が中村が鈴木が死んだ現場にいたと証言したのかと思った。
(本多勝一『日本語の作文技術』 p.28)


よくわかりません。これは修飾語と被修飾語が離れているからです。修飾関係に注意してこれを組み替えると、「鈴木が死んだ現場に中村がいたと小林が証言したのかと私は思った。」となります。これならずっとわかりやすい。まず、大原則として修飾・被修飾の関係を明確にし、両者をできるだけ離さないということが重要です。

では次に、


a.明日はたぶん大雨になるのではないかと私は思った。
b.私は明日はたぶん大雨になるのではないかと思った。
(同書 p.56)


であれば、aの方が当然わかりやすい。しかし、修飾関係の近さだけではこれは説明できません。なぜなら「私は」と「明日は・・・・・・」は両者とも「思った」を修飾するからです。

だから、第二原則を適用します。長い修飾語「明日はたぶん大雨になるのではないかと」を前に、短い修飾語「私は」を後ろします。これだけでずいぶんとわかりやすくなります。

第一・第三・第四原則は割愛します。本書を手にとってご自分で確認してください。


2. 読点(テン)の打ち方

テン(、)の打ち方についてしっかりと教えられた経験が皆さんはあるでしょうか。

「意味の切れ目・語調・適当」というのが、おそらく多くの人にとって教えられた内容ではないでしょうか。しかしこれでは、何もわかりません。むやみやたらにテンをつけまくって終わりです。

2.1 テンで意味が変わる

日本語にとってテンは非常に重要な要素です。テンの打ち方によって、文の意味が正反対になってしまいます。次の例を見てみましょう。


渡辺刑事は血まみれになって逃げ出した賊を追いかけた。
(同書 p.73)


これはテンを全く打たなかった場合です。「血まみれになって」いるのが刑事なのか賊なのかわかりません。テンをつける場所次第で意味を特定することが可能です。


a.渡辺刑事は血まみれになって、逃げ出した賊を追いかけた。
b.渡辺刑事は、血まみれになって逃げ出した賊を追いかけた。
(同書 p.74)


aでは「血まみれになって」いるのは渡辺刑事ですが、bでは賊です。このように打つ場所によって意味が全く異なってしまうので、テンの打ち方は重要なのです。

2.2 テンの原則

著者は「テンというものの基本的な意味は、思想の最小単位を示すもの」と定義し、二つの原則と一つの種類を挙げています。


1)長い修飾語が二つ以上あるとき、その境界にテンを打つ。(重文の境界も同じ原則による)

2)原則的語順が逆順の場合にテンを打つ。

・筆者の考えをテンに託す場合として、思想の最小単位を示す自由なテンがある。
(同書 p.104)


2.2.1 第一原則(長い修飾語が二つ以上あるとき、その境界にテンを打つ)

第一原則に関しては以下の例文を示すだけで事足りるでしょう。


病名が心筋梗塞だと、自分自身そんな生活をしながらも、元気に任せて過労を重ねたのではないかと思う。
(同書 p.84)


しかし、原則的語順(長い修飾語を前に)を守ることでこのテンも回避できます。次のような例があります。


私がふるえるほど大嫌いなBを私の親友のCにAが紹介した。
(同書 p.87)


原則的語順に従っているので、この例文はテンがなくても理解できます。

2.2.2 第二原則(原則的語順が逆順の場合にテンを打つ)

原則的語順を破ると途端に意味がわかりづらくなります。


Aが私がふるえるほど大嫌いなBを私の親友のCに紹介した。


この場合、第二原則を適用します。


Aが、私がふるえるほど大嫌いなBを私の親友のCに紹介した。
(同書 p.87)


逆順を採用しているために、テンが必要となっています。したがってテンの乱用をさけるためには、原則的語順を守り、「重要でないテン」(p.87)は打たないことを意識すべきです。

2.2.3 思想としての自由なテン

この逆順パターンの文というのはとても多い。なぜ多いのでしょうか。

それは「筆者がそのものを多少なりとも強調して提示したかったから」(p.89)です。「強調」という筆者の思想を表しています。これは「筆者の考えをテンに託す場合として、思想の最小単位を示す自由なテンがある。」(p.104)につながるものです。

では、次の例を見てみましょう。


A. 父は死んだ。
B. 父は、死んだ。


両者の違いは筆者の「強調」の差です。したがって、これは「筆者の思想としての自由なテン」(p.90)です。

しかし、わかりやすい文章を心がけることが、「思想の自由」を表現する前に、私たちのすべきことでしょう。強調しているばかりでは何も「強調」できません。原則的語順という「型」を手に入れた後に、「自由」を表現すべきです。


3. リーダビリティ

本書は日本語における作文技術を解説していますが、その根底にあるのは読者中心主義です。

日本語は、修飾語の順番を入れ替えても、読者の「頑張り」によって意味がわかってもらえます。そして「が」や「は」などの様々な意味を兼務する助詞が発達しているため、それらを多用し、文をつないでゆけばなんとなくそれらしい文章はできあがります。しかし、あくまで「それらしい」文章なだけです。自分が伝えたいことをその文章をもって読者に受け取ってもらうためには、統語的な問題で彼らを苦労させてはいけません。

3.1 文章が「笑う」

ものすごく面白い考え方だなと思ったのが、「文章が笑う」という考え方です。

私たちは、ついイキイキとした文章を書いてやろうと意気込んで、「一面の銀世界」などの紋切り型の表現を使ってしまいがちです。しかし、この手の表現には書き手の「読者を感動させてやろう、驚かせてやろう。」という下心が見え透いています。これを文章が「笑う」と言います。

その理由は「落語家が自分で笑っては観客は笑わない。」(p.201)からです。落語家は、観客を笑わせる場面でこそ自分は大真面目に演じるそうです。それと同様に、文章も書き手がいい気になって「カッコいい」表現を使うのではなく、しっかりとした文章で内容を伝えろということです。文章が「笑う」という表現も、今風にすると文章が「ドヤ顔」をしているところでしょうか。

これに関しては多くの人が一度は経験したことがあるのではないでしょうか。私などは、しょっちゅうこのような文を書いて一人で「ドヤ顔」をしています。改めます。自分のものも含め、できの悪い文章には必ず書き手の「ドヤ顔」が垣間見える部分があるように感じます。


3.2 情熱を伝えるための技術

京都大学教授多田道太郎氏による解説に以下のような素晴らしい箇所があったので引用します。


想いがあふれるときはかえって文が乱れる。堰を切ったように、節が、句が、詩が、あふれてくる。当人にとってはおもしろいかもしれないが、他人にとっては傍迷惑となる文章がこうして生まれる。
文章は、ひとの迷惑になってはいけない。
(同書 解説p.341)


このような状況を誰もが経験したことがあるでしょう。そしてあふれるような想いがなければ、文章は書けません。その情熱が、書き手と読者との間にかえって壁をつくってしまいます。

その壁を取り払ってくれるのが技術です。書き手の情熱を読み手に伝えるために私たちは技術を学び、身につけなければならないのです。



「ドヤ顔」が浮かんでくるような文章を書かずに、冷静に自らの情熱を伝えるというのは、私も常に忘れてはならないことです。








三番目のゼミ生は、二番目のゼミ生の説明を補いつつ、自分なりのまとめと考察を示してくれました。

彼のまとめはこれです。


言語を用いた作文の際には、書き手の集中力は読み手の理解の「快適さ」をいかに高めるかといったことに帰結する(すべき)


人に読んでもらうために書く文章なら、それはすべて読み手の理解の快適さのために奉仕しなければならない、というのも覚えやすい鉄則かと思います。

また彼は、こういった日本語の基本的な作文技術が、英語教育で軽んじられているのではないかという懸念を表明します。


英語教育、とりわけ、英文和訳や和文英訳の指導に当たる際に、これらの事項は十分考慮されているのでしょうか。訳文という作業の中に、複雑な構文構造を持つ日本語表現と、それとは全く系統を異にする英語表現との間の溝を埋めるための指導は、やはり是が非でもなされるべきではないかと思います。それらを考慮していない指導は、日本語での作文能力のますますの停滞と、西洋的尺度を伴った日本語表現の蹂躙に他なりません。


私は機械的に「公式」を適用して日本語文をひねり出す「英文和訳」と、英文を理解してその英文が描き出している事態を掌握した上でその事態を日本語ならどう表現するかと創造的に生成する「翻訳」を区別して考えていますが、この区別に基づく意味での「英文和訳」は下手をすると、英語力を育てそこね、「翻訳」の評判まで不当に落とし、日本語感覚までもずたずたにしてしまっているのかもしれません。私は高校の新学習指導要領の「授業は英語で行なうことを基本とする」には一貫して批判的ですが、他方、(「翻訳」ではない)機械的な英文和訳の横行にも強い懸念をいだいています。

翻訳家の方には、例えば辻谷真一郎先生のように英文和訳の弊害に対して警告を発し続けていらっしゃる方もいらっしゃいます(『学校英語よ、さようなら』『翻訳入門―翻訳家になるための考え方と実践』『翻訳の原点―プロとしての読み方、伝え方』)。あるいはより有名なところでは、別宮貞徳先生の『さらば学校英語 実践翻訳の技術』という名著もあります。私は「授業は英語で行なうことを基本とする」という新学習指導要領に批判の声をあげるのなら、こういった旧来の学校英語教育(英文和訳)批判をきちんと受け止めておかなければならないと強く思います。



話がずいぶんそれました。私のゼミ生のまとめをお読みください。




1. より良い文章を書くために

 今回の課題図書である、本多勝一著『日本語の作文技術』では、細かな日本語の修辞構成から、上手い文体が決まって持っているリズム感に関する記述まで、日本語の文章を書く上で必要な要旨を幅広く取り扱っています。客観的な目線から、綿密に言語使用について記述されたこの本を、日本語使用に幼いころから馴染んでいる多くの人々は、一見すると敬遠してしまうかも知れません。しかしながら、点の打ち方や段落の適切な配置、無神経な文章表現などについての項を見れば、その考えを改めなくてはならないと実感するでしょう。以下、この図書を読んで思ったことをまとめてゆきたいと思います。

1.1 作文技術と言語の関係

  作文には、言語という概念が常に付きまとっています。著者は「言語とはすなわちその社会の論理である。」(p.20、l.8)と述べています。社会の論理、つまり、それに含有されている「文化」を背景にした構造の元に成り立っている分野であると言い換えることが出来るでしょう。この事実が、日本語を用いた作文技術にどういった影響を及ぼしているのでしょうか。統語的な観点や修辞法のまとめから、それらを検証してゆきます。

1.1.1 修飾する・されるコトバの四原則

 著者は、修飾・非修飾に焦点を置いた言語使用には、四つの原則が適用されると述べています。


(1) 節を先にし、句を後にまわす

(2) 長い修飾語は前に、短い修飾語は後に

(3) (2)に加え、大状況(重大なもの)から小状況(重大でないもの)へ

(4) (修飾語句の並列的使用の際に)親和度の強弱による配置の転換



 いずれも小難しいことを述べているように思えます。しかし、実際文章にして紙に書いてみると、悪例として本文中で紹介されている文章は、どこか感覚的に「おかしい」と思えるものがほとんどです。
 
以下の例は原則(4)を、オリジナルの例文に適用したものです。


A. 美しい後頭部が光るガラスに反射した。
B. 光るガラスに美しい後頭部が反射した。


これらは、X./美しい後頭部が/、Y./光るガラスに/、Z./反射した/の三つに分けることができます。XとYの修飾語句は、Zに対して並列的に用いられているため、どちらが先に来ても良いはずですが、明らかにBの例文の方が、すんなりと頭に入ってきます。Aの例文中の「後頭部」と「光る」の親和性が高いため、XとYの順番を入れ替え、読者のミスリードを誘発する可能性を下げたBの方が、よりリーダビリティが高いのです。

 私たちは、このように言語化された文章表現のルールにはたいへん不慣れです。フィーリングで、適当に、なんとなく合っているような、そのような文体で書くことは出来ても、普段から意識的にモニタリング出来ていない上記の原則などを提示された場合、戸惑ってしまうばかりでしょう。その能力をトレーニングし、産出した文章へのチェック能力を強化することが、複雑な修辞語句を操るためのひとつのコツではないでしょうか。
 
1.1.2 句読点の使用術

 句読点は、並列や同格の語の間で使用する事が推奨されます。しかし、当然ながら、本文中にあるように「カール・マルクス・アダム・スミス・チャールズ・R ・ダーウィン」と記述してしまっては、記述のルールが破綻してしまい、読者としても書き手としても、本当に伝えたいことが伝わらないことは明白です。分かりやすい句読点の打ち方のためには、「、」と「・」を上手く使い分ける必要があると言えるでしょう。特に「、」を使用する際は、構文上の重要な観点から打たれた「、」の機能を破壊してしまうような乱用をなるべく避けなければなりません。

1.1.3 漢字とカナとひらがな

 これも、読者が日本語を読む際の「快適さ」を考慮しなくてはならない問題です。三種類の文字を同時に表示し使用出来ると言うことは、多様な文章表現への可能性と同時に、上手い組み合わせを考えなければ、内容理解の際に、読み手にとって大変読みにくく、かつ、不快な文章となる危険性を孕んでいると言えます。漢字とカナとひらがなの混用を考える際に、真っ先に私の頭に浮かんできたことは、コンピュータの文字入力ソフトウェアの存在です。ここ数十年で、文字変換ソフトは性能面で大きな進歩を遂げましたが、それを使う側の人間の能力はどうでしょうか。いたずらにエンターキーを押す前に、立ち止まって自分の文章を見直してみることを勧めます。

1.2 読者に分かる文章を

 1.1.1から1.1.3までの項目から、どんな表現や修辞法であれ、その根底には読者の視点というものが存在しているということが分かりました。しかし、「読みやすい文章」とは、そういった修辞的技術の習得と発展へと全てが帰結されうるものではありません。より視点を広げ、書き手のセンスが問われるようなパターンもいくつか挙げられています。

1.2.1 既成の表現から離れる

 まとめてしまうならば、「かっこをつけた」文章はあまり良い印象は持たれない、ということに尽きるということです。手アカと本文中では表現していますが、そういった言葉の中には、かえって文章を陳腐なものに成り下がらせてしまう要素が含まれている、と筆者は指摘しています。既成(Ready-made)の使い古された表現は、ついつい私たちも多用してしまいがちではないでしょうか。ウィットに富んでいることよりも、実直で、その表現に適切だと思えるような表現を心がけたいと思います。

1.2.2 繰り返しに留意する

 この章を読み、自分の文章を見直していると「~ました。」「~と言えます。」この二つの語尾で文章が終わっていることが多いという事実に気付きました。普段からしっかりと見直しているように思えて、一文飛んで見てみるとまた繰り返しの表現を使っていることはザラにあります。このように似た表現が続けば、文章とそれに伴う意味がぶつ切りにされ、理解するのに多大な労力が必要となってきます。また、逆接はなるべく使用しない、複数回使用する場合は表現を変える、こんな基礎的な事も、案外忘れられがちではないでしょうか。

1.2.3 落語家に学ぶ

 本当に面白い表現は、「文章が笑っていない」ことである、と筆者は指摘します。落語家は、面白い場面を本当に正直に、真面目に演じます。そこでは、「笑い」の内容で投影されるべきなのは「笑い」だけであり、そこに付随する言葉は余計なものとして扱われるべきであるという信念が存在します。これは、文章表現においても同じであるということです。オノマトペや、事実に基づかない誇大妄想的な表現より、馬鹿正直に、事実に向き合った文章の方が、かえって味があり、評価されるということに繋がると言うことです。

1.3 言語の「適正な」使用から

 1.1から1.2にかけて、マクロ的・ミクロ的な視点から作文技術の重要性をまとめてきました。では、最初の質問である、言語と作文技術の関係について、どういった事が分かったでしょうか。まず、言語を用いた作文の際には、書き手の集中力は読み手の理解の「快適さ」をいかに高めるかといったことに帰結する(すべき)といったことが、どうやら共通している事項のように思えます。また、修飾語・非修飾語の関係性からは、日本語(のみとはもちろん断言できません)が持つ、修飾に関する統語システムの複雑さを認めることができました。
 
 それでは、英語教育、とりわけ、英文和訳や和文英訳の指導に当たる際に、これらの事項は十分考慮されているのでしょうか。訳文という作業の中に、複雑な構文構造を持つ日本語表現と、それとは全く系統を異にする英語表現との間の溝を埋めるための指導は、やはり是が非でもなされるべきではないかと思います。それらを考慮していない指導は、日本語での作文能力のますますの停滞と、西洋的尺度を伴った日本語表現の蹂躙に他なりません。
 

2 「技術」の先を見据えて

2.1 読ませる≠美辞麗句を並べる

 論文は、素人でも分かるように、玄人でも楽しんで読める内容でなくてはなりません。特に何の予備知識も無い読者を対象に文章を書くのであれば、大変な骨の折れる作業となります。そんな時、1.2.1で述べたように、ついつい美辞麗句や使いまわされた表現へと傾倒しがちになってしまいます。しかし、文字表現は、映像や音声と異なり、伝えられる情報は限定的な反面、そのインパクト次第ではテレビやラジオなどの情報複合的な伝達媒体に劣らない活用の仕方も十分に考えられます。文字情報は必要最低限かつ、最も効率が良く、読者の目を惹くものであるべきと言えます。

2.2 裏付け・材料はしっかりと

 ここで筆者が述べたいのは、具体的≠現実的であるということです。残念ながら、本書で述べられている例は、執筆された時代背景などから、私にとってはやや分かりにくいものとなっています。ここでの「現実的」とは、深い裏付けや取材を伴わない「表層的な解決」にベクトルを向けた表現であり、「具体的」とは、知識やそれが指し示す「具体」に伴う事実の確認(時に数十~数百倍に及ぶ)を経た「実証的な解決」と定義することができるのではないでしょうか。実際に文面に起こすのは10パーセントでも、残りの90パーセントをしっかりと裏付けておくことこそ、事実の揺らぎのない作文を書く大事な要素ではないでしょうか。


3 氾濫する「良い」「悪い」文章

3.1 玉石混交の中から

 インターネット上や雑誌には、様々な形式の日本語の文章が掲載されています。玉石混交のそれらの中から、この本の内容に沿って「良い」「悪い」選り分けていった場合、果たしてどれほどの文章が「良い」文章として選別されるのでしょうか。そして、普段私たちが接している文章、産出している文章は、健全な構成を伴っているかどうか、一体誰がチェック出来るのでしょうか。文章は意思を持ちません。書いた本人と読み手の、時空を超えたコミュニケーションが存在するのみです。情報の選び手である私たちは、しっかりとした文章を選び取り、内容を評価する能力を身につけるべきではないでしょうか。




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