2009年11月30日月曜日

「べてるの家」関連図書5冊

文学には人生と言語が凝縮されている。現実にはあり得ないほどの濃度で事態が展開し、日頃はとても聞けないような精妙さと大胆さで言葉が語られる。非日常的といえばまったくその通りである。だが非日常的だからといって文学から学ぼうとしないのは愚かである。文学こそ人生と言語を学ぶ題材の一つである。

同じように精神障害者の暮らしにも人生と言語が凝縮されている。特異な人間関係が繰り広げられ、世の中の常識と非常識がひっくり返る。単純な言葉で深い交感が行なわれ、私たちの言語観が揺さぶられる。「一般社会」なるものからすれば異例的であるといえばまったくその通りだが、珍しいからといって精神障害から学ぼうとしないのも愚かではないだろうか。

精神障害という「異常」にこそ人生と言語、あるいは世の中とコミュニケーションについて深く学べるのではないだろうか。そして「異常」という言葉の現代社会での使われ方についても学べるのではないだろうか。私たちが「正常」と思っていることに潜む「異常さ」に気づくことができるのではないだろうか。



今年の夏にふとした縁から読み始めた「べてるの家」関連の本は、私の人生観・近代観、言語観・コミュニケーション観を揺さぶり続けています。ここでは夏以降に私が読んだ関連書5冊を紹介します。「・」印はその本の中の印象的な箇所です。



■向谷地生良・浦河べてるの家 (2006) 『安心して絶望できる人生』生活人新書・NHK出版

『べてるの家の「当事者研究」』(医学書院)の続編として書かれた読みやすい新書。向谷地生良氏の解説と、べてるの家のメンバーによる実際の当事者研究があり、特に当事者研究では西坂自然氏の「"人格障害"の研究 その1」(pp.103-119)が素晴らしい。


・「世界の抱える苦しみに自分はつながっている」。その感覚によって、人を活かすという実感をそのときに見出すことができました。それは、別な言い方をすると、人と人のつながり、つまり人間の生きた歴史を取り戻すということです。(p.37)

・回復や暮らしやすさの生活情報を持っているのは常に専門家であって、当事者はお金を払って専門家のところへ行って、指導を仰いだり情報をもらったりすることが当たり前になっています。しかし、浦河で大切にしてきたことは、あなたたちの中に知恵がある、その知恵を伝え合う。そこから場全体が豊かさを取り戻すということです。(p.39)




■向谷地生良(2006)『「べてるの家」から吹く風』いのちのことば社

向谷地生良氏の根幹にあるものと、浦河という地域の背景にあるものを包み隠さず語った本。通常こういった話題は正面切って語られることを避けられるが、やはり根幹と背景なくして実践を理解することはできない。「べてるの家」の理解を深めるためにどうぞ。


ただ、これ [=当事者研究] はあくまでも"実験"ですから、効果がなくても落ち込む必要はありません。次の方法をまた、いっしょに研究しましょう。(p. 72)




■斉藤道雄 (2002) 『悩む力』みすず書房

TBS社会部・外信部記者の著者は「あとがき」で次のように書いています。「ジャーナリストが取材対象に同化して取り込まれてしまうというのは、一般的には力不足の証拠とされている。その意味では、私はまったく力がなかった。しかし32年間報道現場にいて、取材しながらこれほどまでに自分の生き方を考えさせられたこともない。やがて私はそこでジャーナリストとしての倫理だとか力量だとか、そんなものが意味をなさないほどに自分自身が問われていることに気づくのであった」(p. 240)。深い社会的分析を確かな筆力で描き出している作品です。


・[向谷地生良氏のことば] 私は、彼ら [=べてるの家のメンバー] によって自分の力の無さ、未熟さ、貧しさを知らされました。・・・べてるに行くと私自身、安心して弱く、ありのままであることが許されているような落ち着きに満たされることがあります。そして、弱いままで生き合える信頼なくして、人間は共に生きることはできないことを教えられるのです。 (p. 91)

・精神障害者とは、だれよりも精度の高いセンサーをもった人びとなのかもしれない。一方、健常者といわれる人びとはそのセンサーの感度が低いのだろうか。そのためにがんばってしまうのだろうか。あるいは感度の低さによって人間関係をあいまいにし、ごまかしているのかもしれない。病気になれない人びとは、たてまえと本音を器用に使いわけ、他人にたいして仮面をかぶり、いつしかよろいをまとっている。精神障害者は、そのような器用な生き方ができない人びとなのだ。上にのぼり、成功し、右上がりでありつづけることが当然とされるこの社会で、それができずに取り残され、下にとどまった人びとである。けれどその彼らがこの世にあることによって、しばしば上にいったもの、強いものを人間存在の疎外と荒廃から救い、和解させる力をもっているのはなぜだろう。 (p. 221)




■四宮鉄男 (2002) 『とても普通の人たち』 北海道新聞社

べてるの家のドキュメンタリーを撮った記録映画作家による本。著者が映像作家であるせいかエピソード記述が豊かで会話の採録も多く、本を楽に読める。読みやすくて深い本。


・自分で感じたり考えていることがはっきりと自分で分っていないと、相手に伝えたり理解してもらうことはできない。普通、コミュニケーションというのは、相手に向かって、いかに自分の気持ちや考えを伝えるのかという問題だと考えられている。しかし、言葉にして伝える前に、自分のこころの中が整理されていないと、つまり自分の世界がくっきり見えていないと、その思いや考えが言葉になってからだの外に出ていくことができない。 するとコミュニケーションのいちばんの基本的な問題は、いかにして自分自身で自分のことを知ることができるか、いかにして自分の中を整理できるかの手だての問題となる。 (p. 63)

・もっと根本的なことを言えば、べてるのミーティングは議決機関でもなんでもないということだ。話し合って、なにかを決めるのが目的ではない。この章の冒頭に、私は、「なんどもかんでもミーティングで決める」と書いている。しかしそれは間違い。「なんでもかんでもミーティングで話す」と改めなければならない。 私たちには、ミーティングは、話し合いでなにかを決めることだという思い込みがある。あるいは、何かを決めるための手続きとしてミーティングがあると思っている。だが、べてるでは違う。集まって、顔を合わせて、話をして、お互いの考え方が分ればそれで十分だった。話をすることだけが重要だった。実際、延々と話し合いをしながら、結局はなにも決まらないなんてミーティングも珍しくない。それで良しとしている。 (pp. 269-270)




■横川和夫 (2003) 『降りていく生き方』太郎次郎社

かつて共同通信の記者として文部省を担当し、日本の教育行政と学校教育のあり方に疑問を抱いていた著者による本。その意味で学校教育関係者でべてるに興味を持つ人は注目。著者の見解は「あとがきにかえて」で次のように述べられている。「当事者性を奪われているのが、統合失調症などの精神障害を抱えた人たちであると、向谷地さんは訴える。だが、よく考えてみると、私たちも日常生活のなかで、当事者性を無視されたり、ないがしろにされたりしているのではないだろうか。 受験戦争に乗り遅れたらたいへんだと、早期教育に力を入れ、塾に子どもを通わせる親たちがあとを絶たない。子どもの将来のしあわせを願って先手を打っているのだろうが、当の親自身が子どもの当事者性を奪っていることに気づいていない。小・中・高校での勉強の仕方も、よく考えてみると、児童・生徒がなにに関心をもって、なにを学びたいか、という当事者性を重んじているとは思われない。文部科学省がきめた学習指導要領に基づいて、興味や関心があるなしにかかわらず、教科書にもりこまれた内容を画一的に教え込む授業が進められている。 (p. 226)


・「私たちは近代化や合理化を通じて、人間として本来もっている基本的に大切なもののうえに、学歴とか経済力とか便利さとかを、オプションのようにプラスアルファの価値として身につけてきたわけです。回復するということは、人間が人間であるために、そういう背負わされた余計なものをひとつずつとり去って、本来の自分をとり戻していく作業なんです。何をしたらよいか、何をしてあげなければならないかではなく、何をしないほうがよいか、何をやめるか、つまり足し算ではなく引き算が、べてるの家のキーワードです。それが降りていくということでもあり、そうすることによって、人間が本来もっている力を発揮できるようになっていく、という考え方なんです」[向谷地生良氏のことば] (p. 67)

・「里香さんのすごいところは、いまも幻聴は消えていない、病気は治っていないけれど、こんなに楽になるとは思わなかったと言ったことです。それまでは、症状が傾斜をつけるようにだんだん軽くなっていくと思っていたけれども、そうではない。しあわせは自分の真下にあった、という言い方をしたんですね。同じマイナス状態にもかかわらず、自分がどう受け止めるか。これがぼくらのやり方のまさに真髄なんですけど、それを里香さんは体験者として、『真下にある』とわかりやすく表現してくれたんです」。 [川村敏明氏のことば] (p. 216)




べてるの実践が私に伝えてくる強いメッセージの一つは「下へのベクトル」の大切さです。

近代社会は進歩・発展・上昇などの「上へのベクトル」を非常に強調します。学校でも上へのベクトルを徹底的に叩き込みます。もちろん上へのベクトルは重要な者です。人間、そして社会は現に進歩・発展・上昇するものですから。

しかし人間は ―神ならぬ人間は― 至上の上には到達できません。上り続けることもできません。人間や社会の進歩・発展・上昇は、その人間や社会を囲む存在(環境)をしばしば乱します。進歩・発展・上昇の歪みは環境が被ります。近代社会の進歩は文字通り自然界の環境問題を生み出しました。高度資本主義社会の発展はその社会の外部におかれた他の人間・社会の貧困化をもたらしました。人間の上昇志向はしばしば周りの人間を犠牲にします(あるいはその人自身の心身の健康を損ないます)。

社会については断言を控えますが、そもそも人間とは死にゆくものです。上昇するにつれ得たお金も地位も力も、いや知恵さえもやがてはすべて失います。人間は衰え、死にます。それが神ならぬ「死すべきもの」としての人間の定めです。

つまり人間とは上を目指しながらもやがては下に降りなければならない存在です。上へのベクトルばかりで生きているのではありませんし、もちろん下へのベクトルばかりで生きているものでもありません。

ですが近代社会は上へのベクトルを強調するあまり、下へのベクトルを見ないようにしないでしょうか。上へのベクトルばかりで人間は生きることができるといった幻想を振りまこうとしていないでしょうか。

そういった上への幻想は、人間には下へのベクトルしかないという思い込みと同様、危険なものかとも思います。私たちは、上昇できない者、ただ留まるしかない者、さらには降りてゆくしかない者への理解と共感を必要としていないでしょうか。

若い人を主な対象とする学校が上へのベクトルを強調することはある意味当然です。しかし同時に私たちは下へのベクトルを忘れてはいけないような気もします。


悪い癖で、私の乱雑な思考を抽象的で未整理な言葉で書きつけました。

まあ口直しにベテル関係の本でも読んでください。





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浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html

当事者が語るということ
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