2011年11月29日火曜日

Vivian Cookの「多言語能力」(multi-competence)は日本の英語教育界にとっての重要概念である




何度か耳にしたことはあるけれど、"multi-competence"(「多言語能力」ととりあえず訳しておく)の概念のことをきちんと調べていなかったことは不覚だった。日本の英語教育にとって、非常に重要な概念ではないか!

私も慌ててノートのようなものをつくったけど、幸い、提唱者のVivian Cook自身が専用のウェブサイトを用意しているから、この概念について知りたい方はこちらをどうぞ。





あるいは、私が2009年初頭以来懸念し(高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出)、昨日も悲観的な見解を書いた(「授業は英語で行なうことを基本とする」という「正論」が暴走し、国民の切り捨てを正当化するかもしれないという悲観について)について、より直接的に考えるためには、このページを先に読んだ方がいいかもしれない。





この論文(草稿)の大切な所を、ごくごく簡単にまとめておくと、次のようになる(まとめは乱暴なものなので、英語教育関係者はきちんと上のページの原文を読んでくださいね。この私の日本語のまとめを表面的に読んだだけの「ギロン」なんて止めて下さい。私は浅薄で声高な人の「ギロン」が嫌いです)。



・「外国語授業では基本的に母国語を使うな」という主張は、19世紀末の言語教育改革(直接法などを生み出した改革)以来のもので、それはオーディオ・リンガル法などにも受け継がれ、20世紀の不問の伝統となった。

・言語教育の改革を標榜する者はこの主張を受け継ぎ、教室での母国語使用を敵視するが、学習の現実を知る教師は母国語を使い続けた(そして「改革者」から非難を浴びせられ続けた)。

・「外国語の授業は、外国語だけで行うべき」という主張の前提は、整理するなら、(1)第一言語獲得からの類推、(2)第一言語と第二言語を無関係・別物とみなす言語観、(3)教師の外国語使用が学習者のインプットとなる、といったものである。

・前提(1)の第一言語獲得からの類推だが、これは既に第一言語の知識を備え知的にも 社会的にも成熟している第二言語学習者を、言語獲得中の幼児と同じものだとみなす、あまりも乱暴な考えである。

・前提(2)の第一言語と第二言語を無関係・別物とみなす言語観は、1980年代以降の数々の実証的研究で否定されている。第二言語使用において第一言語は様々な形で影響しているし、逆に第一言語使用においても第二言語の影響は見られる。第一言語は、ヴィゴツキーの用語を借りるならば、第二言語学習の'mediation'として有効活用できる。そもそも授業中に第一言語を使わないことによって、学習者の心の中の第一言語の影響が消え去るわけではない。

・前提(3)の教師の外国語使用が学習者のインプットとなる、については、ある程度は当たっているが、「クラスルーム英語」は非常に定型的なものに過ぎないことを忘れてはならない。

・第一言語は、文法説明、教室のマネジメント、生徒個々人との関係づくり、より細やかに学力を見るテスト、生徒の個人学習・グループ活動、などで活用できる。


あと、Cookは第一言語を効果的に使った実践例についても報告しているけれど、これは明治中期以来の英語教育の伝統を誇る日本の教師の知恵の方がはるかに優れているように私は思えます(報告は短いものなので、即断はできませんが)。

また、Cookも言っているように、二言語間での翻訳やコードスイッチングは、モノリンガルのネイティブ・スピーカーにはできない、第二言語使用者特有の能力である。

加えて、第一言語の影響が、週数時間の英語の授業を受けただけではなかなか消え難いのは、私も最近「"I if become soccer player is play hard" あるいはS V Plusについて」や、2010年6月掲載の「文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ― 「は」の文法的・機能的転移を中心に ―」などで書いた通り。

と、書き始めたらきりがないので、ここで終えるけれど、とりあえずは上のサイトをご覧ください。



このような理解は、もし今後、高校現場で指導要領の文字面しか理解していない「偉い方々」が無理矢理に「授業は英語で!」と強要した場合に、生徒の「わかる授業・できる授業」を守るための武器となるでしょう。











Video by TESOLacademic.org (http://www.tesolacademic.org/)








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