2012年1月14日土曜日

介護、武術、そして教育




「英語教育」という看板を掲げながら、武術ヲタのような話ばかりをするこのブログに愛想をつかしかけている方もいらっしゃるでしょうが、そんな方にトドメをさすために本日は介護の話をします(笑)。

というより、本日読んだ医学書院の「かんかん! 看護師のためのwebマガジン」の記事があまりに素晴らしかったので以下に紹介する次第です。

教室や学校における身体のあり方の重要性をすでに痛感されている方は、そのまま原文を読んだほうがいいかもしれません。



「介護されるプロ」、古武術介護を体験する
http://igs-kankan.com/article/2012/01/000540/



以下は、ほんの少しだけ身体について考え始めた私が私なりにまとめたものです。私は、近代競技スポーツの一種となってしまった「スポーツ武道」ではない、昔からの武術を教えていただく中で身体の重要性をようやく自分の身体で実感できるようになりました(このわずかの実感さえなかった以前の私ってどんな心身だったんだろう。まあガチガチの我意マシーンだったのだろうなぁ。離婚もするしうつ病も患うわけだw)。

私は武術を学ぶ中で、身体が緊張するとは何か、「力む」とは何か、「力みを捨てる」とは何かなどということを考え続けています。これらの理解により、力みのない身体(ひいては心身)とならないと、武術の技などできないからです。

そのような問題意識を持つ私には、生まれつきの脳性まひという障害で「起床から身支度、排泄、入浴に至るまで、生活全般において他者の物理的な手助けを必要として」おり、かつ「極度に緊張しやすい」熊谷晋一郎氏の、自分自身の「緊張」の現象を記述した文章は、非常に勉強になりました。



■「緊張」の三側面

熊谷氏は「緊張」という現象を、「自明だった動きパターンの崩壊」、「動きの自由度の減少」、「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」の三側面から説明します。



■「自明だった動きパターンの崩壊」

第一の側面は、緊張で過剰に自意識が発動してしまい、無意識(非意識)の動きが阻害されてしまうものです。


緊張しているときの体の動きは、それまで半ば無意識に、自動的にこなせていた歩行や姿勢維持といった基本的な運動パターンがわからなくなり、次にどちらの足を動かすべきか、などの一挙手一投足の選択決定に、意識が張り巡らされた状態になっている。


武術でしたら、技にダメ出しをされたことなどがきっかけとなって、うろたえ緊張し、自分の動きを過剰に意識してしまい、これまでできていたことまでもが急にできなくなることなどがあります。

身体技能としての英語使用でしたら、私は初めてアメリカに行ったことを思い出します。実は私が初めて渡米したのは9.11以後でした。アメリカでの入国審査が厳しくなったという話をさんざん聞いていた私は、アメリカでパスポートを提示した時にかなり緊張していました(私にはかなり心配性のところがあります)。その緊張状態で入国審査官に「あなたが参加する学会のapplied linguisticsとは何のことか」と問われた時に、私はてっきり疑いをかけられたのかと思いガチガチに緊張してしまいました(書きながら、今思い出しました。私はドイツで列車に載っている時に、不法移民と疑われ私服警官5人にいきなり取り囲まれてひどく驚き緊張したことがあります。アメリカ入国の時にも無意識レベルでそのことを想起していたのかもしれません)。

そう緊張しているとまあ自分でも驚くぐらい英語が喋れなくなりました。私は先日受験したTOEFL-ITP試験では677点(リスニング68、ストラクチャー68、リーディング67)を取るぐらいの英語力はもっていますが(この記事末尾の「追記」を参照)、もうまともに文構成すらできず、しどろもどろになってしまいました。後で考えると私は列の最後尾で、その日は暇だったのか、審査官は世間話をしようとしただけなのでしょうが、まあ、緊張するとこんなにもパフォーマンスが低下するものかと自分でも驚きました。ですから緊張すると「自明だった動きのパターンが崩壊」するということはよくわかります。皆さんも似たようなご経験はおもちでしょう。



■「動きの自由度の減少」

第一の側面に続いて、熊谷氏は第二の側面である「動きの自由度の減少」を説明します。


それと同時に、体全体がしなやかさを失って、硬い棒のようになる。例えばリラックスしているときならば、全身にたくさんある関節や筋肉をそれぞれバラバラに動かすことができるが、緊張すると、一つの部分を動かそうとすると他の部分も連動し、一体化して動いてしまうのである。


武術でしたら「びびって」あるいは「あがって」緊張してしまって、身体がガチガチになった状態でしょうか。下手をすると可動点が少なく可動範囲も小さなロボットみたいな動きしかできなくなってしまいます。

熊谷氏もこの「動きの自由度の減少」が非常に大きな問題となることを述べています。


体が緊張すると何が問題か。それは、緊張の二側面のうちの一つ、「動きの自由度の減少」にかかわっている。一つの身体が、重力や、外界にある様々な道具や起伏のある地形などとしなやかに関係を取り結びつつ、自らの動きを生成し続けるためには、身体の内部に柔らかな自由度がなくてはならない。もし体が岩のようにがちっとした一塊ならば、動きのレパートリーは「転がる」か「砕け散る」かぐらいしかなくなってしまうのだ。そして私の身体は、岩ほどではないにしても、その硬さによって外界としなやかな関係を取り結ぶことが難しいのである。


武術で緊張してしまったら、例えば相手の攻撃を受けようとしても、自分が一塊の剛体みたいになって、一定程度までは踏ん張っても、その臨界点を超えたら、急にバターンと倒されてしまいます。しかし「力みを取る」ことができていたら相手の攻撃に柔軟に合わせながら自分のバランスを失わず、相手の動きと自分の動きを調和させ、さらにはいつのまにか相手のバランスを失わせて崩すことすらできます(私はまだほとんどできませんが)。

言語使用で考えますと、緊張してしまったら顔がこわばり、言葉も滞りがちになり、準備していた言葉や常套句をかろうじて発語するだけになってしまいます(こうした緊張に備えて、多くの人は大舞台でのスピーチなどには、読み上げれば済むだけの完全原稿を手元に用意します)。緊張していなかったら、当意即妙に言葉が出てくる人も、緊張してしまったら言葉につまることは私達もよく経験することだと思います。



■「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」

緊張しやすい熊谷氏は、このように「自明だった動きパターンの崩壊」、「動きの自由度の減少」をしばしば経験します。それでいて、「まったく無防備な自己の身体を、他者に預け続ける」ことが必要なわけですから、熊谷氏には「それなりの怯えと覚悟が必要」となります。

その中で生じるのが、緊張の第三の側面である「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」です。第一、第二の側面と違って、この第三の側面は肯定的な働きを持ち得ます。

ですから私は、この「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」という第三の側面は、常に緊張状態の中で他人の介助に頼らなければならない熊谷氏が発達させた側面だと考えます。第一・第二の側面である「自明だった動きパターンの崩壊」と「動きの自由度の減少」は、通常の人間が覚える「緊張」を構成する要件として考えられますが、第三の側面の「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」は、熊谷氏が自らの緊張状態時に発揮することを学んだ側面であると私は理解します。この側面は、熊谷氏の緊張に伴うことはあっても、通常の人間の緊張には伴わないからです。

いわば「介護されるプロ」として、熊谷氏は、緊張しながらも、以下のように感性を研ぎ澄ませます。


たとえば、はじめて出会う介護者に身体を触れられる時などは、全身の感覚が研ぎ澄まされ、タッチの柔らかさやリズム、しなり、フィット感などから、その介護者についての情報をなるべくたくさん得ようとしている。緊張は、先ほど述べた二つの側面に加えて、入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされるという、3つ目の側面を持っているといえるのかもしれない。恐る恐る触れてはすぐに引っ込める、弱腰の介護者がいるとおもえば、物を扱うようにやる、侵入的な介護者もいる。終始かったるそうな人もいるし、善意だが不器用な人もいる。たとえが適切かわからないが、そのとき私の身体は、ちょうどセクシュアリティーに匹敵するような繊細さで、情報を収集しているのである。


さらに熊谷氏は、「≪能動的に触れられる≫工夫」をします。介助者に、突然一方的に触られてしまうのではなく、介助者の意図を察知しその意図を自分でも共有しつつ触らせ・触られるようにするわけです。


誰でも、不意に触れられた時というのは、「その感覚がなにものであるか、それに対して次に何をすべきか」という意味付けが間に合わず、びっくりするものだ。逆に能動的に触れるときは、意識をこれから触れる対象に照準し、視覚聴覚など五感を総合しながら触れるため、意味付けが容易で驚くことは少ない。

介助が生活必需品である私は、他者に触れられる機会が多い。先ほど述べたように受動的に触れられるというのは怖い事だから、工夫が必要になる。そこで私が重要視しているのは、触れられる前の意図の共有である。つまり、意図を共有することで受動性をなくし、≪能動的に触れられる≫工夫が必要なのだ。


この≪能動的に触れられる≫工夫が特に必要になるのは、例えば駅で見知らぬ人に介助を頼まなければならない時です。熊谷氏は周りの人を見て、その視線の合い方で、進んで介助してくれそうな人を見つけ出します。見つけ出すといってもそれは一方的なものでなく、介助してくれそうな人は、視線の共有によって熊谷氏にその意図を伝えています。いわば、二人が同時にお互いを見出すわけです。

熊谷氏はそのような人に介助を願います。


こちらが「いける」と思える人は、介助に対する能動性を発している。体の構えは、いつでも動けるように前傾姿勢でスタンバイしている。そういう身体の一挙手一投足をじっと見て取り込み、その人になったつもりで頭の中で再構成し追体験すると、相手の意図が読めてくる。まるで相手を自分に「憑依」させるような感覚だ。熊谷が能動性を失わずに触れられることを可能にできるのは、この「憑依」ともいえる状態が実現されたときである。

相手の「能動的な意図」が私に憑依すると、私の身体もモゾモゾと構えを変え始める。介助してほしい身体部位に意識が集中していくのが分かり、介助されやすいような姿勢に体が組み換わっていく実感がある。



■武術に本質的な感性・感知・感応、そして「水月移写」

このあたりの熊谷氏の記述は、まるで武術の記述かとも思わされました。合気道系の接触技(あるいは中国武術での「聴勁」)では、触り触られる中で相手の意図を(それどころか時には、相手がまだ自分でも自覚できていない意図までも)感知しそれに感応して動きます。あるいは非接触系の武術でも、達人は相手の心身の動きを、即そのまま自分の心身に写しこみます(いわゆる「水月移写」です)。

通常、「カウンター」攻撃といえば、(1)「相手の攻撃動作そのものへのカウンター」、を指します。相手の攻撃行動が開始された後に相手よりも速い自分の攻撃行動を開始して相手に打撃を与えます。これには相手の動きよりも自分の動きが「速い」必要があります。

しかし「カウンター」にはあと二種類あります。二つ目のカウンターは、(2)「相手の攻撃動作の起こり」に対するカウンターです。相手の攻撃動作が本格的に開始される前の微細な動きを感知しそれに対して反射的にカウンターを与えるわけです。

三つ目のカウンターは、(3)「相手の攻撃しようという意志」に対するカウンターです。(2)の微細な動き以前・以下でしか現れない、相手の意志の動きを自分の心身に移写しそれに感応してカウンターをするわけです。(「相手の意志を自分の心身に移写」などというと非科学的に聞こえるかもしれませんが、ベンジャミン・リベットが『マインド・タイム 脳と意識の時間』で言うように、人間は、自らが身体を動かそうという意志を自覚するよりも約0.5秒前に既に神経活動を開始しています。ですから卓越した達人が、その神経活動のほんのわずかの体現を、常人にはとても察知できない微細なレベルで感知しそれに反応することは、科学的にも十分考えられることです。というより実際問題としても、この三番目のレベルのカウンターを実際に行なっている武術の達人は現在もいます)。

一つ目のカウンターが「速さ」(=動作そのものの速度)に依拠しているのに対して、二つ目と三つ目のカウンターは「早さ」(=動作の開始タイミング)によるものです。二つ目のカウンターは、相手の攻撃行動が本格的に指導する前の「早い」時点でカウンターを始めています。三つ目のカウンターにいたっては、相手が自分の攻撃意図を自覚するかしないかの非常に「早い」時点でカウンターをします。ですから相手としてはもう何が何やらわからないうちにやられてしまう格好になります。(以上の「カウンター」に関する記述は、日野晃先生の『武術革命―真の達人に迫る超人間学』の209ページの記述を参照・参考にしたものです)。

三つ目のレベルのカウンター攻撃は、上記の「水月移写」レベルの心身をもっている人(注)のみができるものでしょうが、まあ、そこまでは言わずとも身体が非接触状態でも、人間は相手の意図を感知することができます(これは、相手の心を推量する・理論的に予測するなどという「賭け」ではなく、相手の心身と自分の心身を同調させる外れることのない感応です)。非接触時でもこうなのですから、相互の身体が接触している時には、相手の心はより読みやすいでしょう(武術ヲタでない方、お待たせしました。熊谷氏の話に戻ります)。




■相互協調する複数の心身

熊谷氏を駅でたまたま介助をすることになった人は、多くの場合、介助になれていないでしょうから、熊谷氏は接触している身体を通じて、相手に非言語的に自分の意図を伝え、リードします。しかし常にそうであるわけではありません。


基本的には私が司令塔ではあるが、いつも私がリードする訳ではなく、時には介助者がリードする局面もある。そんな時でも互いに憑依した状態ならば、自分で自分に触れる時と同じように触れる意図、触れ方、触れられる感覚が予期できているから、怖いということはない。しかし、憑依から外れて意図が読めなくなると、急に皮膚の予期しない場所に、予期しない刺激が、予期しないタイミングで訪れるため、びっくりしてしまう。そして再び意図の結びなおし作業が必要になってくる。


このように感性に優れた二人の場合は、接触面を通じてお互いがお互いの意図を読み取り、修正し、相互協調的に意図を合わせてゆきます。次は、古武術を基に介護技術を開発している岡田慎一郎氏に介助された時の熊谷氏の記述です。


2秒か3秒程度、私の体を這いずり回った手は、やがて答えをはじき出したかのように、ひとつのまとまった運動を形成し始めた。それは、意志が確定した瞬間のように私には感受され、私自身も「よし、もちあげられよう」という意志が同時に固まった。その瞬間、めったにないような軽やかさで、体がふわりと宙に浮いた。自明な動きパターンの崩壊だけでは具体的な動きを形成できない、しかし、動きの自由度の減少だけでは相手の体としなやかな関係を取り結べない。あくまでその両方に引き裂かれる緊張の中で、そのつど、相手となじんだしなやかな動きが即興的にうみおとされていくのである。


もちろん、そもそもが異なる心身である二人が、いつも完璧に同調しているわけではありません。しかし同調が崩れた時も、二人の心身は協調的に同調を取り戻そうとします。


私は岡田氏が「持ち上げよう」と意志を固めた瞬間に、同じように「持ち上げられよう」という意志を固める。しかし、実際の持ち上がり方がにぶいものだった場合、その情報は岡田氏の脳だけではなく、自分の脳にも届けられる。介護者の重みや疲れを被介護者も同じように感じられる時というのは、二人の意志が共鳴しているだけではなく、二人の身体が効率よくエネルギーや情報を伝えあう協応構造を形成しているのだろう。


こういった介護の現場から、人間の身体には相互を感知し合う優れた能力があることがわかります。この能力の存在は武術の現場からもわかることは上で述べた通りです。武術家の甲野善紀先生が最初に介護のことを語り始めた時に、私も武術と介護のつながりを理解することができませんでしたが、身体を最大限に働かせようとするなかで、介護と武術は繋がってゆきます(強弁をしますと、究極の武術とは、邪気と敵意を持った相手を介護し、相手のその邪気と敵意を祓ってやることとすら言えるかもしれません)。




■相対する心身の現象としての授業

強弁ついでに、授業という教育活動について考えてみましょう。授業を単なる情報伝達の場と考えて、授業を機械に代行させることができるものとみなすこともできますが、現場教師にとっては、授業とは、必ずしも学ぶ気になっていない学習者(時にはあからさまな敵意さえもっている教室の囚われ人)に学びを誘発する行為とみなした方が納得がいくのではないでしょうか。

しかしその「誘発」が容易ではないので、多くの教師は力づくで学ばせる途を選びます。その力には、教師の大きな体格、突然の物音・音声、高圧的な態度、権力による脅し、不安にさせることによる支配などさまざまな力がありますが、どれも学習者の心身の状況にかまわず、一方的に押し付ける点で共通しています。そして私たちはそのような手段でとりあえず学習者をコントロールできる教師を時に「教育のプロ」と呼んでしまいます。

もちろんそのような「教育のプロ」などというのは、真の達人ではありません。いや「達人」という言葉を出すまでもなく、そのような力ずくの教師は、同じようなSM的感性をもった一部の成功した学習者を除いて、学習者に慕われることがないでしょう。さらに重要なことは、学習者はその先生のもとを離れたら、おそらくはその学びをやめてしまうでしょう。たとえその先生の前ではよい点を取っていたとしても。

介護の世界にも、そのような悪い意味での自称「プロ」がいるようです。熊谷氏はそのような人に対して批判的です。


経験上、「腕に覚えのある介護のプロ」と自認をしている人に対して、私は良い印象を持っていない。自称「介護のプロ」の中には、《オレ流》を押し付けてくる人が多いという偏見をもっているためである。それは、過剰な自信によって介護者自身に緊張が不足しており、被介護者の身体から発せられる情報を拾わずに、あらかじめ決められたやり方を遂行する介護状況だから、情報の流れが「介護者→被介護者」と、一方向的になる傾向がある。そのような介護者の手は、道具ではあっても、探知機にはなっていないと思っている。


究極の教育とは、別々であった二人の人間が、学ぼうとする心身として互いに同調(あるいは共鳴)すること、と言えるかもしれません。最初は教師にだけあった学ぶ心身が、学習者にも伝播します。伝播といっても一方的なものではなく、教師は学習者の心身に合わせて自分の心身を同調(あるいは共鳴)させます。だから学習者は自分は理解されたとも思いますし、先生を理解したとも思います。そうやって学習者の心身が学びについて整えられたら、おそらくはその学習者はその先生のもとを離れても、学び続けるでしょうし、学びの喜びを他人にも伝えるかもしれません。

このセクションの私の教育論は、青臭い理想論・観念論のように聞こえるかもしれません。いや実際、教師としても、武術を稽古している者としても駄目な私が語っている以上、これは理想論・観念論にすぎません。しかし、教育とはどうあるべきかという理想・観念があまりにも失われているように思える昨今、このように、他分野の現象記述を参考にしつつ、教育という分野で人間の心身が本来なしうることを模索しようとすることも決して無意味ではないと思います。

まあ、難しいことを言わずとも、私達の身体はこわばっていませんか。あるいは学習者の身体は。教師と学習者の心身が伸びやかな教室を私たちは望みたいと思います。


















(注)
「水月移写」は「うつるとも 月も思わず うつすとも 水も思わぬ 猿澤の池」(あるいは「広沢の池」)という道歌から来ていますが、日野晃先生は、『武学入門 武術は身体を脳化する』で、この「水月移写」を達人の核として次のように解説しています。


その核とは、色々な武術資料等に残る「水月移写」という言葉であり、(もちろん精神を支えとした身体状態である。

この言葉の実体は、意識や無意識領域、そして肉体の隅々までも安定させていれば、自分の身体に全てを写し出すことが出来る、ということになる。

一般的には「月は水に写ろうとして写るのではなく、水は月を写そうとして写しだしているのではない」、つまり、こちらの意識や無意識領域を含んだ全てが水面のように安定していれば、感じようとしなくてもごく微妙な水面のざわめきも感じ取ってしまう、ということであり、心を鏡のようにすれば全てはそこに写し出される、という訳になっている。

この「水月移写」という身体状態は、人間を「生物」というレベルにまでコントロールする。そうすることで、生物としての「反射」を可能にするのだ。

しかし、これは一般的に言われる、運動としての「反射神経」というレベルではない。運動としての反射は、いわゆる動態視力的なものを指し、「具体的肉体運動の起こり」に対しての資格情報からの運動だ。

達人の「反射」は、そういった動態視力を介在した反射なのではなく、相手の意識の揺らぎに対しての「反射」だ。つまり、運動が起こる以前の意志や意識に対しての反射である。

だから、この「生物反射」と「武術的運動」が組み合わされているのが、名人の体術の核ということになるのだ。(48-49ページ)


このような無意識的反射としての「水月移写」を、日野先生は医療場面にも見出します。


例えば、いくら治療の技術が卓越していようが、その治療家(医者も含む)が気遣いのない人間であれば、また、思い込みをはじめとする観念的なことが先走っている人、そして、対立・対抗的な人(総称で言えば、幼稚で傲慢、人との関わりを全く分かっていない人)だとすると、大方の病気の方は無意識的に「緊張」という反射を起こしてしまう。そうすると、いくら治療の技術が卓越していようが、病気の方はまずはじめに「緊張」し、そのことによって無意識的なところで拒否反応が出てしまうので、結果として良い治療の結果が得られない。さらに悪いことには、人との関係を全く分かっていない医者は、病気の方に対して「不快感」を与えることになり、治療以上に逆の作用を与えてしまうことにもなるのだ。もちろん、こういった無意識的なことなので、患者側も敏感に察知できる方とそうではない方とに分かれるが、察知できないからといって、悪い高価がないのではない。ただ察知できないだけなのだ。(160ページ)


このような話を聞くと「はあっ?そんなのエビデンス出してから言ってくださいよね」と馬鹿にする人もいますが、私は上の幼稚で傲慢な医者などとは正反対の人を実際に知っていますので、このようなことはあることだと思えます。私が知っているその方は、多くの人に思慕され、その人が来ただけで場が和むような人です。― と、こう書きながらその方のことを思い出していると、その方とは正反対のような人のことも思い出してしまいました。そのような人が来たり、声が聞こえてくると、確かに私などの身体は微かながらも確実に緊張します。

と、私のことはさておき、このような身体論をする時に大切なのは、やはり


「身体の実感に自分の頭が素直に従えるだけの柔軟性があるのか?」(221ページ)


ということでしょう。




追記 (2012/01/18)

ある学生さんが教えてくれたのですが、TOEFL-ITPでの677点というのは満点なのだそうです。私のスコアはリスニングとストラクチャがそれぞれ68点でリーディングが67点だったので、私はリーディングを一問間違えたかと思っていたのですが、これらのスコアは全部満点でした。

TOEFL-ITPのスコア表(2012年1月18日にダウンロード)
TOEFL-ITPの公式ホームページ
http://www.ets.org/toefl_itp/content/

「嘘つけ!」と疑う人のために、念のためのスコアのコピー(笑)
TOEFL-ITP(2011年12月17日実施)柳瀬のスコア







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