2012年1月4日水曜日

言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述 (草稿:HTML版)




以下は、2011年8月21日の第37会全国英語教育学会で口頭発表した研究の草稿です。授業「言語コミュニケーション力論と英語授業」の参考資料としてここに掲載します。


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言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述




広島大学 柳瀬陽介



1 序論


1.1 背景と先行研究

質的研究は、2000年代から日本の英語教育界でも認知されるようになってきたが、質的研究に関する原理的理解はまだ十分ではない(柳瀬 2011)。リフレクションやナラティブも実践としては進められているが(吉田 2009)、さらなる発展のためには原理的理解を必要とする。自己やコミュニケーションといった根源的テーマを理論的に掘り下げ、かつその理論的理解を実証的に検討しておく必要がある。

自己やコミュニケーションについては、近年の神経科学やルーマンの社会学などがそれぞれの立場から同じような理論的理解に到達しようとしている。神経科学は「自己」について、フロイトらが説明した無意識(unconsciousness)以外に、自覚や想起が不可能な非意識(non-consciousness)の領域があることを明らかにした。その非意識がなしていることは膨大なものであり、私達が「自由意志」(free-will)として想定していた意識の働きは存外に限られかつ遅延されたものであることも解明されてきた(Libet 2005, Eagleman 2011)。さらに「自己」(self)とは、認知機構(mind = consciousness, unconsciousness, non-consciousnessのすべてを含む概念)が自己言及を行うことにより生じるといった哲学的展開(Damasio 2010)も生じている。

自己言及(self-reference, Selbstreferenz)に関する哲学的展開は、20世紀前半のラッセルのパラドックスゲーテルの不完全性定理など、さらに20世紀中頃のサイバネティックスや人間の言語の最大の特徴とされる"recursion"に代表される大きな潮流だが、その潮流をコミュニケーション論に結実させたのがルーマンの社会学(ルーマン 2009, Luhmann 1998)である。(なお"self-reference"を、この論文では主に「自己言及」と訳すが、自らに"recursion"(「再帰」)するという意味では「自己回帰」「自己参照」といった訳語、自らを基盤とするという意味では「自己準拠」といった訳語も可能である。以下、「再帰」「自己回帰」「自己参照」や「自己準拠」といった語も"self-reference"の意味合いを明確にするために適宜用いる)。

ルーマンは自己組織化するシステム(オートポイエーシス・システム:後述)を理論基盤とし、コミュニケーションは、人間の意識を基盤としながらも、意識とは独立して自己組織化するコミュニケーションシステム(「社会システム(soziale System, social system)」)だとした。意識も意識システム(「心理システム(psychische System, psychic system)」)であるが、これもその基盤となる生物システム(「生命体(Organismus, organism)」)には還元できない自己組織化を示す。しかしこのような基礎理論に基づいたリフレクション・ナラティブ研究は、TESOL Q (2011, 45,3)の特集号(the special-topic issue on Narrative Research)などにも見ることができない(Barkhuizen, 2011)。基礎理論の取り込みは英語教育研究の課題である。


1.2 研究課題と意義

上記のような背景から、本論はリフレクションやナラティブを、特に自己とコミュニケーションの観点から理論的かつ実証的に解明することを目的とする。研究課題は、言語教師志望者のリフレクションとナラティブを、ルーマン社会学にならって自己観察と自己記述として捉え、その自己言及的側面を理論的に理解し、かつ実際のデータからその理論的理解の妥当性を検討することである。

本研究は、リフレクションやナラティブそのものの理論的側面に着目するという点で理論的意義を有する。さらに、リフレクションやナラティブ実践への理論的支援という実践的意義も持つ。さらに、自己やコミュニケーションという根源的テーマは、現実の言語使用をめぐる営みの基盤であり、これらの解明は、その他の英語教育研究にも深いレベルでの洞察を与えることが期待できる。

ここで本研究の免責事項を付記しておくなら、本論は研究者の主体的関与を考慮しない(あるいは否定する)いわゆる「客観的実証的研究」ではなく、そのような枠組みによって評価・批判されることを是としない。また後述するプロジェクトの教育的卓越性を示そうなどとするものではない。さらに、研究協力者のプライバシーを守るため、研究協力者の個人的分析などを避け、データIDや記述においても、万が一の個人特定を避けるため、所属講座や性別はわざとわかり難いように記述する。



2 理論的背景

ここでは主にルーマンの晩年の大作『社会の社会』(ルーマン 2009)に依拠しながら、観察・二次的観察、自己・自己言及・オートポイエーシスといった概念を整理する。

まずは観察(Beobachten, observation)である。観察を理解する際に重要なのは、自分が何かを観察するとき、観察をしている自分自身は観察対象から外れていることである。しかし観察されていないからといって、もちろん自己が不在なわけではない。自己は、自らが何かを観察している時、その観察をしているという自覚において成立している。つまり、何かが観察されているからには、それを観察している何か(=自己、Selbst, self; 主体、Subjekt, subject ― 本論では「自己」と「主体」を同義とする)があるはずだと、自らの認識が自らに回帰することにより自己(あるいは主体)が、観察によって基礎づけられるわけである。ルーマンは次のように端的に述べる。


主体として指し示されているのはひとつの実体であり、それは単に存在するということによって他のすべてのものの担い手となる云々などと考えるわけにはいかない。主体とは、認識と行為の基礎としての自己言及そのものなのである。(ルーマン 2009 1166)

Als Subjekt bezeichnet man nicht eine Substanz, die durch ihr bloßes Sein alles andere trägt, sondern Subjekt ist die Selfstreferenz selbst als Grundlage von Erkennen und Handeln. (Luhmann 1998 868)


自己とは自らが認識や行為を自覚的に重ねる度に自己回帰的に形成される。新たな認識や行為を行う度に、それらを行なっている自己が自己準拠的に生成する。それは不変・不動の機械が、インプットを内に入れアウトプットを外に出すイメージではない。機械は作動により自らが変容することはない(たとえ摩耗することはあるにせよ)。だが自己は機械と異なり、認識や行為の度ごとにその作動が自己回帰し自己そのものが変容する。変容といってもそれはランダムな変化ではなく、認識や行為に適した形での変容であるので、それは組織化と言ってもいい。さらにその組織化は自己を基盤として新たな自己を作り出すわけであるから、「自己組織化」(self-organization)「自己再生産」(self-reproduction)や「自己創出」とも呼べる。ここにおいて、システム論的に作動的閉鎖性(operational closure ―システムの作動はシステム内に閉じられているという意味―)が強調される時、「オートポイエーシス」(autopoiesis)という用語が好まれる。本論も今後この用語法に倣う。

自己をことさらに観察(自己観察)しようとするなら、私たちのオートポイエーシス性が更に顕在化する。自己は私達とは分離独立した時空に存在する実体ではないわけであるから、自己観察は私たちの行為や認識を観察することによって行うほかない。自己は、その行為や認識を改めて観察することによりようやくそれなりの形を表す。もしもともとの認識が(何か他のものの)観察ならば、この自己観察は「観察の観察」という意味で「二次的観察」(second-order observation)と呼べる。

しかし重要なことは、二次的観察も観察に過ぎず、それ独自の盲点を持つことである。二次的観察を行なっている際の自己はその観察の基底ではあるもののその観察の対象とはなっていない。三次的観察を行えば二次的観察の際の自己を観察できるだろうが、その三次的観察にも盲点がある。観察の次元を上げても観察が完璧に近づくわけではない(この理由でルーマンらは「三次的観察」といった「二次的観察」以上の高次の標記は使用しない。本論もこれに倣う)。さらに観察は多様であり多元的でもある。私たちはこれ以上の観察を要しないような最終的で客観的な観察を持ち得ない。

最終的で客観的な観察を持ち得ないということは、このオートポイエーシス的な認識論が近代以降の伝統的認識論と異なることを示している。伝統的認識論は、主体とはまったく独立し、観察されることによってもまったく変容しない客体(の存在と認識)を主張している。もちろん例えば計測機械を用いることにより、私たちは長さや重さといった観察において高い客観性を担保できる。しかし計測機械などがない観察においては、この伝統的認識論の客観性は主張しがたい。人間は観察されているとわかっただけで振る舞いを変える(「ホーソン実験」)し、観察者も被観察者に観察を自覚されたことを自覚してしまうと観察が変わる。私たちの日常的・人間的な観察において、客体も主体も変容を免れない。

とはいえ私たちは時に、ある物事が一定の形でしか観察できないと感じる。しかし、それは「客観性」を得たのではなく、ある主体が自己回帰的に観察を繰り返す中で、一種の観察パターン(「固有値」)が成立したと考えるべきであろう(ルーマン 2009 1186) 。また、自己の要素は多種多様で多く存在するわけであるから自己要素の組み合わせの総数をシステムは予め知り尽くしておくことはできない。オートポイエーシスは時に自らが驚くような自己を産出する。



3 データ収集方法

概要:データは、ある教育学系の大学院で英語、国語、もしくは(第二言語としての)日本語を専攻する修士課程1年生を対象に行われた「プロジェクト」の活動を通じて収集された。プロジェクトの説明を聞いた上で筆者の活動グループへの帰属を希望した14名は、匿名化されたデータ公開に改めて同意し、プロジェクトに正式参加した。プロジェクトの第一目的は「私はなぜここにいるのか」というテーマで、自分が言語教師を目指すに至った経緯を想起(自己観察)し、それを書く(自己記述)することである。これは参加者の学究生活充実のために設定された。同時にプロジェクトは第二目的をもち、これが本論での研究となった。第二目的は、第一目的での自己観察・記述を重ねる中で気づいたことをまとめること、つまりは二次的観察・記述であった。記述は参加者だけがアクセスできるWebCTシステムにすべて蓄積された。日本語を母国語としない者も複数いたが、その参加者もすべて日本語で記述した。

期間:2011年5月から7月にかけての8週間。活動をするのは1週間に一度の90分の授業と、授業外でのWebCTシステムへの書き込みであった。

(1)第1期の5週間は書記言語活動であり、(1a)授業の大半を使っての自らの学習履歴の想起と記述(自己観察・記述)、(1b)授業最後の10-15分を使ってその日の自己観察・記述を振り返りそのことについて書く(二次的自己観察・記述)、(1c)授業外の時間に他の院生の学習履歴記述を読んで気づいたことを書く(他人の自己観察・記述の二次的観察・記述)こと、が5週間(つまりは5回)繰り返された。

(2)第2期の3週間は音声言語活動であり、14名がランダムに3グループに分けられ、そのグループで第1期に気づいたことを話し合った。具体的には(2a)授業の大半を使ってのグループ討議、(2b)授業最後の10-15分を使ってその日の討議を振り返り気づきを記述、(2c)授業外の時間に他の院生の書き込みを読んで気づいたことを書くこと、が3週間(つまりは3回)繰り返された。

方針:以下の方針が最初に説明され折に触れ再確認された。(i)自分が書く話は結論づけなくてよい:いわゆる「いい話」にまとめなくてよい。(ii)完成品は求めない:記述は未完成のままでもよいし、文体上の統一なども求めない。(iii)規範的な判断はしない:教師も含めて誰も書かれた内容に関して道徳的な批判をしない。(iv)いかなる強制もしない:書きたくないことは書かなくてよいし、何か書きたくないことがあるということも書かなくてよい。(v)プライバシーに留意:WebCTシステムの範囲とはいえ書かれたものは他人に読まれるので、関係者のプライバシー侵害には十分気をつける。

理論的導入:本プロジェクトの第一目的はともかく、第二目的は趣旨を理解しにくいとも思われたので以下の理論的解説を行った。(ア)ルーマンのオートポイエーシス論(筆者のグループ帰属が決まる前の合同説明会で20分)。(イ)神経科学の意識論(第1期初回の15分)、(ウ)ユングのタイプ論(第1期初回の15分)、(エ)村上春樹の自己記述に関するエッセイ(第1期初回の10分)。(ア)と(イ)は本論で説明した趣旨であり、(ウ)は観察の先入観について、(エ)は自己を抽象的・客体的に取り出すことの困難について説明したものであった。

データ整理:以下の過程でデータを整理した。(A)基本データの確保:WebCTシステムに残されたすべての文章(約16万文字)を電子ファイルにコピー。(B)一次抽出:基本データから理論的に興味深いと思われた表現を抽出(約3万7千文字。基本データの23%)ただし導入した理論に反することや、それに関係ないことも排除しない。(C)二次抽出:一次抽出データを読み直し分類化してさらにデータを絞る(約2万4千文字。基本データの15%)。(D)分類化された二次抽出データをさらに何度も読み直し、口頭発表・論文執筆の際に参照するデータを精選する。データには、順番に、ランダム化した個人番号(2桁のアラビア数字)・日本語が第一言語(F)か第二言語(S)かの区別・書かれた日付(4桁のアラビア数字)が記号化して付与されデータIDが付けられた。つまりデータIDは7桁の英数字である。だが、記述の簡素化のため、以下しばしば冒頭の2桁数字だけを参加者を示すために用いる。



4 データ解釈


4.1 意識のオートポイエーシス性

自己観察と自己の固有値:当然のことながらこのようなプロジェクトでは自己観察が促進されるが、興味深いのは最近のこと(学部時代)のことは書きにくく、昔のことの方が書きやすいことである(12F0603)。自己観察・記述が単なる記憶の再生なら、最近のことについての方が書きやすいはずであるが、実際はその逆であることは、自己観察・記述(のパターン)は、年月を重ねて徐々に重層的に形成されるものであることを裏付けている。

そのような重層的な自己観察・記述は、自己回帰的でもあり、それゆえ時に「固有値」に収束していることも裏付けられた。例えば06F0520は、自分が普段から自分についてよく考え「私」像を強く一定の形で形成しているので、本プロジェクトのような特別な機会ではその枠組に入らない自己観察・記述を自分が拒んでいるかもしれないとする。だがその枠組からの解放も可能で、同じ06は約一ヶ月後の感想で自分の人生を書けなかった理由を書いている(06F0616)(しかしこの記述をするためには一ヶ月のコミュニケーションが必要であったとも言える)。また別の、あるべき自己像を強くもっていると述懐していた13も、プロジェクト終盤にかけて、たくさんの『自分』を対象化できたのがよかったと述べ、唯一であるべき自己から解放されたとする(13F0630)。またこういったパターンは他人にも観察されることが「他人の目を気にしながらもやはり『記述にその人らしさが出る』」(10K0623)などからもうかがえた。

意識の自己準拠・回帰・参照的創出:04S0609は明確に「自分の歴史は自分で作っているように強く思う」と言い切る。しかしその「作る」とは同時に「記憶が当てにならないこと」の自覚を伴ったものであり、この04は後に自己観察・記述が「素顔」であるという気持ちと、「薄化粧」だという気持ちの両方が自分の中にあると述べている(04S0616)。このことから「自分で作っている自分の歴史」も、単一的な意思による単純な作成ではないことがわかる。この自己の不確定性は08F0610の「いろんな考えが思い浮かびはしたが、どれが本当のそのときの自分の気持ちなのか、全く分からなかった」という発言、あるいは09F0616の「自分の過去の事実は変わらないが、思い出すそのときの状況で過去から受ける印象や細部の有無が変わっており、その記述も変わる」といった発言でも確認できる。とはいえ自己観察・記述は、まったくの恣意でないことは、11S0502が自分について「どうしてこうなったか学習履歴を振り返って原因を探し出したい」と自己観察・記述を信頼していることからも伺える。

意識と書記言語:言語発話とは単なる意識の直接反映ではなく、また音声言語と違い、書記言語によって表現されることによってはじめて明らかにされる意識のあり方もあることが今回のデータから明らかになった。

まず挙げられるのは、書記言語を使用することにより、断片的な意識や思考がまとめられ対象化されて、自己意識が明確になることである。10F0513は「思考がそのままパソコンの画面に出たらいいのにとも思うが、書き言葉として、自分の考えを表出することも自分のことを振り返るために重要」とも述べる。さらに直截的には、13F0603は「履歴として羅列をすると、量(頻度)が目で把握できる」ため普段の生活では意識に上がりづらいネガティブなことに気づくことができるとする。

こうした対象化に促されて思考がはっきりするし、思ってもみなかったことが出てくることは、10F0513や05F0609の発言にも伺われた。これらは、書記言語を媒介にして自己から出てきた自己観察・記述が、さらに素材となり次の自己観察・記述を招くというオートポイエーシスが生じていることを示唆している。この事態を、11F0603は「一時的に何を書けばいいのか分からなくても、とりあえず書く、そのうちに何を書きたいかだんだん分かるようになる」と表現し、01F0708は「言語化することで、その時の感情が改めて思い出され、実はそうだったのかという気づきが多く出てきました」と表現する。

そうしてオートポイエーシスによって生じた自己記述は、自分で予期しなかったものとなることもある。09F0513は「最初は自分の思うままに書き始め、その時その時の自分の考えを書いているが、読み直して整合性がなかったら修正を加える」と述べる。09はさらに「何度も読み直したり推敲したりしたにもかかわらず(むしろそのせいで)、後から読んでみると自分の感じていたことと異なっていることがあるというのが、なかなか興味深かった」(09F0623)と述懐する。自己観察・記述は最終的な完結を迎えることもなく、「自己」とはどこかぼんやりと把握できるにすぎないものである。08F0708はこう発言する―「思考していた時の自分の思いと、最終的に文章化されたものと見比べたときの、あらゆる変化や、ただ頭の中だけで考えても分からない、自分自身の性質のようなものを発見することができた」。自己観察・記述は、(書記)言語が固有のメディアとして働くことにより生じるものであり、言語は意識の状態をそのまま表現する透明な媒体などではない。


4.2 言語のメディア的特徴

ここでは特に意識、コミュニケーションといったシステムの違いにかかわらず成立していると思われる言語のメディア的特性について述べる。

メモ言語とコミュニケーション書記言語:自分自身のためのメモとして書かれる言語と、書面のみで他人に意味を伝えるコミュニケーション用の書記言語は、同じ「書記言語」であっても、実質はかなり異なる。その違いは「どう書けば読み手が理解してもらうか、或は理解しやすいか」(03S0602)、「文章に直すことで更に、『他人に読みやすいものを』との意識が更に高まる」(13F0602)、ひいては「『うまく書こう』とか『表現を整えよう』という心理が働き、思ったことをそのまま書くことはできなかったように思う」(14F0527)といった述懐に見られる。

音声言語と書記言語の違い:音声言語は書記言語に比べて産出の労力が少なく、かつ話者と聴者が同一の時空を共有し表情などのパラ言語的表現を間近に観察できているため、メタメッセージ ―例えば「このメッセージを冗談として理解せよ」と示す笑顔など― が明確であり、信頼関係が醸成されやすい。そういった特性から「私自身は文字で書けなかったことが正直に話せました」。(04S0630)といった発言なども見られた。また簡単にできる質問といった相互作用により、書記言語では理解しがたかった点も理解できたというのは(07F0623)の述懐である。

他方、言語の産出の労力が大きくかつ言語が対象化されそのまま半永久的に残る書記言語においては、書き手は慎重に思考し分析的になる。12F0624は「その場で消えていく話し言葉と、後に残る書き言葉では、その重みが全く違うように思いました」と述べる。書記言語のほうが思考に適していることについては、03S0630は「言語化しないと、意識が明確にならないこともあります。だから、何かを考える際に、考えるだけだったらめちゃくちゃになる可能性があるので、書いたほうがわかりやすいかもしれません」と述べ、04S0609は「書くことと考えることは同時に起こっているような気がする。書いているうちに考えが浮かんできて、それらを整理し、まとめていくことができる」とした。

第二言語性:日本語を第二言語とする参加者は、端的な困難(04S0603)、ニュアンスが表せない苦労(03S0603および04S0630)、自分が書いたものが小学生が書いたものに見えるかもしれないといった不安(03S0526)、異文化を伝えることの苦労(04S0630)などをやはり感じていた。さらにジャンル習得から来る困難もあった。04は、「論文やレポートなどの学術的な書類の書き方と違って、学習歴は自分の体験や日頃感じたこと、考えていることを書くという創作的な(小説を書くような)書く作業なので、外国語でどこまで自分の心情をありのままに、的確に表現することができるのか、一種の無力感さえ覚えました」(04S0630)と述懐した。

ただ言語教育指導の点で興味深かったのは、このプロジェクトでは言語正用・誤用について一切の介入も行われなかったのにもかかわらず、第二言語参加者は、言語的判断から解放されて書くことの楽しさを表明するだけでなく(11S0527)、正確性を逆に追求するようになったことである。04S0708は「外国語としての日本語で書く作業では、意味がだいたい通じればそれでいいというのではなく、できるだけ正確な日本語で書くように、自分の中で強く思いました。速くて多くのことを書くよりも、内容が少なくなっても正確に書くように注意を向けていました」と述懐した。


4.3 コミュニケーションのオートポイエーシス性

 オートポイエーシスは、コミュニケーションという集団のレベルでも観察される。とはいえ、本研究の主要データは、あくまでも参加者個人による書記言語報告であり、第2期の音声言語での討議も録音していないことを予め断っておく。
 
 異なる人々が集まってのコミュニケーションでは、個々人のコミュニケーション・スタイルの違いが当然のことながら問題になる。自己開示に対しては「怖い」「困った」と感じる者から、「気にしていなかった」「そんなことは忘れていた」と述懐する者など様々であった。しかし自己開示に消極的であった参加者も「私だったら、これを人に知って欲しくないので書きたくないだろうと思うことを、受講生の方が書き出されたのを見て、心の底から『勇気あるな~』と思って、感動しました」(04S0616)と感じ、「お互いの書き込みを何度も読むことによって、知らずに信頼関係が築けているようにも思います。書き言葉の重みも感じています」(04S0623)と述懐するなど、プロジェクトのコミュニケーションが、新たなコミュニケーション・スタイルに自己組織化していったことが示唆される。
 
 しかしコミュニケーションの自己組織化は、個々人それぞれに異なる影響を与える。08F0623の総括によれば、影響は内容面での影響、文体・表現の面での影響の二つに大別できる。内容面については、02F0616は「ほかの人の書いたものを読んで,面白いなあと思った部分も自分の“人生”の中で必死に探しました。人に喜ばせる,面白いと思わせる内容を書きたい」と正直に述懐した。文体・表現面については、表層的には前に述べたメモ言語からコミュニケーション書記言語への転換で述べたようなことが見られるが、深層については13が次のように総括する。
 
書く際の意識に関わらず、どこかで他者の目を気にした文章になっていたり、書く時点での自分の状況が求めるようなつながりになっていることは、ほとんどの人に共通するところだと改めて感じた。しかし、逆に言えば、こういった感想を書く際も、自分の中にある真の考え等とは別にした、よそいきの感想を書いているのかなとも感じた。(13F0623)


 しかし集団でのコミュニケーションが個人の意識に影響を与えるというのは、「本当の自分」を阻害するといった否定的な意味合いで捉えられるというより ― そもそも本論は「本当の自分」といったものに疑いの目をもっている ―、コミュニケーションとは、他人の見方を先取した表現方法を学ぶということなのかもしれない。
 
「他の人」「見ている人」を意識して書くようになってきていると思いました。何回も「書く」「他の人のを読む」を繰り返していくうちに、自分も含めた「読み手」の特性のようなものを理解して、それを意識した書き方になっているのではないかと思いました。(09F0616)


 コミュニケーション、特に書き話すことは個人では学べないと言えるかもしれない。



5 結論

 理論的に確認された自己観察と自己記述の自己言及的側面(オートポイエーシス性)は、今回のデータにより、意識レベルでもコミュニケーションレベルでも見られた。
 
 個々人の意識は、自己参照・自己準拠的に重ね書きされるものであり、自己回帰が過ぎると時に固有の自己観察・記述パターンに収束する。だが、そのパターンも書記言語によって記述されるならば新たな二次的観察の対象となり意識化され、そこからの解放も可能である。集団でのコミュニケーションも、個々人は集団でのコミュニケーションのあり方に大きく影響を受け、いわば、誰から・どこからということもなく、コミュニケーション自体が自己準拠的・自己組織的に展開する。
 
 意識とコミュニケーションの両方において言語は大きな役割を担う。音声言語と書記言語はそれぞれのやり方で意識とコミュニケーションそれぞれの形成に関与する。書記言語は特にメモ言語なのかコミュニケーション書記言語なのかで大きくあり方が変わる。加えて第二言語で書く際には、言語的困難・ジャンル習得の問題があるものの、互いにできるだけ正確に内容を理解し合いたいという動機があれば、外的な強制や介入はなくとも自然と正確な言語使用に向かっていく例も観察された。
 
 オートポイエーシスは、言うまでもなく「自己」を基盤としたものである。言語使用を、意識の十分な開拓およびコミュニケーションの十分な展開に基づくものとしようとするなら、言語使用における「自己」は重要である。だがこれは、特段に自分のことばかりを述べることを意味しない。観察・記述のオートポイエーシス性からするならば、狭義の「自分」以外の他のものの観察・記述も、「自己」の表現である。しかしこれまでの外国語教育では、ともすれば正用法・模範例文に即すること(典型的にはそれらを暗記すること)ばかりが強調され、言語表現と「自己」の関わりが軽視されがちであった。学習する外国語使用も、あくまでも一人一人の学習者がそれまでに培ってきた感情・思考、そしてそれらの表現媒体である言語(母語およびそれまで習った第二言語)に根付いたものでなければ、外国語は体得しがたいといえるだろう。
 
 意識とコミュニケーションは言語使用(および言語使用の学習)によって共進化する。ならば言語教育は、(それが単に言語形式の教育を行っている以外の時には)、意識システムとコミュニケーションシステムそれぞれの自己言及、および両者の接続を促さなければならない。つまり言語を言語のみとして教えるのではなく、言語を、自己意識を育て集団のコミュニケーションを構成するメディアとして改めて位置づけなければならない(この当たり前のことを認識しなければならないことが外国語教育の問題点の一つである)。
 
 この研究に対する考えられる反論について予め応えておく。反論の一つは、この研究では研究者の理論的バイアスがかかっている、というものである。それに対する応答は端的には「その通り。しかし『客観的』な実験研究でもその仮説に従った観察しかできない」となろう。いかなる研究とて理論的バイアスを持つ。測定の方法がいかに「客観的」なものであれ、測定の項目はその研究が採択する理論の傾向によって決まらざるを得ないからである。
 
 考えられるもう一つの反論は、研究者の権力性が今回のデータを引き出した、というものである。これに対しては、研究における教師と学生の権力関係を否定はしないものの、8週間にわたって14人の大学院生の全発言をコントロールすることは困難と応答する。本論ではページ数の関係で、ごくごく一部しか示していないが、数多くのデータが多種多様な形で理論を裏付けている。これらのデータすべてが教師の権力性によって生み出されたとするのは考えすぎであろう。
 
 今後の課題について述べるなら、意識・言語・コミュニケーションの関連は、言語教育の核でもあるので、より理論的な研究が必要であろう。同時に、歴史研究に比するべき、ある教師もしくは教師共同体に関する、より個性記述的な研究も必要であるし、そのような理論的・実証的研究に裏付けられた、教師リフレクション・ナラティブの支援も英語教育研究の課題の一つである。



参考文献

Barkhuizen, G. (2011) Narrative knowledging in TESOL. TESOL Quarterly, 45, 3. doi: 10.5054/tq.2011.261888

Damasio, A. (2010). Self comes to mind: Constructing the conscious brain. New
York: Pantheon.

Eagleman, D. (2011). Incognito: The secret lives of the brain. New York: Pantheon.

Libet, B. (2005). Mind time: The temporal factor in consciousness. New York: Harvard University Press.

Luhmann, N. (1998). Die Gesellshaft der Gesellschaft. Berlin: Suhrkamp Verlag.

柳瀬陽介(2011).「意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察」『中国地区英語教育学会研究紀要』41.77-86.

吉田達弘他(2009).『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』東京:ひつじ書房.

ルーマン、N.著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009).『社会の社会 1・ 2』東京:法政大学出版局.


謝辞: 今回の研究は、参加者の理解と協力なしには成り立たなかった。参加者の誠意と熱意に改めて感謝する。また本研究は科研「第二言語教育に特化した教師ナラティブ研究の理論的・実証的展開」(課題番号21520577)の一部である。科研の研究支援にも感謝する。





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