三省堂の『大辞林』も実際、「政治」の第一義として「(1)統治者・為政者が民に施す施策。まつりごと」を掲載しています。「政治」とは「政治家」だけがなすこと、なしうることで、人々はその受益者か被害者のどちらかであり、被害者でなく受益者になろうとすること、受益者になったらその地位を手放さないでおこうとすることこそ、人々が行う「政治」であるようにも思われています。
私がアレントの本を、哲学博士で弁護士資格も持つアメリカ人の友人と一緒に読み始めたとき、私も政治については上のような見解しか持っていませんでした。ですからその友人が「政治にかかわるということは喜びなのだ、ということを日本人は分かっていない。日本人は政治とは裏取引や収賄にかかわることとばかりだと思っている。もちろんそのような行為は残念ながら政治から絶えることはないのだが、それは『政治』の定義的な意味ではない」と私に力説しても、私は彼の言う意味が十分には理解できませんでした。
しかしアレントを彼と読み進めるうちに、だんだんと私の「政治」理解も広がって、あるいは変わってゆきました。政治とは、絶対的真理を確定することではなく、誰もが真理も正義も絶対的あるいは恒久的に所有し得ず、さらにはお互いに様々に異なっているという人間の事実に基づいて、複数の人間が何とかうまくやってゆくという人間の営みだと考え始めました。政治とは、真理と正義の単一なる神とは絶対的に異なる、愚かで悪から離れることができない人々が複数存在していることに関する事柄なのです。政治において、真理や正義は、仮想的に措定する理想としては重要ですが、それは永久に達成できない超越的な理念であり、誰か一人やある集団が真理や正義を所有するとか体現するということが「事実」として成立することはありえないのです (少なくともこれが「神」との対比から「人間」を考えた場合の帰結の一つだと思います)。
そうするなら「政治」の権力を、たとえそれがその時点での為政者の権力であっても、無謬のもの、反問されるべきでないもの、固定されるべきものと考えるべきでありません。政治とは、ほとんどその定義上、対立的で、流動的で、妥協的なものではないのでしょうか。政治を、あるいは政治的権力を、無対立的で、固定的で、非妥協的なものであるべきだという前提を持ってしまって、そうでない現状は嘆かわしいと思うことは、危険なことではないでしょうか。
こうすると政治とは、真理や正義を規定しようとする哲学や神学とも異なるばかりか、真理の発見を目的・終点(end)としようとする科学とも異なることになります。政治、すなわち私たちという異なる人々の共存の営みにおいて、真理や正義は事実としては現前せず、またその現前を望むべきでもありません。
政治を哲学や神学、あるいは科学の延長で考えることは危険なことではないでしょうか。
以下はアレントの『思索日記』(Hannah Arendt (2003) Denktagebuch 1950-1973 Erster Band München: Piper)からの抜粋とその拙訳です(アレントはこのセクションはドイツ語でなく英語で記しています)。きちんとした訳は青木隆嘉先生の『ハンナ・アーレント 思索日記I』(法政大学出版局)の379ページをご参照下さい。
Heft XIII Januar 1953
[2]
Experimental Notebook of a Political Scientist: To establish a science of politics one needs first to reconsider all philosophical statements on Man under the assumption that men, and not Man, inhabit the earth. The establishment of political science demands a philosophy for which men exist only in the plural. Its field is human plurality. Its religious source is the second creation-myth -- not Adam and rib, but: Male and female created He them.
In this realm of plurality which is the political realm, one has to ask all the old questions -- what is love, what is friendship, what is solitude, what is acting, thinking, etc., but not the question of philosophy: Who is Man, nor the Was kann ich wissen, was darf ich hoffen, was soll ich tun?
(295)
政治学者の実験的ノート: 政治学を確立するのに最初に必要なことは、これまで哲学が、単数形で考えられてきた人について述べてきたこと全てを、地球に住んでいるのは複数形で考える人間であり、単数形で考える人ではないという想定のもとに考え直してみることである。政治学が確立するためには、人間は複数性でのみ存在するという哲学が必要である。政治学が扱うのは人間の複数性である。政治学の宗教的源泉は、聖書の第二創造神話である。つまりアダムと彼の肋骨という[第一の創造神話]でなく、神が男と女、すなわち複数の人間を創ったという神話である。
この複数性の領域こそは政治的領域なのだが、ここで昔ながらの問いが問われなければならない--愛とは何か、友情とは何か、独立とは何か、活動するとは何か、考えるとは何か、といった問いである。複数性を扱う政治学では、単数形で考えられる人とは何か、という哲学の問いではない。私は何を知りえ、何を望むことが許され、何をなすべきなのかという問いも同様に、政治学の問いではない。
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