2008年4月7日月曜日

知的訓練としての文法訳読

アレントの原書が手に入ったので、過去の記事(「この世の中にとどまり、複数形で考える」「アレントによる根源的な「個人心理学」批判」)に、私なりのドイツ語からの日本語訳を加えてみました(間違いをお見つけでしたらご批判下さい。私のドイツ語力はひどいものです)。



その作業の中で感じたことを、備忘録的に書き記しておくなら、「文法訳読」というのは、かつて渡部昇一氏が力説していたように、かなりに高度な知的訓練になりうるということです。



知的訓練というのを、私なりに言い換えてみます。


ざっと読んだだけでは正確に意味がわからない、知的に深く、文法的に複雑で、知らない語彙がたくさんある外国語を読むためには、文法関係を正確に捉えながら、辞書を引いて、その文法関係と語彙情報を基に相当に考えなければなりません。

いいかげんな当て推量ではなく、格関係に基づいて文の意味構成の可能性を絞り込むということは、外国語と母語の両方で、言語に忠実に思考するということです。

辞書を引くということは、一見した外国語をsegmentation(分節化)し、そのsegmentを単位としながら、grapheme-phoneme correspondence(書記素-音素対応)に基づいてarticulation(調音)して、そのsound representation(音的表象)をworking memory(作動記憶)に入れながら、辞書にある数々の単語--ここでは紙の辞書の使用を想定しています--のword recognition(単語認知)を行いながら目的の語を探します。

これらの知的作業は正確な知識に基づき、迅速に遂行されなければなりません(さもなければいつまでたっても文法訳読は終わりません)。この際にはphonotactics(音素配列論)といった無意識に獲得されたような知識も役立ちます。いやこれらの知識は、知的作業の役に立っているだけでなく、知的作業によって、より確実なものになっていると言えるかもしれません。

そうやって見つけた単語の記述を読みこなすことも外国語と母語を使った高度な知的作業です。さらに、目的の文に最も適切な訳語をひねり出すことは--しばしば最適の訳語は辞書には掲載されていません--、semantic features(意義素)の分析によって、自らが知っているはずの日本語の類義語を総動員して、最適な日本語を探し出すというこれまた高度な言語使用=思考です。この最適語探しは、文法関係の正確な理解に基づいていなければならないことは上述した通りです。

このように外国語の高度な文章を、大量に(ということは短時間のうちに)、正確に文法訳読するということは、まさに「知的格闘」ともいえるぐらいの高度な知的訓練です。私はわずかばかりのドイツ語を訳すなかで、「このような知的訓練は、時間をかけることができる若いうちにきちんとやっておくべきだった」と少し後悔しました。また若者は、このような知的訓練を長時間こなすことによって、きちんと机について考えるという知的な作法をようやく我がものにできるといえましょう。以前にも言いましたが、人文系は計算ができないのなら、せめて語学ぐらいはきちんとやるべきです。

私は劣等生ながらに、高校生の時は、当時自分で考えていた限界を超えるぐらいの勉強をさせられました。その強制のおかげで、高一の四月には中学校教科書の英語力しかなかったのに、三年後には大学入試程度の英語ならなんとかきちんと理解し、その理解を日本語で表現できるようになりました(それより程度は低いものの日本語を英語にすることもできるようになりました)。そのようなきちんとした「勉強」(=勉め強いられること)を大学・大学院時代にきちんとやっていれば、人生はずいぶん展開していただろうなと今頃になって後悔します。大学・大学院時代には、私は自分のペースで自分の好きなように勉強しました。それはそれなりに楽しくまた意義深いことでしたが、もっともっと地道に英語、ドイツ語、そして第三、第四の外国語をきちんとやっておけばよかったと思います(今思えば、私が大学院に入学した時の主任教授である垣田直巳先生は、「第二外国語をきちんとやっておきなさい」と一度だけさりげなくおっしゃいました。私は師の言葉を守らなかった愚かな学生でした)。

話を一般論に戻します。現行の指導要領は、実践的コミュニケーション能力を、「情報や相手の意向などを理解したり自分の考えなどを表現したりする」こととまとめています。リーディングも「まとまりのある文章を読んで、必要な情報を得たり、概要や要点をまとめたりする」ことであり、「まとまりのある文章を読んで,書き手の意向などを理解し、それについて自分の考えなどをまとめたり、伝えたりする」ことと規定しています。ここには文法訳読や精読の影は見えません。

そんな指導要領にもかかわらず(?)、一部の国立大学は二次試験で英文和訳(および和文英訳)を出し続けています。ねらいは高度な文章を的確に訳させることで上のような知的訓練の成果を測定しようとするものでしょう。

英語教育界の大半の人々は、そのような文法訳読を非難します。そのような入試問題があるからこそ英語教育は改善されないと主張します。

私はその意見に昔から違和感を感じていました。

少なくとも一部の大学が、丁寧に文法訳読の能力を評価しようとするのは、私は一つの見識かと思います(入試問題全てが文法訳読式であるべきかどうかは別問題です)。多くの英語教育関係者が、スローガンのように「文法訳読式は悪い」と言い続けた中、文法訳読式の入試問題を残した大学と、その大学入試のために丁寧な文法訳読の訓練を生徒に課した高校は、大げさにいえば日本の人文系の学力凋落の防波堤になっているとさえいえるのかもしれません(繰り返しますと、英語教育の全てが文法訳読訓練になるべきかは別問題です。また私は英語教育の全てが母国語を使ったものになることには反対です)。

しかしあわててつけ加えますと、文法訳読式ほど、粗悪で手抜きの授業をしやすいものもありません。私が時折学生さんから聞く(あるいは私の目で直接見る!)、あきれるほどにいいかげんで、学習者に学力をつける工夫をしているとはとても思えない惰性で無思考的な「文法訳読」の授業は、授業の名前に値しないものです。このような授業を見ていると「文法訳読なんか一切止めてしまえ!」と、つい思いたくもなってしまいます。

しかし、産湯と共に赤子まで捨ててしまってはいけません。文法関係に忠実に、適切に言葉を選ぶ授業は大切にされるべきでしょう。もちろん「文法関係に忠実に、適切に言葉を選ぶ授業」は、外国語だけを使った授業でも可能です(私がある大学生に「大学の授業できちんと正確に外国語を理解しなければならない授業をした先生はいるか」と尋ねた時に、彼が外国人教師の名前だけをあげたのは皮肉なことでした)。しかしそれは学習者に(そして何より教師に)高度な外国語を要求します。そこに至る段階で、母語を使った文法訳読があることは、私はきわめて現実的なことだと思います(注)。

正直、最近の学生さんが、英語を始めとした外国語だけでなく、日本語でも精読ができなくなってきていることに私は恐怖さえ感じています。人文系が本を読めなければ、それはただの○○です(←自主規制)。高校か大学の教育のどこかでは精読はみっちりやらなければならないと私は考えます。

かといって、私は最近の一部の「コミュニケーション=悪者」論にも与しません。一部の人々は最近、「コミュニケーションの重視こそが英語教育を駄目にしている」というのを口癖にしていますが、それはコミュニケーションに対して理解が浅いのであり、その理解の浅さと短絡においては、昔から現在に至る「文法訳読=悪者」論を繰り返す者と変わりがないと私は考えます。

それこそ人文系の者としての誇りをもって、英語教育、いや外国語教育のあり方について、的確に思考し語り合うことが必要です。



(注)
誤解のないように私的な追記をしておきますと、私は一つの授業(語用論)は8-9割を英語で行っています。その他の授業では日本語をかなり使っています。大学院の一つの授業は、かつて留学生と合同で英語で行っていましたが、そうすると日本人学生と留学生のどちらにも益さないような形になってしまったので、今では(制度改革もあり)、日本人向けの日本語を多用する授業と、留学生用の英語だけの授業をもつという形をとっています。

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