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今回の東北地方太平洋沖地震では、現時点でも1万人以上の死者が見込まれています。人と話をしている時にこの数字を述べた瞬間、西日本の人間である私でさえ、込み上げてくるものがありましたから、お亡くなりになった方のご家族・ご親族・ご友人におかれましては、その哀しみはいかばかりかと思います。
日本はしばらくこの喪失を弔う時間をもちます。かといって、(私のような)喪失の心情を理解もできない者が、大げさで自己満足的な言葉をかけるなら、それは逆に哀しむ方々の心を逆撫でするような真似に終わるでしょう。(このことは、阪神淡路大震災で、人から感謝されることを楽しみにやってきただけの「ボランディア」が被災者に与えた屈辱感を述べたこの文章からも推測することができます)。
以下は、以前に読んでおりながら、まとめる機会を失っていた、ユング心理学・カウンセリングの河合隼雄先生と小説家の小川洋子氏の対談本からのいくつかの抜粋です。
まずは、二人のこの対話をお読みください。
小川 私、先生のご本の中で印象深かったことがあるんです。京都の国立博物館の文化財を修繕する係の方が、例えば布の修理をする時に、後から新しい布を足す場合、その新しい布が古い布より強いと却って傷つけることになる。修繕するものとされるものの力関係に差があるといけないとおっしゃっているんです。
河合 そうです。それは非常に大切なことで、だいたい人を助けに行く人はね、強い人が多いんです。
小川 使命感に燃えてね。
河合 そうするとね、助けられる方はたまったもんじゃないんです。そういう時にスッと相手と同じ力になるというのは、やっぱり専門的に訓練されないと無理ですね。我々のような仕事は、どんな人が来られても、その人と同じ強さでこっちも座ってなきゃいかんわけですよ。年寄りの方もいれば子供もいる。いろんな人が来られますからね。(14ページ)
誰かを「助けよう」と過剰に意識してしまっている人の驕慢というのは怖いものです。いわゆる「惻隠の情」で気がつく前に無意識に身体が動いているような「助け」ではなく、「私こそが助けてやる」と思い込んだ時、私たちは自分が自我中心的な高揚感だけに支配されているのではないかと振り返る必要があります。(だからこそ無意識に動ける身体を日頃から培っておきたいとも思います)。
だから相手の弱さにスッと寄り添うことは必要でも、わざわざ相手の弱さに合わせてやろうなどと高慢な気持ちを持ってしまってはいけないのでしょう。河合先生は、きちんと話を聴くことがもちうる力を認めつつも、カウンセラーがなかなか苦難から動けないクライアントの話を聴くことがどれほど難しいかを語ります。
河合 カウンセリングは、ちゃんと話を聴いて、望みを失わない限り、絶対大丈夫です。
でも、例えば「先生、次は学校行きますよ」「嬉しい、良かったね」っていうやりとりが何度あっても、やっぱり行けない[クライアントがいたとします]。それでこちらが内心望みを失うとするでしょう。そうしたらもう駄目なんですよ。「アカンかったわ」と言われた時に、こちらがちゃんと望みを持っていることが大事です。
小川 まだまだ大丈夫っていう、望み。
河合 「行けなかった」と言った時「でも行けるよ」って言うたら、行けなかった悲しみを僕は受けとめていないことになる。ごまかそうとしている。「そうか」と言って一緒に苦しんでいるんやけど、望みは失っていない。望みを失わずにピッタリ傍におれたら、もう完璧なんです。だけどそれがどんなに難しいか。(112-113ページ)
河合先生の言う「ただ傍に寄り添うこと」の難しさを受けて、小川氏は常套句の乱暴さについて述べます。
小川 日常の中で、何気なく人を励ましているつもりでも全然励ましたことにはなってなくて、むしろ中途半端に放り出してるってことがあるんでしょうね。
河合 それはつまり切っているということです。切る時は、励ましの言葉で切ると一番カッコええわけね。「頑張れよ」っていうのは、つまり「さよなら」ということです(笑)。
小川 「私はここで失敬します」ということですね。
河合 そういうことです。だから僕らは「頑張りや」は言わんと別れるんですね。「あなたが持ってきた荷物は、私も持ってますよ」っていう態度で別れる。(113ページ)
しかしこういった態度がどれほど難しいことでしょう。河合先生ですら難しいと言っているぐらいです。別の箇所で河合先生は、ご自身も失敗を繰り返してきたことを述懐しています。
それがわからないうちは、どうしても治そうと思って張り切るから疲れますね。その人のためを思って何かしようとするけど、結果は良くないことが多い。でも、そういう時も越してこないと駄目なんでしょうね。初めから今みたいになれといっても無理で、やっぱり一生懸命治そうと思ったり、ウロチョロしたりする時が必要なんだと思います。(55ページ)
そうなると私たちは人を慰めることはできないと諦める(=「明らかにする」)方がいいのかもしれません。自分は、目の前の人を慰めたくても、実は慰めることができない存在に過ぎないと覚悟して行動をするべきなのかもしれません。そして他人からの慰めを期待する方も、自分は他人からの慰めを求めながらも、実はそれを得ることができない存在に過ぎないと覚悟しておくのが結局はよいのかもしれません。
その諦念の後に、ひょっとしたら私たちは妙な連帯感を得ることができるのかもしれません。「私たちは互いにわかりあえず孤独である。しかしその孤独において私たちはつながっている。私たちは共に孤独な存在であるという事実において連帯できる」といった考えです。そう諦観した上で、静かに共にいる時に私たちにはほのかだけれど紛いのない希望を感じることができるのではないでしょうか。
河合先生は、紛い物のことばを嫌う中高生のことについて語ります。
河合 大人はごまかしてしゃべれる。ちょっと間が悪いなと思ったら、「いや、曇ってますな」って言えばいい。話を続けられるんです。
ところが中学生や高校生の子はそんなことは絶対言いたくないわけです。自分の腹の中にある、一番これが言いたいっていうことだけを言いたい。だけど、そのための言葉がない。自分が捕まっていることと自分が使える言葉というのが、離れすぎている。僕が「どうですか」言うたら、「いえ」と言ったまま黙っている。「お父さんは?」「別に」って取り付く島がない。これは拒否しているのでもごまかしているのでもなく、言えないんです。
小川 言いたいんだけども、どう言ったらいいのかわからない。
河合 そうです。そんな時、お父さん、こんなこと言うんだろうとか、具体的なことを言ってなんとか話をさせようとすると、もう一遍にこちらのことを嫌いになるんです。
小川 呼び水を与える、ということですね。
河合 呼び水のつもりでも、お父さんなんてそもそも言葉を超えた存在なのに、何もわかっていないくせに、と、腹をたててますますしゃべらなくなります。
小川 質問する側が納得したくて、何か言ってしまう。
河合 そう、質問する側が勝手に物語を作ってしまうんです。下手な人ほどそうです。「三日前から学校行ってません」て言うと、「三日か。少しだね。頑張れば行けるね」とか。これから百年休むつもりかもわからないのにね(笑)
小川 「もう少し頑張れば行ける」という、こっちの望む物語を言ってしまうわけですね。(56-58ページ)
引用していて、私はいかにこれまで自分が相手を「わかりたい」「わかるはず」と思い込んで、結果その人を追い詰めてしまったかということを改めて思い知らされました。せめて今回罹災された方にはそのような心の乱暴はすまいと自戒したいと思います。肩の力を抜いて、微妙な変化を感知できる身心にして、人に接したいと思います。
そうしてただそばにいるならば、人は語りだすのでしょう。今回のような悲劇なら、語り始めるのに数年、いや数十年かかるかもしれません。しかし人は語り始めるでしょう。人間には物語が必要、と小川氏は述べます。
いくら自然科学が発達して、人間の死について論理的な説明ができるようになったとしても、私の死、私の親しい人の死、については何の解決にもならない。「なぜ死んだのか」と問われ、「出血多量です」と答えても無意味なのである。その恐怖や悲しみを受け入れるために、物語が必要になってくる。死に続く生、無の中の有を思い描くこと、つまり物語ることによってようやく、死の存在と折り合いをつけられる。物語を持つことによって初めて人間は、身体と精神、外界と内界、意識と無意識を結びつけ、自分を一つに統合できる。人間は表層の悩みによって、深層世界に落ち込んでいる悩みを感じないようにして生きている。表面的な部分は理性によって強化できるが、内面の深いところにある混沌は論理的な言語では表現できない。それを表出させ、表層の意識とつなげて心を一つの全体とし、さらに他人ともつながってゆく、そのために必要なのが物語である。物語に託せば、言葉にできない混沌を言葉にする、という不条理が可能になる。生きるとは、自分にふさわしい、自分の物語を作り上げてゆくことに他ならない。(126-127ページ)
今回は罹災から免れた地域に住む人間としては、自分がなしうるわずかなことをして、せめて罹災された方々が語り合う場を取り戻すための後方支援ができればと思います。
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追記
Twitterで、あるお医者さんによるエッセイ(http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20110314#p1)を知りました。短兵急の「善意」や「正義」が凶々しいものに成り得ること、「善意」や「正義」を表すのならばそれは持続的で穏やかな生活の営みにあること、などで、上記で私が言いたかったことをうまく表現しているように思いましたので、ここにお知らせします。
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