平板な言語観が横行しています。その考えによると、言語は単純な道具に過ぎません。つまり言語を知る、あるいは使うとは、「初めて人に会ったなら"How do you do?"と言え」、「塩を取って欲しいなら"Can you pass me the salt?"と言え」と言ったように、If A, then B あるいはA→Bとでもまとめられる操作を覚え習得するだけのことです。後はいかにA1, A2, A3...., B1, B2, B3....といったように操作の数を多くするかだけの問題です。
ここにはBつまり言語には独自の原理があることに関する洞察はありません。言語の法則や特徴を自覚して、言語を豊かに、巧みに使いこなすという発想も乏しいです。ましてや言語についての知識を深めることで、Aすなわち思考や状況認知そのものをさらに細かに、多彩にしてゆくという考えもありません。
言語を単純な道具としてしか捉えないなら、言語はしばしば標識や身振りにすらも劣るものとなってしまいます(実際、原始的な状況でしたら、赤信号や目の前に差し出された両手の方が、「止まりなさい」という言語より有効かもしれません)。しかし言語は、言語以外の(文法を持たない、あるいは文法に乏しい)記号よりも、はるかに複雑なことをきわめて効果的に表現できます。言語を単純な道具として考えることは、言語の豊かな可能性を否定することです。それは言語を使いこなすことができる私たち人間の潜在能力を否定することでもあります。
言語教育に関わる者は言語に関する洞察、気づきを深めるべきでしょう。いやほとんど全ての教育の領域で言語が重要な役割をしている以上(スポーツのコーチングや音楽批評における言語の重要性を否定することは困難です)、教育に携わる者は言語に対しての学びを深めるべきでしょう。
いや教育者だけではありません。プレゼンテーションを行うビジネスパーソン、患者に声かけする看護士、政治家の言葉を注意して聞こうとする市民・・・近代社会においては言語の仕組みと働きについて私たちは十分に自覚的である必要があります。
しかし言語に関する学びというのは、存外になされていません。ですから、言語の仕組みと働き、あるいはそれらの記述・説明法を知っていれば、すぐにわかるようなことでも、私たちはわからないままで、どこかおかしいなぁと思いながら日々を過ごしたりしています。
この本は、二人の言語学者によって私たちに贈られた「ことば」「言語」への、やさしくて深い入門書です。「理論編」では抽象的な「ことば」の理解から、現代的な時代認識にまで的確な解説が読めます。「実践編」では楽しいイラストや読みやすいレイアウトなどに助けられながら、それこそ子どもから大人まで「ことば」「言語」の豊かさを楽しむことができます。
第一義的には、小学校における外国語活動のために使われることを想定して書かれたこの本ですが、私はすべての市民にお薦めできる良書だと思います。
⇒慶応義塾大学出版会へ
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