以下は、そのワークショップで私が聞いた平田先生の言葉を、私がワークショップで体験したこと、およびこれまで考え感じてきたことをもとにまとめたものです。
■演劇と言語教育の深い関係
言語教育関係者の集まりで、演劇の話題を出すと、「なぜそんな関係のない(あるいは薄い)話題を取り上げるのですか」といった冷たい反応を受けることがいまだに多いです。実際、数年前に私のゼミ生(演劇経験者)がスタニスラフスキーの演劇論を取り上げた時、周りからは「英語教育との関係は」と聞かれるだけでなく「学習指導要領のどこにそんなことが関連しているというのですか」などと聞かれて議論の中味の方についてはあまり話を聞いてくれないので、そのゼミ生も私も閉口した覚えがあります。(学習指導要領は、その時々の国の教育方針を共有する文書として尊重されるべきですが、その枠組や用語でしか物事を考えないことは言動の教条性・頑なさにもつながりかねないので注意すべきだと私は考えています)。 ―― ちなみに日本語教育界は国際学会でも平田先生を招待したりするなど、積極的に日本語教育の理解を豊かにしようとしているそうです。また平田先生も日本語教育だけでなく国語教育でもご活躍されているとのことです。英語教育界も、もう少し、頭を柔らかくしましょう!――
ともあれ、演劇に関して、多くの言語教育関係者は(あるいは一般市民は)、「何か特別なこと」と思っているふしがあります。「わざとらしい」「そんな演技をするな」という非難は、ひょっとすると演劇に関するあまりよくない含意を暗示しているのかもしれません。
しかし、平田先生がおっしゃった演劇・演技論を、私なりに言い換えて表現しますと、演劇とは、「自分とは異なる役の中にほんの僅かでもいいから自分の心身のあり方との共通点を見出し、そこからその役の心身を自分の心身で体現しようとする中で、自分の心身の新たな可能性を見つけること」となるかと思います。つまり言葉(戯曲)を通じての自己発見・自己開拓であり、これは文学を読むことの身体性をさらに発展させたもととして解釈できます。そう解釈すると、演劇・演技は決して特別なことではありません。なぜなら私たちは身体を媒体とせずには言語使用ができず、言語使用の可能性は(戯曲や小説などの)文学によっておそらくは最も豊かに広がり深まり展開するからです。
演技を、通念が考えるように「何か、一般に『それっぽい』とされている言動を、意識的に再現する」のではなく、平田先生は自分の人格と戯曲の役柄の共有部分から少しずつ自分の領域を開拓してゆくことと捉え、その展開を
「SympathyからEmpathyへ」
と表現されました。平田先生によれば、このうまい翻訳はなかなかないそうですが(平田先生はある翻訳表現を口にされたのですが、私はそれを失念してしまいました)、上記の意味でのこの表現を、私のいつもの悪乗りで自分なりの造語で翻訳するなら、
「覚感から体感へ」
ともなりましょうか。「なるほど、こんなところは私もあるかもしれない」と覚知する共通点を、自分の体でも十分に感じることができるようにするからです。
さらに悪乗りして脱線しますと、この演劇という人工的に新たな自分を創りだそうとする試みは、「人間にとっての自然」とすら言えるかもしれません。
「人間にとっての自然」とは武術家の甲野善紀先生がよく使われる言葉で、私が最近再読した『剣の精神誌―無住心剣術の系譜と思想』 (ちくま学芸文庫)の最後でもこの論点が取り上げられておりました。
さらに悪乗りして脱線しますと、この演劇という人工的に新たな自分を創りだそうとする試みは、「人間にとっての自然」とすら言えるかもしれません。
「人間にとっての自然」とは武術家の甲野善紀先生がよく使われる言葉で、私が最近再読した『剣の精神誌―無住心剣術の系譜と思想』 (ちくま学芸文庫)の最後でもこの論点が取り上げられておりました。
私たちはしばしば老荘思想的な「無為自然」を口にし、それをもって問題の解決にすべしと言いますが、私達にとって「無為自然」は果たして達成可能なこと(あるいは容易なこと)なのかと甲野先生は問いかけます。なぜなら私達人間は意識をもち言語をもち、さらにはその意識と言語をさまざまなテクノロジーで増大・増幅させるという一種の「業」をもっているからです。人間がこの「業」から離れることができないのなら、人間はもはや無垢の自然を求めることはできないわけです。それならば、業をもったままの「人間にとっての自然」あるいは「有為自然」を探究・開拓すべきなのではないかというのが(私の理解する限りでの)甲野先生のお考えです。
「人間にとっての自然」や「有為自然」という表現は、形容矛盾 (oxymoron) のように聞こえるかもしれませんが、本能でほとんどの行動が決定される他の動物と違って、人間は本能以外の文化で多くの行動を決める「自由」をもっていますから、これらの表現は人間にとってまさに本質的な課題を述べていると思えます。
話を演劇に戻しますと、演劇とは日常生活にはない戯曲という人工物をもってきて、そこに書かれてある他人の言葉を理解し身体化しようとする中で、新しい自分という自然 ―新たに獲得したが自在に使いこなせる心身― を得るという、「有為による自然」をつくりだす試み、「人間にとっての自然」を得る文化と言えるかもしれません。
■脚本を身体化するということ
平田先生のワークショップの中では、短い脚本を実際に演じてもらう箇所もありました。
ここで改めて演劇が言語教育・英語教育と無関係でないことを強調しますと、いわゆる「会話文」が多い中学校の英語教科書など、脚本ばかりの教科書と言えるかもしれません。ただ英語教科書の会話文は、(外国語という制限もあって)脚本というほどには言葉が練り上げられておらず、(挿絵は時々あるものの)ト書きのようにメタ言語的情報を提供する手段も十分ではありませんから、英語教科書を一種の「脚本集」と呼ぶにはためらいがあるでしょう。
ですから多くの英語教師は、残念ながら教科書を「標準的な発音」で機械的に音読するだけ(あるいは「発音」はCD録音かALTに委託するだけ)になっていますが、例えば佐藤綾子(さとう・りょうこ)先生などの、自然な感性を英語授業でも活かすことができる先生は、「正しく」「標準的」だけれども人格的な意味が伝わってこない音読を超えて、自然な(わざとらしくない)朗読を目指しています。英語教育の改善のためには、どの英語教師もこのような朗読ができるようにすべきでしょうから、英語教育にとって脚本をどう身体化するかという演劇の課題は決して無縁なものではありません。
平田先生は脚本の話し言葉を取り上げて、「話し言葉には書き言葉以上に個性が表れる」とおっしゃいます。書き言葉というのは、もともと人工的に作られて人工的に維持改良されている標準的な言語規範ですが、自然な話し言葉というのは個性にみちたものです。その個性を声で表現するためには、脚本の登場人物がどんな人間なのかというイメージや登場人物がおかれているコンテクストをありありと思い描かなければなりません。さらにはそのコンテクストの中にいる登場人物の内に入り込むように想像力を働かせなければならないでしょう。
ワークショップで使った脚本は、偶然同じ列車に乗り合わせた三人(二人組と一人)の短い脚本であり、この中でも「旅行ですか?」という何の変哲もない一行をどう表現するかを焦点として解説がありました。これに似た試みは英語教育でも「この"Oh!"をどう読むか」という実践などに見られます。だとしたら英語教育関係者は、こういった試みの大先達である演劇関係者の言うことにもっと謙虚に素直に耳を傾けましょう。 ―― 本や論文のタイトルに「英語教育」という言葉がついていないと読みもしないという偏見はいいかげんに捨てましょうね。「忙しくて他の分野のものまで読めない」のなら、「英語教育」とは名がついてもくだらない本や論文を見極めてそれらを読まないことによって時間を作り出して、積極的に他の分野に学びましょうね。そもそも「英語教育研究」なんて盤石の体制があるわけでなく、私達の試行錯誤で進化させてゆくものだから、あまり教条的にならないようにしましょうね ――。
■英語授業でも使える活動例
ワークショップの中ではいくつかの活動を経験しましたが、その中でも互いの趣味を知りあう活動は面白かったです。
それは「あなたの趣味は何ですか」「サッカーが好きです」「そうですか、さようなら」といった身も蓋もないものではありません。(こんな活動はしばしば英語授業では見られますが・・・)
参加者は一枚ずつカードを引きますが、そこには1から50までの番号が書かれています。その番号で、参加者は番号を決めなければなりません。1が最もおとなしい趣味で、50が最も活発な趣味です。もちろんこの趣味は自分の本当の趣味である必要はありません。むしろ自分の数字の程度に合わせて趣味を考えつき、それを自分の趣味として活動に参加するべきでしょう。
参加者は次々に一人ずつ相手を見つけ、互いの趣味について語り始めます(三人で話しあうことぐらいまでは許されますが、あまり大人数で話すことは禁止です)。互いに話す時には、数字以外は何を言ってもかまいません。たとえば自分の趣味をサッカーと決めたら、自分は「サッカーをプレーするのが好き」でも「サッカーについてYouTubeで動画を見るのが好き」でも何でも自由に語ります。
大切なのはその人の「つもりになって」語ることです。自分の数字が小さいならおとなしく、大きいなら活発にと、自分の数字に応じて趣味を決め、その人らしく語ります。
語りながら参加者は相手の数字を推定します。活動はゲーム形式になっており、自分と近い数字の人間を見つけたと思ったら(互いに数字を言い合うことなく)そこで座ります。一度座ったらもう立ち上がって他の人と話すことは許されません。座った二人の数字の差が一番小さいペアが優勝です。差が一番大きいと最下位ということになります。自分と同じようなおとなしさ・活発さを、他人の話の内容と話し方から推定しなければならないのです。あまり早く決断して座ってしまうと二人の数字の差が大きすぎるかもしれません。かといってあまり決断に時間を取っていると、立っている人間自体が少なくなりますから、これまた数字の差の大きな人間とペアにならざるをえなくなるかもしれません。
この活動は、自分が話す内容と話し方を吟味し、同時に相手の話す内容と話し方に注目しなければなりませんから非常に面白いものでした。工夫次第では英語授業でも使えるのではないかと思い、ここで紹介させていただきました。(活動は他にもありましたが、あまり平田先生のアイデアをこんなブログで紹介するのもマナー違反かと思いますので、この紹介だけに留めておきます)。
ちなみにこの活動で私はなんと「1」を引き当てました。ですから私は「線香の火を見つめるのが好きです」とボソボソと言い続けました(笑)。―― これって、結構自分の潜在的可能性かもしれない(爆)――。
■コミュニケーションの関係性と場に注目
活動に続くお話では、コミュニケーションの関係性と場を重視する90年代以降のコミュニケーション教育についてのお話がありました。
例えばあなたが母親だとします。小学校1年生の子どもが息せき切って帰ってきて「ねぇねぇ、お母さん、今日ね、ボク宿題しなかったの。でもね、○○先生は怒んなかったよ!」と笑顔で伝えてきた場合、あなたはどう応答するでしょうか。
「駄目じゃない、宿題やらないと」とあなたが言うなら、子どもはきょとんとするかもしれない、と平田先生は言います。もちろん、子どもがきょとんとすると、あなたはそれを理解できないかもしれません。それは言語的には子どもは弱者であり、あなたは強者だからです。
言語的強者は、もっぱら文字通りの意味だけで自分が言いたいことを表現する術をものにしています(書き言葉による表現がその典型例です)。しかし言語的弱者は、そのような言語表現力はもっておらず、コンテクストや非言語的情報(この場合なら「息せき切って近づいてきての笑顔」など)に大きく依存しなければ自分を表現できません。
近代社会というのは、言説(=言語使用の重層)によって権力が生成・維持される社会だというのは、フーコーやアレントなどが言うとおりかと思いますが、言説権力での弱者とは、言語で自律的な表現ができず、場の力を借りざるを得ないがゆえに言説を十分に操れずに弱い立場に置かれ続ける人々のことかと思います。例えば、学習・健康・若さなどで、弱者とならざるを得ない子ども・患者・要介護者は、自分の言葉で自分の立場を十分に表現できません。
これら言語的弱者を人間としてきちんと理解するためには、言語的強者は、弱者の発言の背後(あるいは足下)にある場・コンテクストを理解することが必要です。以前私は、言語になりきれていない弱者の声を拾い上げることの重要性を、内田樹先生の議論を通じてデイヴィドソンの論と関連性理論を比較しながら「言語使用の倫理?」という小文を書いたことがありますが、平田先生のおっしゃったこともこのような問題意識に重なるのかと思います。
もし言語的強者が、言語的弱者の文字通りの意味しか捉えようとしなかったら、その不理解から、弱者はますますコミュニケーション能力の不全を示すでしょう。そうしてコミュニケーションの機会を失えば、弱者はますますコミュニケーションというまたとない言語の学びの機会を失ってゆきます。言語的強者は、弱者の言語コミュニケーション力を育むべきであり、それを損なうべきではありません。
コミュニケーション能力論で言うなら、コミュニケーション能力は純粋な個人内能力ではないことを再度強調しなければなりません。しかし、詳しくは『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』でまとめましたが、言語学・応用言語学のコミュニケーション能力論のほとんどはもっぱら個人の枠組みでしかコミュニケーション能力を捉えていませんので、注意が必要です。(個人主義的コミュニケーションから相互作用的コミュニケーション、社会的コミュニケーションと考察の領域を広げるのは私の研究課題の一つですが、現時点での一般読者向けのわかりやすい記述としましては、大津由紀雄編(2009)『危機に立つ日本の英語教育』所収の小論をご参照いただければ幸いです)。
コミュニケーション能力の発現は、そのコミュニケーションの場と関係性に大きく影響されることは無視できません。もしあなたが言語強者の間での言語使用にしか従事していないなら、その重要性には気づかないかもしれませんが、例えば「べてるの家」の記録などを読みますと、コミュニケーションの場と関係性を育てることがどれだけ大切なことかがよくわかります。言語的強者、特に言語的弱者を育てる社会的責務を負う言語教師は、コミュニケーションの「場」、およびその場に共存する人間の「関係性」を大切にしなければと思わされます。
平田先生が所属する
は、人間が日常生活の中では深く深く知っているが、これまでの学術研究では等閑視されてきた「新しい」観点からコミュニケーションを研究しているそうです。キーワードの一つとして、単純な一方向の因果関係だけに注目しない「複雑系」の考えを込めた意味での「コミュニケーションデザイン」を掲げているそうです。このセンターの活動にも注目したいと思います。
追記 (2012/01/17)
上の文章を書いて一息ついたら、仮に強者と同じだけの言語力をもっていても、他の(非言語的な)意味で弱い立場にあったら、その人は直接に文字通りの意味でメッセージを伝えない傾向にあることに(改めて)気づきました。つまり言語力の有無を問わず、弱者は直接的なメッセージを避ける傾向にあるということです。なぜならば直接的なメッセージならば、それを否定された場合のダメージが大きいからです。
考えてみれば、語用論でもこのようなことは標準的な説として教えていました。以下は、Pragmaticsの66ページの表を改変したものですが、弱者は上の表現を好みます。下の表現になればなるほど弱者は言いにくいものです。
1 Say nothing
2 Say something2.1 Off record
2.2 On record2.2.1 Face saving act2.2.1.1 Negative politeness2.2.2 Bald on record
2.2.1.2 Positive politeness
1は、何も言わずに「察してくれる」ことを期待しつつ、思わせぶりな態度を(さりげなく)行うことです。
2になりますと、言語を使いますが、2.1でしたら、あたかも独り言を言ったように(つまりは相手に直接話したとは思われないようなやり方で)語ります。
2.2では直接相手に話しかけているという話者の意図が、相手に明確に伝わるようなやり方で発現しますが、2.2.1では相手のメンツを潰さないような言い方をします。
2.2.1.1でしたら相手の自律性や自由を損なわないように控えめに発言します。2.2.1.2でしたら、相手と自分の間の連帯感に訴えかけて発言します(それだけに相手に「お前なんか仲間ではないよ」などと態度や言語で示されたらダメージを負います)。
2.2.2がもっとも直接的で、あからさまにメッセージだけを伝えます。
具体例は省略しますが、むしろ何かの例に即して、自分でそれぞれの項目の例文を考えてみると面白いかと思います。
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