2011年11月23日水曜日

佐藤綾子先生と萩原一郎先生のお話を聞いて




松井孝志先生が事務局長を勤める「第4回 山口県英語教育フォーラム」で佐藤綾子(さとう・りょうこ)先生と萩原一郎(はぎわら・いちろう)先生のお話を聞く機会に恵まれました。お二人のお話を聞いて感じたことをここに書きます。


まずは佐藤綾子先生から。

佐藤先生は、「自然体」とことさらに表現することがおこがましいような自然体の先生でした。発問がすばらしく、これは生徒が先生を慕うだろうし、その中で生徒は自然と力をつけてくるだろうと思わざるを得ませんでした。


■発問の筋の良さ

発問というのは、下手をするとどうも理屈だけで考えたものになり、教師の意図が染みこんでしまった"loaded question"になったり、教師の解釈で学びをねじ曲げてしまうような"leading question"になります。ところが佐藤先生の発問は自然です。発問の内容も仕方も、無理がなく、このような発問には自然と人は心を寄せるだろうと思いました。

発問は内容だけでなく、仕方(口調なども含む問いかけ方)も重要ですから、佐藤先生の発問をここに文章だけで再現するのは不可能なのですが、発問の内容だけここに簡単に掲載します。


例えば中学校1年生の次のような本文があります。


Emi: Good morning.
Ms. Green: Good morning.
Emi: I'm Emi.
Ms. Green: I'm Ann Green.


この本文を佐藤先生は「言語間の類似点や相違点に気づき、日本語や日本の文化に立ち返るために読む」ことに使います。

そこで発問をしてゆき、さらに

I'm Shinnosuke. 
I'm Giant. 
I'm Norimaki Arare. 
I'm a cat. 


といった例文を追加し、強引に教師の意図に生徒を強引に連れ込むのではなく、自然と生徒の気づきを促してゆきます(皆さんでしたら、上の英文でどう発問をしますか?)

佐藤先生の場合では、生徒は

・日本語には自分を表す言葉がたくさんある。
・だれが・だれに・どんな場面でが大切
・省略しても意味が通じる
・一つの単語に一つの意味ではない。
・記号が違う(句読点とピリオド)


ことなどに気づき、「言語間の類似点や相違点に気づき、日本語や日本の文化に立ち返る」ことができるようになっています。



あるいは同じく中学校一年生の次の本文では、きちんと音読させる指示で「書き手の意図を読むために音読する授業」を成立させます。以下の本文は折り紙を見ながらの対話です。


Mike: What's this?
Judy: I don't know. Is it an animal?
Mike: Yes, it is. It's a rabbit.
Judy: Really?


佐藤先生は「具体的な状況をイメージしないとどう音読すればよいか決められない」と言います。上のように簡単な英文であればあるほど、このことは当てはまります。

ところが昨今の英語教育系は音読といえばとかく「トレーニング系」の音読ばかりが流行し、書き手のメッセージ(意図・場面・状況など)をリアルに思い描くための手段としての音読、話し手の思いを伝えうとすることにより読解が深まる音読が、おろそかになってしまっています。

極端な言い方をすれば、上記の英文を、MikeとJudyの気持が手に取るようにわかるように音読できる英語教師はどれぐらいいるでしょう。これは正確な発音とは別の、しかしおそらくはそれよりも重要な問題です。佐藤先生はこの大切なことを見失わない言語的感性が鋭敏です。



二年生の英文では、「言葉のはたらきに気づくことで書き手の感動を読む授業」を目指します。例えば次の英文のうち、一文だけを取り上げて発問するとすれば皆さんでしたらどの文を選びますか。そしてそれをどのような問いで、どのような問いかけ方で生徒に働きかけますか?


I enjoyed "Baseball Dogs" very much. Rio jumped into the water and brought a baseball back to the boat. Rio looked really happy. I didn't know about BARK before. It's a team of dogs like Rio. They were once street dogs, but they practiced hard and learned a lot. Now they have their own home and a job.


佐藤先生は、ある箇所の問いから、生徒にこの書き手の心を読み解くための気づきを生み出し、さらにそこから自然に発問を展開させる中で、生徒に他の箇所にも書き手の心がどのように表現されているかを次々に気づかせてゆきます。これも見事でした(こういった発問がマニュアル化することを防ぐため、ここでは発問の箇所も伏せます。皆さんならどこの箇所を、どのように問いかけますか ― もちろん問いも問いかけ方も一つは限りませんし、何より生徒の反応により発問の発展は異なるものですが ―)。



■自然な感性がものさし

このように発問があまりにも見事 ― というよりも自然 ― なので、私は質疑応答の時に真っ先に手を上げて、多くの英語教師が、Teaching Manualや各種理論に振り回されて妙な発問ばかりをつくりあげてしまうのに、どうしてそのように筋の良い発問ができるのか・展開できるのか、と問いました。秘密を知りたかったのです。

ところが答えはこちらが拍子抜けしてしまうほどにあっさりとしたものでした。「発問は私一人で考えたものというより、同僚の先生方に聞いたりするうちに、自然とできあがってくるものです」 ― この言葉を佐藤先生は、おそらくは謙遜や照れでなく率直な気持でさらりとおっしゃいました。これがすごい。私が冒頭で、「『自然体』とことさらに表現することがおこがましいような自然体」と申し上げたのはこういった事態をさしています。

もしかすると佐藤先生は、『千と千尋の神隠し』の千尋のように、自然と人々が心を寄せるような自然な感性を失っていないのかもしれません。



■鏡に姿を映すような自己認識

私が佐藤先生とは今回お会いしただけなのに、上記のような佐藤先生の感性についてのことを申し上げますのも、佐藤先生がご自身「教師年表を作ってみませんか」と提唱する中で披露したエピソードに、先生の感性のあり方が示されていたように思えるからです。

例えば、新任1-4年目の時機を振り返り、佐藤先生はそれを「勘違いの時期」と呼びます。その頃は「先生」と呼ばれるだけで嬉しく、せいぜい有名な先生のいいとこ取りをパッチワークで行うだけだったそうです。その頃の自分を佐藤先生は「こういう授業をしたい、とは思っても、こういう生徒を育てたいという願いがなかった」と振り返ります。そしておっしゃったのが「遠くの有名な先生ではなく、身近な同僚の先生に相談すべきだった」と言うことです。この台詞も私は深いと思います。

そんな中、佐藤先生はある時にある人に「よくそんな英語力で教師になりましたね」と言われたそうです。ところが佐藤先生はその台詞に反発することなく、「英語学習者の一人として教壇に立つこと」の重要性に開眼します。この素直さがすばらしい。

さらにある授業では、「誘いを断る英文を書きなさい」という指示で、多くの生徒が模範解答の"I have a lot of things to do".などと書く中で、ある生徒は「アイビジー」とbe動詞なしでしかもカタカナで書きます。これを見た佐藤先生は「これでいい。むしろ発想が素晴らしい。こんな発想ができる生徒を育てたい」と思ったそうです。この感性が素晴らしいと、感性の濁った私などは驚嘆してしまいます。

とっておきのエピソードは、佐藤先生がある難聴の生徒に対応するために、パワーポイントスライドだけで、ほとんど英語の授業ができるようにした時期のことです。そのスライドの一部は講演会でも公開されましたが、そこでは「Be動詞はジャイアン、一般動詞はのび太。共に登場することはないが、(進行形などの時に)共に登場するとジャイアンがのび太に命令して、のび太の形を変えさせる」、「ジャイアンは強いから自分一人だけで疑問文を作れるが、のび太は弱いから疑問文をつくる時にドラえもん(Do)の助けが必要」などと見事なものでした(これこそ学習英文法!?)。

そうしてスライドを充実させてゆく中、ある時に佐藤先生は出張しなければならなくなり、ある先生に授業代行を頼むことになります。その先生に、「これだけで授業はできますから」とスライドファイルを渡した瞬間に、佐藤先生は、「自分はこれだけの教師だけでしかない。生徒とのインタラクションもない教師に過ぎない」と直覚したそうです。「また勘違いをしていた」と瞬時に自覚したそうです。

ここも素晴らしい。私なら他人にスライドを渡すだけで授業ができるようにまで準備した自分に驕り慢心してしまいそうなところを、佐藤先生は、他人に指摘されることもなく、自ら、直観的に自己像を得ます。これがすごい。

人間が自己を理解することは困難です。私などの人間は、まるで粘土で像を作り上げるようにやたらとこねくりまわして、いつのまにか「こうであってはならない。こうならなくては」と自己像から離れた虚像を作り上げ、それをもって自己像だと錯誤してしまいます。他の人は、油絵を重ね塗りするように、何度も描き足し描き足し迷ってしまうかもしれません。人によっては、さらさらと鉛筆書きするように少ないタッチで自分の本質を描くかもしれません。

でも私が佐藤先生の中に見たと信じているような人は、鏡が像を映すように自己像を得ます。そこには言葉も意識もなく、ただ前に立った者の姿が映るだけです。そんな自然な感性は、対人の仕事である教師にとって本質的な重要性をもつことではないかと思います。

とにかくいいお話を聞けました。皆さんの周囲にも佐藤先生のように派手さはないかもしれませんが、自然と場を良いものにしてくれる感性の持ち主である同僚がいらっしゃるかもしれません。私たちはそんな同僚にこそ学ぶべきなのかもしれません。



追記

間違いを恐れ上記の原稿を佐藤先生に事前にチェックしてもらいましたが(私はある方のことを書く時には、できるだけ事前にその方に原稿を見てもらうようにしています)、佐藤先生からは以下のようなお返事をいただきました。一部ですが、そのまま掲載することとします(この掲載についても許可を得ております)。


たくさんプラスに分析していただいてありがとうございます。誰のことだろう???と思えるくらい美化されているような。私は本当にだめなところがたくさんあって、多くの先生方との関わりの中で育てていただいたことの方がずっとずっと多く、「自分一人で授業を作れる」なんて変な自信をもってしまうことの愚かさを日々感じています。その辺りを加筆していただけるとありがたいです。

文字にすると実際よりも大きく見えてしまう怖さを感じつつ、さらに精進しなくては。。。と気を引き締めて頑張ります。先日の発表が、「あ~、またまた勘違い!」と思える日が来るのを楽しみにしつつ、実践を重ねていきたいと思います。

さとうりょうこ








次に萩原一郎先生についてです。


萩原先生のご発表は先生の30年近くの高校実践をまとめたものでしたので盛りだくさんでした。発表資料も大部にわたるものでしたので、ここでは特に印象的だったことだけを書きます。



■教師は価値判断抜きに生徒の応答を観察すべき

生徒は時に英語を次のように理解します。

Love begins at home
⇒家を愛し始める

It is only a drop in the ocean.
⇒海に落ちた

can't
⇒can it (「それができる」の縮約形)


あるいは次のような英文を書きます。

grandmother made accessory a lot of bought. (沖縄修学旅行レポートより)


こういった応答に対して「違うだろう、駄目じゃないか」と叱責することは誰でもできること(そして言っても詮無いこと)でしょうから、教育のプロとしての教師は、ここから生徒の理解の様子を分析するべきでしょう。ちょうど優れた医者が患者を観て「駄目じゃないか、こんな病気になって」などと言っても無用のことを言わずに、何がこのような症状を引き起こしているかを静かに推定するように。温かい表情で語る萩原先生も、「仁術」として授業を行なっているように思えました。



■まずは単語を音読できるように丁寧に指導する

英語の基礎訓練の一つは音読ですが、音読もそれぞれの単語が楽に読めないと、とても英語力をつける訓練にはなりません。しかしおそらくは言語の才能を平均以上に持つ英語教師は、英単語を読めることを当然に思い、単語が読めない生徒に寄り添うことを怠ってしまいます。

萩原先生は、単語の読み方(つまりはフォニックス)も丁寧に行います。生徒がある単語を読めないことがわかると、すぐさまに生徒が読める既修単語を引き出し、そこから分析的な類推で読めない単語を読めるようにします。

そのようにすぐにフォニックス指導ができる一つの要因は、萩原先生が教科書の本文を、すべて一つのファイルに入力していることに求められるでしょう。教科書全文が一つのファイルに入っていますから、例えば"ur"を検索すればその綴りを含む単語がすぐに取り出せます。

当たり前のようでいてとても便利な工夫です。一人で入力してもいいですが、他の教師と協力して入力して(教室内での利用および私的利用のみに限定して)ファイルを共有すれば何かと使い勝手のよいファイルとなるでしょう。丁寧に指導するにせよ、できるだけ仕事を合理化することが重要かと改めて思わされました。



■適宜、日本語で自分の思いを表現させることで、かえって英語を印象づける

萩原先生は、英語による自己表現を重視しています。しかし生徒の思いすべてを英語で表現させようとすることは、多くの生徒にとって負担が大きすぎます。そこで萩原先生がとっている手段は、一文だけ英語で表現させて、その英文に込めた思いは日本語で書かせる方法です。

たとえば「"I will not forget the day when ..."で『自分の忘れられない思い出』を書く」という課題では、生徒は"I will not forget the day when my sister was born", "I will not forget the day when my grandmother died", "I will not forget the day when I retired from club activities."といった英文を書きます。それぞれの生徒はその自分の英文に数行の日本語を付け加え、その英文に込めた思いや背景事情を、英語では表現できない精度で説明します。この追加で、英語も、書いた当人だけでなく読む他の生徒にとっても印象深いものになるかと思います。



■要は、生徒という他人の心を読めるか、感じることができるか

こうして山口県英語教育フォーラムでは、組田先生、佐藤先生、萩原先生の話を連続して聞くことができましたが、その三人で共通していることは、肩肘張らずに生徒の心に寄り添い、生徒の心を理解していることでした。教育方法・技術はすべてその理解に基づいて行われているようにも思えます。決して「最初に方法・技術ありき」ではないのです。

教師という職業においても、要は、生徒という他人の心を読めるか、感じることができるか、が問われているのかと思いました。四角四面の理屈で他人の心をつぶしがちな私としては大いに反省させられます。


このように豊かな学びの機会を主催してくださった、松井先生を始めとした「長州英語指導研究会」の皆さんと、協賛してくださった山口県鴻城高等学校様とベネッセコーポレーション様には心から感謝します。ありがとうございました。





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