2012年1月16日月曜日

野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)




慶應学習英文法シンポジウムの準備の頃からずっと、野矢茂樹先生によるこの『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)の議論が気になって、以来、三回ほど通読し、何度もアンダーラインを引いた箇所を読み返しました。同シンポジウムに関する研究社出版への原稿は先日第一稿を書き上げ、また推敲し書き直すために、今「寝かせて」いるところですが、その原稿でも結局この本から直接的に引用することこそありませんが、この本の議論からはある程度の影響を受けました。

授業の「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」でも近いうちにウィトゲンシュタインを扱うので、やはりこの本をまとめられないかと試みましたが、やはり私はこの本(というよりウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』)の全体像を要約することはとてもできません。 ― 『論理哲学論考』に関しては、Ogdenの英訳版でしたらProject GutenbergのPDF版、ドイツ語原文とOgden英訳とPears/McGuiness英訳の便利な対訳版でしたらこのPDF版、ドイツ語原文とOgdenの英訳のHypertextならこのページがオンラインで入手できます ―。

と、いったんこの本の全体的な要約を諦めたものの、授業準備のために後期ウィトゲンシュタインのPhilosophical Investigations)(日本語翻訳は『哲学探究』)の最初の部分を読み返していたら、何だか『論理哲学論考』の少なくともいくつかの論点が急にはっきりわかるように思えたので、その論点だけでもここに書き残しておこうと思いました。(やはりウィトゲンシュタイン自身が『哲学的探究』は『論理哲学論考』と合わせて一冊として出版されるべきだと考えていたことからも示されるように、これらのウィトゲンシュタインの初期と後期の代表作は、重ね合わせるように読まれるべきなのでしょう)。

というわけで、以下は、野矢先生の『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の一部の論点を私の理解(あるいは誤解)なりに整理したものです。「○ページ」と表記されたページ数はこの本のページ数です。なお野矢先生は『論理哲学論考』の翻訳も岩波文庫から出版されています。こちらから引用する場合は「(岩波)」と表記します。

「1.1」など表記された数字は『論理哲学論考』の節番号を表します。節番号は一桁のものが最も重要な節です。桁数の多い節は桁数の少ない節の補助説明です。

ドイツ語はウィトゲンシュタインによるもの(上記サイトより引用)で、英語は、末尾に(O)と書かれたものはOgdenの英訳表現で、(P/M)と書かれたものはPears/McGuinessの英訳表現です。


以下のまとめでは、私が野矢先生(およびウィトゲンシュタイン)が行った厳密な用語法を、乱暴にまとめてしまったところも多々あります。また途中で、野矢先生が言ったことから脱線して、私個人の愚論を展開しているところもあります。ですから、ご興味のある方は必ず、上記のきちんとした本を読んで下さい。



***



■「その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリー」としての「論理形式」

「対象」(Gegenstand; object (O)(P/M))(2.01)を、とりえあず「世界の究極の要素」ぐらいに考えた上で、ウィトゲンシュタインがその「対象」について述べていることに注目してみましょう。


2.01231 対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない。(49ページ)

2.0131 Um einen Gegenstand zu kennen, muss ich zwar nicht sene externen -- aber ich muss alle seine internen Eigenschaften kennen.

2.0131 In order to know an object, I must know not its external but all its internal qualities. (0)

2.0131 If I am to know an object, though I need not know its external properties, I must know all its intrnal properties. (P/M)


この内的/外的な性質について野矢先生は次のように解説します。


ある対象がその性質をもっていないと想像すると、その対象の同一性が損なわれ、それゆえその性質をもっていないと想像することができないようなとき、その性質はその対象にとって「内的」とされる。たとえば、物体は時間空間的位置をもつ。物体がある特定の時間空間的位置を占めていることは偶然的なことであり、外的であるが、そもそもなんらかの時間空間的位置をもつだろうことは物体にとって内的である。(51ページ)


と、ウィトゲンシュタインは内的/外的な「性質」について述べますが、野矢先生はこの「性質」は、「形式」あるいは「論理形式」と呼んだ方が誤解が少ないだろうとします。(52-53ページ)。その上で、野矢先生は対象の内的性質、論理形式について次のように述べます。外的性質を知ることの記述に引き続いての文です。


それに対して、対象の内的性質、論理形式とは、そうした探求の範囲を示すものである。そのトマトは、位置について、色について、形について、硬さについて、味について、いかなる性質をもっているかを探求することができる。いわば、対象の論理形式とは、その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリーにほかならない。その質問の答えを知っている必要はない。しかし、どういう質問をすることができるのかは理解していなければならない。たとえば、それがどこにあるのかは知らなくても、「それはどこにあるのか」と尋ねることができる、そのことは分かっていなければならない。その対象の論理形式を捉えていないのであれば、そもそも何を調べてよいか分からない。そして対象を捉えるとは、「さて、これからこいつについて、どんな性質をもっているかを調べてやるぞ」と探求の出発点に立つことを意味している。それゆえ、対象を捉えるためには、その対象の論理形式を把握していなければならない。(55ページ)


トマトの論理形式の例として、上には位置・色・形・硬さ・味が上げられていますが、それらがトマトのもつ論理形式のすべてなのかについては疑問が残ることでしょう。しかし(どこで読んだか忘れましたが)ウィトゲンシュタインはこの「対象」の議論で、何ら具体的な物を考えていたのではなく、形而上学的な議論を行なっていたはずなので、ここではそれを問題とはしないことにしましょう(ウィトゲンシュタインは「形而上学的」という言葉を嫌っていますが、それもここでは問題としないことにします)。その上で述べるなら、


「その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリー」


としての「論理形式」とは十分に理解できる概念かと思います。



■「対象」、「事態」、「事実」、「世界」

究極の「対象」、すなわち他の対象と組み合わされていず、それだけで成立している純粋で単一なる「対象」とはまさに形而上学的概念であり、それを具体的に例示することはできませんが、私達が普通に「事態」と呼ぶものは、いくつかの「対象」が組み合わさったものだ、という考え方は、まあ日常的にも理解できるものでしょう。

ウィトゲンシュタインの考え(世界観)をまず単純化して表現するなら次のようになります。


世界 = すべての事実の総体 (1)

一つの事実 = いくつかの事態が成立していること (2)

一つの事態 = いくつかの対象が組み合わさっていること (2.01)


あるいは

世界

=複数の [事実] の総体

= 複数の [たくさんの《事態》] の総体

=複数の [ たくさんの 《多くの対象の組み合わせ》 ] の総体

とも表記できるかもしれません。

つまり「世界」はすべての「事実」から構成されているが、一つ一つの「事実」とは、多くの「対象」の組み合わせからなる「事態」がさらにいくつか集まって成り立っていることから成立している、となります。

「だからどうなんだ」と言われそうですが、「対象」を理解するためには必要ですし、『論理哲学論考』では、いきなりこの用語法が出てきて面食らうことが多いので、ここにまとめておく次第です。

日本語訳、そして原文と英訳は次のとおりです。(「成立していることがら」 (der Fall, the case)という用語が入ってきますが、議論の骨子は上で単純化した通りです。




1 世界は成立していることがらの総体である。 (岩波 13ページ)

2 成立していることがら、つまり事実とは、諸事態の成立である。 (岩波 13ページ)

2.01 事態とは諸対象(もの)の結合である。 (岩波 13ページ)


1 Die Welt ist alles, was der Fall ist.

2 Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.

2.01 Der Sachverhalt ist eine Verbindung von Gegenständen. (Sachen, Dingen.)


2 The world is everything that is the case. (O)

2 What is the case, the fact, is the existence of atomic facts. (O)

2.01 An atomic fact is a combination of objects (entities, things). (O)


1 The world is all that is the case (P/M)

2 What is the case -- a fact -- is the existence of states of affairs. (P/M)

2.01 A state of affairs (a state of things) is a combination of objects (things)(P/M)






■論理的な使用に限っての「言語」

さて次は『論理哲学論考』でウィトゲンシュタインが「言語」についてどう議論を展開したかについて考えます。最初に断っておかなければならないのは、ここでの「言語」はもっぱら論理的に使用されるものに過ぎないということです。言うまでもなく、言語使用には、論理的でもなく真偽を決定できる命題でもない言語使用があります(例えば挨拶や命令文)。しかし『論理哲学論考』でのウィトゲンシュタインは、論理的な使用に限っての「言語」についてのみ議論を進めます。私たちの思考の限界を見極めようとして論理的に使用される言語についてのみもっぱら考えます。論理に限らない多彩な人間の営みは、 後期の『哲学的探究』で登場します。


そういうウィトゲンシュタインの(論理的な)「言語」とは、すべての「命題」の総体です。それぞれの「命題」は現実の「像」である限りにおいて真か偽でありえます。「命題」のうち有意味な命題が私たちの「思考」と呼ばれます。

私なりに単純化するとこうなります。


「命題」 = 現実の「像」
(ただし、真の「像」もあれば偽の「像」もある)

「思考」 = 有意味な命題
(ただし、真偽を確定しようとして、後で偽と判明する命題を語ることも有意味ではある)。

「言語」 = 命題の総体
(つまり、真の命題も偽の命題も、有意味な命題もナンセンスな命題も含めた、
あらゆる可能な命題の総体)



日本語訳、そして原文と英訳は次のとおりです。


4 思考とは有意味な命題である。 (岩波39ページ)

4.001 命題の総体が言語である。(岩波39ページ)

4.003 哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。・・・(後略) (岩波39ページ)

4.01 命題は現実の像である。
命題は現実に対する模型であり、そのようにしてわれわれは現実を想像する。 (岩波40ページ)

4.06 命題は現実の像であることによってのみ、真か偽でありうる。 (岩波47ページ)


4 Der Gendanke ist der sinnvolle Satz.

4.001 Die Gesamtheit der Sätze ist die Sprache.

4.003 Die meisten Sätze und Fragen, welche über philosophische Dinge geschrieben worden sind, sind nicht falsch, sondern unsinning. ...

4.01 Der Satz ist ein Bild der Wirklichheit.
Der Satz ist ein Modell der Wirklichkeit, so wie wir sie uns denken.

4.06 Nur dadurch kann der Satz wahr oder falsch sein, indem er ein Bild der Wirklichkeit ist.


4 The thought is the significant proposition. (O)

4.001 The totality of propositions is the language. (O)

4.003 Most propositions and questions, that have been written about philosophial matters, are not false, but senseless. (O)

4.01 The proposition is a picture of reality.
The proposition is a model of the reality as we think it is. (O)

4.06 Propositions can be true or false only by being pictures of the reality. (O)


4 A thought is a proposition with a sense. (P/M)

4.001 The totality of propositions is language. (P/M)

4.003 Most of the propositons and questions to be found in philosophical works are not false but nonsensical. (P/M)

4.01 A proposition is a picture of reality.
A proposition is a model of reality as we imaginie it. (P/M)

4.06 A proposition can be true or false only in virtue of being a picture of reality. (P/M)


さて「言語」が『論理哲学論考』においては、論理的な使用に限った言語といった特殊な意味で使われているのと同じように、「名」は『論理哲学論考』において「対象」の代わりをするもの、という特殊な意味で使われています


3.22 名は命題において対象の代わりをする。 (岩波27ページ)

3.22 Der Name vertritt im Satz den Gegenstand.

3.22 In the proposition the name represents the object. (O)

3.22 In a proposition a name is the representative of an object. (P/M)


この定義から、「対象の論理形式」は、「名の論理形式」と等しいことになります(63ページ)。「命題」の中の「名」は、対象の論理形式が許す範囲で命題の中で使われます。ということは「有意味な命題」(=「思考」)において「名」が示す「名の論理形式」こそが「対象の論理形式」ということになります。

しかし究極あるいは単一で純粋な「対象」とは形而上学的概念であり具体的な事物ではなかったように、純粋な「名」も形而上学的概念であり、『論理哲学論考』での「名」を、私たちの日常言語の名詞と考えるべきではないでしょう。(「名」は、命題が「完全に分析された」要素となった「単純記号」のことであるとウィトゲンシュタインは定義しています (3.201および3.202)。

ですから「私たちが名詞をどのように・どこまで使えるか、というのが世界の究極の構成要素の分析となっているのだ」などというのは短絡です。「私が目の前に見ている『これ』に対して私は『X』という名詞を使う」という関係が、そのまま「対象」と「名」の関係であるわけではありません。「対象」は、私達が認識する事態や事実の中に複雑に組み込まれています。そして「対象」の像である「名」は、私達が日常的に使用する文や文章の中に複雑に組み込まれています(ウィトゲンシュタインは「日常言語から言語の論理を直接に読みとることは人間には不可能」とさえ言います(4.002)。また『哲学的探究』にも単純な対象を同定することの困難が語られています)。だから日常言語の名詞の使用の詳細な分析が、そのまま世界の究極の分析となるなどとはなりません。




■言語獲得と言語使用は、思考の獲得であり使用である


しかし純粋な「名」が複雑に組み合わされた「命題」の総体 ―あらゆる可能な命題のすべて― が「言語」である(4.001)とは言えるでしょう。

「総体」といった緩やかな意味で、言語を習得するということ、つまりは言語を使用できるようになるということは、同時に真偽や有意味性を学ぶであるとは言えるでしょう。つまり、言語を習得するということは、可能な命題をすべて扱いうるようになるということであり、その中でどの命題が真でどの命題が偽であり、どの命題が有意味な思考でどの命題がナンセンスであるかを見極めながら使用することと言えるかもしれません。(もちろん一部の言語学者でしたら、完璧に統語的だが意味不明な言明ばかりする人も「知性に偏りがあるものの『言語』(あるいは『文法』)は獲得している」というでしょうが、ここでは常識的な意味での言語習得・言語使用について議論します)。

命題の真偽判定は、現実世界に関わることですから、観察や計測などで決定される経験的なものです。しかし、何が有意味であり何がナンセンスであるかを判定するのは、まさに思考を学ぶということです。

ですから非常に単純化した言い方をすれば、言語を習得するとは、(現実世界での真偽決定という経験的な言語使用に加えて)、思考を学ぶということになります。逆に言うなら、思考を学ぶには、言語を習得しなければならない、となります。そして思考の学び=言語習得は、言語使用においてなされます。言語をきちんと使用することができるようになることは、同時にきちんと思考できるようになることと言えるでしょう。




■文学や哲学は世界のあり方の可能性を探ること

真偽決定できる経験的言語使用以外の、有意味・ナンセンスの境界線まで届こうとする言語使用を学ぼうとすることは、事態の中に複合的に組み込まれた対象の「論理形式」(「内的性質」)の複合的な組み合わせについて考えることを学ぶということです。これは可能な世界のあり方について考えることです。世界はどうあり得て、どうあり得ないのかということを、「外的性質」の経験的実証はさておき、「内的性質」「論理形式」において考えようとすることです(前にも説明しましたように、その「内的性質」「論理形式」は単純な対象の「内的性質」「論理形式」ではなく、多くの対象の「内的性質」「論理形式」の複雑な組み合わせなのですが)。

さてこれまでは言語使用の論理的な側面だけを考察した前期ウィトゲンシュタインと彼の翻訳者に従って"Satz"を「命題」(proposition)と訳してきましたが、ご承知のように"Sats"とは「文」(sentence)とも訳せる語です。今、私はウィトゲンシュタインが述べたことを、緩やかに言い換えていますので、その方針を続け、今後は「文」という表現も必要に応じて使うことにします。

経験的実証の「外的性質」ではなく、対象・事態・事実・世界の「内的性質」である「論理形式」をもっぱらの基準にして言語を使用することの典型例の一つは、小説です。例えば村上春樹の『1Q84』 などの小説は、月が二つあるなどの点で私達の世界の「外的性質」には大きく違反するような世界や出来事を描きながらも、私達の世界理解の「内的性質」・「論理形式」には違反しない物語を書くことにより、世界中の読者の共感を得ています。このような小説を読んでも、科学的知識はおろか世俗的知識もほとんど得られず、大げさに言うなら私たちはひたすらこの世界の「内的性質」、私達の「論理形式」の可能性について小説の言語を通じて学んでいます。この学びは経験的な知識は増やしませんが、私達の世界のあり方の可能性を広げ深めさらには質的にも転換してくれています。

小説家だけでなく、哲学者も「ありうる世界」「あるべき世界」について語ります。世俗知に長けた人は、しばしば小説家や哲学者を「世間知らず」として馬鹿にしますが、仮にそうだとしても、小説家や哲学者は世俗知に長けた人よりはるかに「世界のあり方」について知っているのではないでしょうか。

どこで読んだか忘れたのですが、「世間は、政治家やビジネスマンが未来を創ると思っているが、未来を創るのは文学者である。文学者は新たな言語を紡ぎだすことで、新たな世界のあり方を創っている」といった発言を最近読んだように思います。必ずしも物事の「外的性質」には即していないかもしれないが、物事の「内的性質」「論理形式」を見極め、その可能性の限界を広げるや哲学者は、言語の可能性を探ることで、私達の思考、そして私達の世界の可能性を豊かにしていると言えるでしょう。




■言語習得の複合的・循環的全体性

数多くの「対象」が複雑に組み込まれた事態や事実は、「対象」の「論理形式」も複雑に組み込まれた形で含んでいます。その事態や事実をの真偽を確かめるために文を使い(=例、自然科学における言語使用)、さらにはその事態や事実の可能性を限界まで考えようとしてナンセンスとなるギリギリまで文を使うこと(=例、文学や哲学などの人文学での言語使用)は、数多くの「対象」、つまりは事態や事実の論理形式を、分解できない複合的な全体性の中で学ぶことになります。特に、後者の言語使用での文の有意味性やナンセンス性の判断 ―つまりは思考―は、世界の表現としての言語の分解できない複合的な全体性に基づいています。

ここに思考を学ぶこと=言語使用を学ぶことの難しさがあります。思考と言語は、分解して学べないのです。複合的な全体性の中にいわばいきなり飛び込まねばなりません。飛び込むと、分解不可能だと思った部分が実はさらに分解可能だったり、その他の部分と複雑に絡み合ったり、さらにはその他の部分の理解が実は当の部分の理解に基づいていることに気づいたりします。完全な分析など不可能な、複合的で循環的な言語使用の全体性をものともせずに、言語を使い、「なるほど」と言われたり「そうかな」と問われたり「それは違うだろう」と反駁されたりと言語共同体の中で言語使用し続けるしかありません。そのように複合的で循環的な言語使用の全体性に飛び込まないと、私たちは思考と言語を学べないのでしょう。

母国語(第一言語)を獲得するとは、まさにそのようなことです。野矢先生は次のように言います。(私からすれば、野矢先生は「名」と日常言語の「語」、および「命題」と日常言語の「文」をそれぞれ同一視したような言い方をなさっているように思えますが、それは今は問題にしないことにします)。


実際、われわれが母国語を習得してきたプロセスは、いきなり仲間にさせられるというものであったろう。ひとつひとつ語の論理形式が説明され、それを順番にきちんと把握しながら習得してきたわけではない。それはまさに言語全体の循環の中に参加していくプロセスだった。よく訳の分からない状態で言語使用のただ中に放りこまれる。そしてつながりあった論理形式の網の目を調整し、拡大しながら、いまに至っている。その結果、まがりなりにも、「猫」の論理形式ぐらいは胸をはって知っていると

こうして子どもが言葉を学んでいく過程は、同時に、世界から対象を切り分けていく過程でもある。赤ん坊は最初から物たちの世界に生きているわけではない。周りで使用される未分節の命題が名に切り分けられ、その論理形式が網の目全体としてしだいに明確になってくるにつれ、対象もその姿を明確にし始める。これが、われわれが対象に到達する方法に他ならない。

目の前の光景の内に、たとえば一匹の猫、ミケを認める。だが、そのことはすなわち、ミケが他の場所に動いていったり、ミケがもっとスリムだったり、いまは寝ているミケが起きて走りまわっていたり、さまざまな可能性を通じてミケがひとつの個体であるという了解を背後にもっていなければ成り立たないことである。すなわち、眼前の事実から対象を切り出すには、その対象がどのような可能な事態の内に現れうるかを了解していなければならない。他方、可能性は言語によってのみ開かれる。ミケという対象の可能性は、「ミケ」という名がどのような命題によって現れうるかという可能性、すなわち「ミケ」という名の論理形式としてのみ、捉えられるのである。しかも、ある名の論理形式はその名だけ単独で与えられるものではなく、他の名とともに、言語全体の網の目として張られるしかない。かくして、対象に到達するにも、言語の全体が要求されるのである(73-74ページ)




■『論理哲学論考』の中の言語使用的意味論

よく私たちは、後期ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』を、前期の『論理哲学論考』の完全な否定として捉えがちです。『哲学的探究』の有名な意味論が「語の意味とは、言語内でのその語の使用である」(Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache. - The meaning of a word is its use in the language.)(43節)である以上、そのような意味論の使用説は前期の『論理哲学論考』にはでてこないのではないかと思ってしまいますが(私もそう思っていました)、野矢先生が解説するように、言語習得の複合的・循環的全体性が『論理哲学論考』で論じられている以上、使用説的意味論は ―あるいはその根源的な形は― 『論理哲学論考』にもあります。具体的には3.26とその補助命題です。


3.26 定義を用いて名をさらに分解することはできない。名は原子記号である。(岩波28ページ)

3.261 定義によって導入された記号はすべて、その定義に用いられている記号を通して [複合的なものを] 表現する。定義はそうして [複合的なものに至る] 道を教える。
原子記号、および原子記号によって定義された記号、この二種の記号が同じ仕方でものを表すことはありえない。名を定義によって他の記号へと分割することはできない。(他の記号に依存することなくそれだけで意味をもつ記号を、定義によって他の記号へと分割することはできない。) (岩波28ページ)

3.262 記号において表現されえないことを、記号の使用が示す。その記号が呑み込んでいるものを、記号の使用が表に現す。(岩波29ページ)

3.263 原子記号の意味は解明によって明らかにされうる。解明とは、その原子記号を命題において用いることである。それゆえそれらの記号の意味にすでになじんでいるひとだけが、解明を理解しうる。(岩波29ページ)

3.26 Der Name ist durch keine Definition weiter zu zergliedern: er ist ein Urzeichen.

3.261 Jedes dininierte Zeichen bezeichnet ü b e r jene Zeichen, duruch welche es definier wurde; und die Definitionen weisen den Weg.
Zwei Zeichen, ein Urzeichen, und ein duruch Urzeichen definiertes, können nicht auf dieselbe Art und Weise bezeichnen. Namen k a n n man nicht duruch Definitionen auseinanderlegen. (Kein Zeichen, welches allein, selbständig eine Bedeutung hat.)

3.262 Was in den Zeichen nicht zum Ausdruck kommt, das zeigt ihre Anwendung. Was die Zeichen verschlucken, das spricht ihre Anwendung aus.

3.263 Die Bedeutung von Urzeichen können durch Erläuterungen erklärt werden. Erläuterungen sind Sätze, welche die Urzeichen enthalten. Sie können also nur verstanden werden, wenn die Bedeutunggen dieser Zeichen beteits bekannt sind.


3.26 The name cannot be analysed further by any definition. It is a priminitve sign. (O)

3.261 Every defined sign signifies via those signs by which it is defined, and the defionitions show the way.
Two signs, one a primitive signs, and one defined by primitive signs, cannot signify in the same way. Name cannot be taken to pieces by definition (nor any sign which alone and independently has a meaning). (O)

3.262 What does not get expressed in the sign is shown by its application. What the signs conceal, their application declares. (O)

3.263 The meanings of primitive signs can be explained by elucidations. Elucidations are propositions which contain the primitive signs. They can, therefore, only be understood when these signs are already known. (O)


3.26 A name cannot be dissected any further by means of a definition: it is a primitive sign. (P/M)

3.261 Every sign that has a definition signifies via the signs that serve to define it; and the definitions point the way.
Two sigins cannot signify in the same manner if one is primitive and the other is defined by means of primitive signs. Names cannot be anatomized by means of definitions. (Nor can any sign that has a meaning independently and on its own.) (P/M)

3.262 What signs fail to express, their application shows. What signs slur over, their application says clearly. (P/M)

3.263 The meanings of primitive signs can be explained by means of elucidations. Elucidations are propositions that contain the primitive signs. So they can only be understood if the meanings of those signs are already known. (P/M)



すこし緩くさらに拡張して言い換えますと、こうなるでしょう。

もし仮にとても単純な対象があり、その対象にある名があり、言語を習得していない子どもがまず最初にその名を習得しようとするとしてみよう。子どもは、周りの大人からその名の定義を与えられることによってその名の意味を理解することはない。なぜなら定義は他の名の組み合わせによって構成されているからであり、子どもはそれら他の名の意味を知らないからだ。

しかし、子どもが、その名を含んだ発話が周りの大人によって有意味に使用される環境で、その大人にあたかもその子どもはその発話を既に理解できる存在であるかように取り扱われ生活を共にすることによって(Zone of proximal development?)、その子にとっては、だんだんとその語の意味がどんなものであるか解明されるようになる。この場合の「解明」とは、自分が既にできていること(ということは、理解しているし知っているはずのこと)のあり方がだんだんと明らかになってゆくこと(そしてその使用がますますうまくなること)であり、自分がまったく知らないことが定義によって新たに・突然に把握されるといった「説明」とは異なる。

複雑な意味の語は言語使用に長けていないと理解できない、というのは想像しやすいことであるが、単純極まりない意味の語すらも言語使用の中に入り込まないと理解できないということは考え難いことかもしれない。しかし「『X』って『あれ』さ」というこれ以上単純にできないぐらいの直示的定義(ostensive definition)ですら、聞く者は「あれ」が何であるのかを容易に理解できないのは、後期の『哲学的探究』が示す通りである・・・。(このあたりの議論は、後日、稿を改めて行います)。

「解明」について、野矢先生は次のように述べています。


それ [=解明] は何も知らない人に何ごとかを教えようとする「説明」ではありえない。すでに名を用い、命題を使用できている人だけが、自分のやっていることを明確にすべくそれを反省し、整理して、自分の言語使用を解明することができる。それは積極的に循環の中に入り込むことにほかならない。(272ページ)


いずれにせよ、『論理哲学論考』が言語習得の複合的・循環的全体性を語り、語の習得のためには、(あたかも既にその語を理解しているように)その語を言語共同体の中で使用しなければならない、といった考えを示しているように思えることは、強調しておくべきでしょう。




■語りえないことを語り続ける

そうして言語使用に私たちの考察を向けてゆくと、メタファーのことが気になってきます。メタファー(特に「隠喩」)は、語の論理形式に違反するような言語使用でありながら、ナンセンスに聞こえないからです。野矢先生は次のように述べます。


この方向で考察すべき話題はまだ数多く残されている。たとえば、いま私にぼんやりと見えているひとつの主題は「比喩」である。「山が笑う」のように言ったとき、この比喩表現を知らない人にとってはこれはただのナンセンスでしかない。「山」も「笑う」も知っている。しかし、その組み合わせを許すような論理形式はまだ知らない。そこでたとえばある人と浅い春の日を歩いているとき、その人が「山笑うって感じだなあ」などと口走ったとしよう。そのときそこに、何か未知の意味があると思うだろう。そしてそれが無効に見えている山の、まだ白っぽい緑のうぶな情景を表すのだと知るとき、「笑う」としか形容しようがない山の表情が論理空間の中に新たに組み込まれることになる。この比喩は歳時記にも載っている定型表現であり、いわゆる「死んだ比喩」であるが、ひとはときにまったく新しい比喩を使う。それは数学の問題がそうであるように、「私に意味を与えてみよ」という挑戦として、聞き手の前に現れる。そうして新たな比喩は、論理空間の外にいる意味の他者の声となるのである。(319-320ページ)


このように私たちの既知の論理形式に違反するような言語使用は、前期ウィトゲンシュタインにとっては(確証はありませんが)「語り得ぬもの」だったのかもしれません。だからウィトゲンシュタインなら、私たちは「沈黙せねばならない」と宣言するかもしれません。


7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。 (岩波149ページ)

7 Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.

7 Whereof one cannot speak, thereof one must be silent. (O)

7 What we cannot speak about we must pass over in silence. (P/M)


しかし、私たちの論理形式を、ひいては論理空間を揺るがすような比喩は私たちの言語生活の中で確固とした役割を果たしています。「言語の創造性」といえば、私たちは言語における統語論のrecursionのことを第一に考えますが、意味論のmetaphorも言語的な人間の創造性の源であるともいえるでしょう(このあたりと「教師の成長」の関係を、ひつじ書房の『成長する英語教師をめざして -- 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』で書きました。お読みいただけたら幸いです)。

私たちは新しい表現を、例えば比喩で作り出し、その有意味な使用において、私たちの言語使用、ひいては思考の可能性を豊かにします。野矢先生も、ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」を「語りきれぬもの」とした上で、次の言葉を本書の結びの言葉にしています。


語りきれぬものは、語り続けねばならない。(323ページ)




この虎の威を借りて、狐の私としては、このような駄文を書き連ねることの言い訳としたいと思います。


おそまつ。





















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