2012年1月5日木曜日

日野晃先生による「文科省が『武道』を導入」という記事




1月3日の私の記事「身体で考え、示す」でも書きましたように、ふと日野晃先生の著作が目にとまり、それらを再読できたことは本当に幸運なことでした。

そうやって日野先生のことを少し改めて調べてみるとブログも書かれておりました。



日野晃のさむらいなこころ
http://blog.ap.teacup.com/hinobudo/



あわててRSS購読を始めましたところ、すぐに知ることができたのが1月4日の「文科省が武道を導入」の記事でした。このブログ記事の続きは以下のページに全文掲載されていますので、ここではその全文掲載ページのURLを掲載します。



文科省が「武道」を導入
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



読んで、様々なことを感じさせられましたので、勝手ながらここに日野先生の文章を引用(適宜、読みやすさのための改行を挿入)しながら、私の蛇足の文を加えます(ご興味ある方はぜひ上のページの全文をお読みになって、原文の流れに即してご自身で様々なことを感じ取ってください)。



日野先生は、文科省が武道を学校教育に導入するというニュースに対して、日頃から「日本の軍国主義(への逆戻り)」を過敏に糾弾する国々が何もコメントを出していないことから、国際的にも「武道」というものが、「完全に習いごとやスポーツの一つであり、何ら本質が無い」と見られていると考えます(そういえば国内でも武道の導入を「本来怖ろしいものを学校教育に入れること」として捉えている声はほどんどないように思えます)。日野先生は「武道も舐められたものだ」とおっしゃいます。

日野先生が慨嘆されていることは、武道とスポーツの違いがまったく理解されていないことです。まあ、たいていの日本人にとっての「柔道」とはオリンピック競技のことであり、海外の人にとっては"Judo"でしかないというのが実際のところでしょう。「えっ、Judoも武道でしょう?」というわけです。しかし、日野先生は武道とスポーツの違いを見失ってはいけないとします。



むろん、スポーツ競技が悪いだのレベルが低いだのという話ではない。

スポーツと武道は全く違うという話だ。

武道と呼ぶからには、少なくとも GHQ が禁止したものでなければいけない。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



こう書くと、日野先生は、武道導入によって軍国主義を復活させるべきと言いたいのかと思われるかもしれませんが、それは誤解です。



しかし、ここで勘違いてもらっては困る。
武道=軍国主義ではないし、武道=意味の無い精神主義でもない事を。

武道の本質には二重性がある。

その一つは、自分以外の価値のあるものを、 自分の生命を投げ出して守ること 。
例えば、家族であり、地域であり、国のことだ(外国でいえば軍人のことだ)。

その一つは、 生命ということを直視(死生観)すること である。

この二点が暗黙の内に備わっている精神が、日本には脈々と流れており、それが日本を取り巻く当時の環境や間違った指導者の為に歪められた結果、軍国主義と呼ばれる結果になっただけなのだ。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



競技スポーツは大半の場合、競技者個人の栄光や満足のために行ないます(そしてその個人を有する組織・団体・国がその栄光をできるだけ利用しようとし、競技者に様々な便宜をはかることも周知の通りです)。しかし武道は、個人(=言い切ってしまうなら、私利私欲)のためでなく、自分以外の何か・誰か大切なものを守るために稽古します。自分自身をも守ることも当然ながら目指しますが、武人は究極のところで、犬死でなく、自らの生を完成させるための自らの死に方・死に場所を求めます ― そのあたりをエンターテイメント作品でわかりやすく描いているのは「ラスト・サムライ」です。現実世界では例えば、東京消防庁ハイパーレスキュー隊がそういった「サムライ」がまだ生きていることを示したかと思います ―。

この、生命を投げ出すことをも回避しないという武道の第一の本質は、第二の本質である死生観にそのままつながります。

武道では、人を殺傷しかねない技を稽古します。現代の稽古では仮想上のことにすぎないかもしれませんが、稽古での身体を通じて生死と向きあうわけです。武道の稽古では死生観が練磨されます。


つまり、こちらの一瞬の隙、一瞬の決断の鈍り、曖昧な動き、無駄な動き等が、こちらの生命の危機に直接繋がるということであり、こちらの攻撃そのものは、相手の生命と関っているからである。

したがって、死生観とでもいうべきものと共に、成長していかなければならないのが、武道の稽古なのである。

死生観 とは、死を通した生の見方をいう。

人が死んだらどうなるか?どこへ行くのか?死後や死者をどう捉えるか?その大前提の下に、生きることとは何か?死ぬこととは何か?等に対しての見方、考え方のことである。
むろん、正解などどこにもない。

そのことと正面から向かい合い考える。

その考える過程に意味があるだけである。

その意味で、答えだけを求めたい、あるいは知りたい現代人には、まるで不向きなことだ。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



下手をしたら相手に大怪我をさせてしまいかねない武道の稽古では ― つまりルールで安全を十二分に確保した競技スポーツではない本来の武道の稽古では ― 自分本位で身体を動かすことが許されません。そのような自分勝手な動きでは攻撃することも防御することもできないからです。武道の稽古では我意・我見・我執を取り去った動きを修めなければなりません。


また武道を、体操や単なる運動と無意識的に捉えていれば、 脳から身体そのものに発する神経系統の信号は、従来のまま、つまり、幼児や子供の頃から自然成長的に培ってきた、単純な運動系の信号でしかないからだ。

そして、自我と自意識の表れとして、根本的に自分本位で物事を進める、という思考回路が定着している。

そこを変換させる、進化させる、ここに武道を稽古する意味、稽古が武道になっていく意味があるのだ。

そこが面白いところだ。

つまり、端的に言えば現代において武道を学ぶとは、自分を超えて行くところにある、という一語に尽きるのだ。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm


この「自分本位で物事を進める思考回路を変換させ」、「自分を超えて行く」ことが単なる観念論でなく、実際の技に直結していることを日野先生は解説されます。ですがこのあたりは理解しにくいところかとも思いましたので、以下、日野先生の文章を私なりに書き直してみます(同時に私は、私の誤解が混入してしまうことを怖れます。繰り返しますが、ご興味を持たれた方はぜひ原文をご参照ください)。



「自分を超えて行く」とは、心においては「自分勝手を排除する」ということであり、運動においては「自分勝手に動かない」ことです。「自分勝手に動かない」ことは、よく言われる「相手の力を利用する」や「相手に逆らわない」でもありますが、これは言うは易く行うは難しいことです。特に相手が武道をきちんと稽古しているなら、その相手は違和感を察知する能力が極めて高く、自分が「相手に逆らわない」ように動いているつもりでも、相手にはその違和感がすぐに察知されてしまうからです。

武道での察知能力は、相手の投げる、突く、斬る等の「いま・瞬間」、意識の起こりを察知することです。武道の守り(盾)においてはこの察知能力を高めます。しかし、戦わなければならない相手には守るだけでなく攻撃しなければなりません(矛)。ですが、その攻撃(矛)が相手に察知されれば攻撃はできません(逆に反撃すらされてしまいます)。

ここに武道の稽古の「矛盾」があると言えます。つまり互いに限りなく攻撃能力(矛)を高めながらも、同時に限りなく察知能力(盾)を高めなければならないということです。相手の高い察知能力(盾)を超えようとする中で、武道を稽古する者は自分の攻撃(矛)の背後にある「意識の起こり」(=自我や自意識、ひいては自分勝手)を消すことに努めなければなりません。そのように稽古をつめば攻撃能力(矛)は高くなります。また、それは自らの察知能力(盾)をさらに高くすることにつながるでしょう。かくして武道の「矛盾」は限りなく武人を練磨するわけです。



日野先生は、この身体操作における自我・自意識・自分勝手の問題に向き合うことも、武道にとって本質的なことであり、この問題を回避したままの運動を武道の稽古と呼んではならないとお考えのようです。


つまり、ここを乗り越えていけるかどうかは別として、乗り越えて行こうとする事を武道の稽古と呼ぶのだ。

そして、そのことは昔日の達人と呼ばれた人達だけが、逆に言葉を返せば、ここに気付いた人、乗り越えた人が達人と呼ばれ後世に名を残す結果となったのである。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



さらに日野先生は、もし「武道」を学校教育に導入するのなら、この自意識の問題を外してはならないとします(この問題を扱わないのなら、「武道」導入は、単なるスポーツ種目の追加であり、学校教育に本質的な変化はもたらされないと考えるべきでしょう)。ですが現実の「武道」導入の背後には様々な政治的事情があるにせよ、多くの国民が思っていることは、日本社会はこのままでよいのか、何らかの本質的な変化が必要なのではないか、ということでしょう。それならば新たなスポーツ種目ではなく武道を学校教育に導入すべきでしょう(しかし、指導者が圧倒的にいないという深刻な問題もあるのですが)。


もしも、学校教育として武道を導入するなら、これらの要素を外しては話にならないのだ。
また、これらの要素を外してはいけない理由に、武道としてではなく社会生活を送る人としても外してはいけない。

幼い自意識の大人を排出すれば、つまり、自分勝手を正しいと思う人を排出すれば、社会は無茶苦茶になるから。

それは、メディアを賑わす事件を見れば分かる筈だ。
すでに排出されているということだ。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



と、武道の話をしましたが、このブログの本来の読者(のはず)である、学校英語教育関係者の方々は、縁遠い話と思われたかもしれません。

しかし、そうではありません。

それは日野先生が滋賀県のある小学校で6年生のあるクラスで行ったワークショップのエピソードからもうかがうことができます。


小学生達は少し緊張した面持ちで、教室に集合していた。
初日は、まず武道についての話を、休憩を取らず二限に渡って話をした。
この長時間に及ぶ難しい話を子供達は、微動だにせずに聞いた。
それをこの場にいた、校長を含め各クラスの担任や副担任は驚いたのだ。

休憩時間の時、その事が話になった。
担任達は一限であっても、子供たちを集中させるのは難しいのに、どうして皆は私の話を聞いたのか、と不思議がってその理由を私に聞いてきた。
それが本来の武道の最重要要素である「相手に声を届ける」の実際であり、「正面向かい合い」だ。

私自身が子供達と正面から対峙し話をした。
もちろん、それだけではない。
子供達の表情、身体の表情を観察し、退屈しているのか集中されているのか、を見極めながら話をしていたのだ。
それが正面向かい合いの一面でもある。
つまり、一方通行的正視ではなく(一方通行的正視は『睨む』という)、相互に関係性が築き上げられる仕掛けを持つ正視ということである。
http://www.hino-budo.com/school-budo.htm



この、相手に「正面から向かい合い」「声を届ける」ことは以下のセミナーで行われているようです。


武禅
http://www.hino-budo.com/buzen3.html
第85回武禅(平成23年10月8~10日)レポート
http://www.hino-budo.com/buzen5.html




たまたま卒業生からもらったメールでの新年メッセージにも、次のような述懐がありました。

9か月の教員生活を経験して、英語教員として新たに気づいた課題も多くあります。授業規律をつけることの難しさ(生徒指導面)、生徒一人一人と信頼関係を築くことの難しさ、そして授業には日々”変化”が必要であるということなどです。

こうして字面におこしてみると、学生時代にも上記のことの重大さを知っていたような気が致しますが、実際に生徒たちの日々の変容を目の当たりにしてみると、まるで違ったことのように感じられます。今まで考えていた対処法をすれば、すっと解決する、そんな簡単なことではないと実感します。

学生時代に対処法だと思っていたことがこんなにも実践するのが難しいことなのかと、日々考え、悩んでおります。生徒たちは、言葉尻ひとつ、ことば選びひとつで、全く違う感情を抱きます。そう考えると、二の足を踏んでしまったり、対応が後手になったりと多くの失敗を重ねました。これらを次年度には生かしていきたいと思います。


学生時代に字面で学んだ知識が無駄だとは思いませんが、その知識も、教師の生身で具現化し、生身の生徒との関係の中で活かされなければ、役にたちません。教師は「現場」の「実践家」である以上、具体的な関係性の中で感性を十分に働かせなければなりません。

教師が生徒に「声を届ける」ことの大切さは、かつては竹内敏晴氏などが力説していましたが、まずは生徒と正面から向き合い、生徒に声を届けることを、すぐにはできないにせよ、試みなければ、どんな指導法を学んでも、どんなに声を荒らげても、無駄なのかもしれません。


まあ、そのように自分自身と他人(ひいては自他の生死)と向かい合うことを回避し続けることが可能になるように、企業が次々と商品を発売してゆき、人々が次々にそれに目を奪われようとすることが、現代の高度資本主義社会・消費社会と言えばそれまでなのですが。





しかし、この文章をまとめながら感じたことは、この書いている自分自身の自分勝手さです。こうして文章を書くことで振り返ってみると、私は武道の稽古はおろか、日常の仕事も生活も自分勝手にしか行なっていません。私も少しはきちんと自らの我意・我見・我執に向き合わなければと思います。少なくとも自分は恥ずかしい存在なのだという自覚は忘れないようにしたいと思います。







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