組田先生は、日頃は見捨てられ話題にされにくいトピックを扱っています。それは英語ができないままに進学してしまった生徒たちです。挫折感や劣等感に苛まされ、その上(私のように)そういった事情をきちんと理解していない教師に、言う方には悪意はなくとも聞く方からすれば自分の存在をまるごと否定されるような言葉をかけられてしまう生徒たちです。
こういったリメディアル英語教育について組田先生は、ひつじ書房の『成長する英語教師をめざして 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』でもかなり書いてくださっていますが、もちろんこのトピックはそれだけでは終わりません。今回の話は、この本を共に編集した私にとっても非常にためになるものでしたから、リメディアル英語教育についてほとんど何も知らない学生たちには、またとない学習機会になったことと思います。
教員になる人はほとんどの場合、露骨な言い方をしますなら、大学を出るだけの所与条件(家庭状況や知能指数など)に恵まれています。ですから、経済的にも認知的にも進学なんてまるで考えられない生徒の状況はなかなか理解できません。状況理解も難しいわけですから、心理的な共感はさらに困難です。そのような理解不足の中で、新任教師が、指導にとって最も重要な最初の数週間・数ヶ月を混乱したまま過ごすことは、その教師だけでなく、生徒にとっても、さらにはその生徒の保護者にとっても、いや誰にとっても幸福なことではありません。
ただこのリメディアル教育というのは、語りにくいトピックです。私は先ほどから「教育困難校」という表現を使ったものか、それとも使わずに済ませられるかと呻吟しながら文章を書いていますが、世の中にはさらに差別的な「底辺校」と言った表現すらあります。私たちのものさしを学力試験の偏差値から人間的成熟に変えるなら、「教育困難」や「底辺」といった言葉の使い方も変わってくるかと思うのですが、学力試験的学力観に偏った現代社会は、理の当然として存在する偏差値の「下半分」の学校に、とかく不名誉な烙印を押し、その学校の生徒と教師のやる気をそごうとしています。
今回、組田先生がお話下さった内容は、組田先生に改めて(できれば書籍の形で)文章化していただければ嬉しいと勝手ながら願っています。この話題は丁寧に、そして具体的に書かなければならないからです。これは私がまだ一人で考えているだけのことですが、私は可能なら、大学進学をしないことが当然視されている高校での英語教育についての本を編集して出版したく思っています。大学進学や学習指導要領などのタテマエが通じない現場でこそ、英語教育と英語教師の真価が問われるからです。そのような現場で、世間からの脚光もほとんど浴びることなく、知恵と努力と使命感ですばらしい実践をなさっている先生方の存在を私は承知しております。そのような現場に、その現場が当然受けるべき光を導きたく思っています。
英語教育も、日頃は成績上位の「エリート」ばかりに注目しがちです。しかし日本の真価はエリートよりも庶民にあります。3.11以降に改めて明らかになったことは、日本のエリートが存外に無能である一方(過去記事:「日本再生は「現場」の人間がやる。日本の「偉い人」をこれ以上のさばらせない。(その1:日本の「偉い人」)」)など今年4月5月の記事をお読みいただけたら幸いです)、被災地の「庶民」が見せた助け合いの心・我慢強さ・しなやかさ・回復力などは驚くべきのであったことです。諸外国メディアが、被災者の態度に感銘を受けたことは記憶に新しいと思います。
日本は、「庶民」の品位と教養が高いことをその国力の源泉としています。「庶民」が、利己主義の亡者でなく、他人を思いやる心を有していることが、近世以来諸外国の人々を驚かせていることです。
しかしその日本の国力とて未来永劫続くとは限りません。もし日本のエリートがこれ以上利己主義の亡者になり、「自己責任」や「競争原理」といった言葉を乱用し、人々を次々に切り捨て、一部の者だけが利権を恒常的に貪るような体制づくりをさらに進めていくなら、私たちは他人を思いやることではなく、他人を上手に見捨て切り捨てることこそが「学び」と錯誤するようになるかもしれません。古今東西の賢人がそろって戒めている我欲・我執がますますはびこり、日本の庶民の品位と教養も失われてゆくかもしれません。
学校の勉強が得意な者がいれば、不得意な者もいる。これは理の当然です。しかし、学校の勉強が人生や社会のすべてではない。だから学校の勉強ができない者も、自らの人生を幸福にし、その周りの仲間・共同体・社会を共に豊かなものにできるようなやり方で、きちんとした教育を受ける権利を有します。「すべて国民は、個人として尊重され」(日本国憲法第13条)、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」し(同25条)、「法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」(同26条)ことこそが、「この国のかたち」(constitution)です。
ごめんなさい。私の悪い癖で熱くなりすぎました。社会正義を語ろうとする者は、自らの中に「正義」という名のもとに結集してしまったものの凶々しさを十二分に自覚しておかないと、やがては自他を破壊してしまうのかもしれません。私たちは「正義」を忘れるわけにはいきませんが、他方「正義」ほどに恐ろしいものはないことは、歴史や文学が明らかにしている通りです。
この点、組田先生は、まるでジョージ秋山の漫画『浮浪雲』の主人公のように飄々とリメディアル英語教育を語りました(ちなみに組田先生を理解するためには、講演会だけでなく懇親会にも行く必要があることは一部関係者が激しく頷くところです(笑)。懇親会で示すような組田先生がなければ、組田先生も自らの正義に絡め取られてしまうのかもしれません(注1))。あるいは(格闘技に興味ない人ごめんなさい)、組田先生のスタイルはロシア武術のシステマにも似ています(注2)。力みのない自然体だから、俗世間の考えで固まってしまった私達からすれば、驚くほかないほど理にかなった動きが出てきます。
以下は、私なりに感じたことの駄文です。本格的な文章は、特に英語指導の具体的なあり方については、上にも書きましたように、できたら組田先生の出版物に待ちたいと思います。
■「正論」の怖さ
教師はついつい「正論」を語ります。しかも問題を抱えている生徒や保護者当人に対して。あたかもその当人が問題を理解していないように。そんな「正論」は当人にとって責めの言葉にしか聞こえません。だから当人は心を閉ざしてしまいます。時に敵対しようとします。そうすると教師は、「正論」を聞く耳持たないとは信じられないとばかりに、当人をますます否定的に扱います。
これは、私もしばしばやっていることです。お恥ずかしい限り。自分が未成熟だから、他人の欠点を受け入れられないのでしょう。あるいは自分が不安だから、他人を見下すことで精神の安定を得ようとしているのでしょうか。いや、自分の心身が焦燥しているから、そのイライラを他人にぶつけているだけなのかもしれません。いずれにせよ、これでは教師失格です。正論を言わなければならない教師こそ、正論の語り方、あるいは正論についての沈黙の守り方を学ばなければなりません。組田先生のエピソード(成功、そして失敗)は「正論」のあり方についていろいろと考えさせてくれるものでした。
■スローガンはいつ唱えられるのか
正論と重なるのがスローガンです。無能な人は管理階層の上に行けば行くほど、他人にスローガンを押し付けるようになります。もちろん、私達が五里霧中の状態にある時には、進むべき方向を簡明に示すスローガンは必要ですし有効です。ですが、私達は他人を管理する立場になると、必要以上にスローガンを乱用しようとします。
正論と同様、スローガンもひょっとしたら管理者の焦りであり不安なのかもしれません。青筋を立ててスローガンを連呼する人がいたら、気をつけましょう。私たちはその人がスローガンを連呼しなければならない社会構造を理解しようと努力しつつ、その社会構造が生み出す歪みを警戒し、冷静に社会構造の修正と改革を考えるべきでしょう。
社会構造あっての人間ではなく、人間あっての社会構造です。高度に複合化した現代社会で、全面的改革は不可能ですし、そのような試みはかえって悲劇を招くだけです。しかし、私達にやれることは、スローガンを連呼せざるを得ない人の歪みを敏感に察知し、そのような焦燥に静かに首を横に振ることです。一人の否定はわずかなものですが、多くの人々がそれぞれの機会にそれぞれのやり方で否定を重ねれば、それは確かな力になるはずです。スローガンの硬直した連呼には、力みのない静かな否定で応えたく思えます(無論、多くの人の否定にもかかわらず権力者が横暴を止めないなら、私たちは静かに次々と立ち上がるべきですが)。
■技法と心法
組田先生はさまざまなエピソードを紹介しながら「技術や理論が完璧だったら魂が揺さぶられるか」、「どうして英語教育では技術の話題が多くなってしまったのだろうか」と問いかけます。多くの英語教師は、大学受験や標準テストの数値、あるいは「英語ぐらいできないと・・・」といった自分でもきちんと検討したわけではない通俗的なスローガンや学習指導要領の片言隻句によって、いつのまにか自分が教師になった初心を忘れ、目の前の生徒の姿を正面から見ることを怠ってしまいます。
ある教育技術に心酔しはじめた英語教師は、技術だけを独立して語る不毛な技術論ばかりをネットや授業研究会や学会で重ねます。技術は、もちろんのこと、教師・生徒・学級のキャラクターや能力、発達段階や機運、そして何より教師の願い・哲学によって毒にも薬にもなります。そういった要素を「ノイズ」として切り捨てる研究は、数千・数万人対象のマクロな調査ならともかくも、数十人対象のミクロな調査では、何とも結論を出し難いものにすぎません。
しかし多くの英語教育関係者は、そのようなミクロな調査の結果だけをもって(時にはそういった調査なしの思い込みだけで)ある技術の卓越性を信じて疑わず、それを他人・他校に普及させようと、(言葉の悪い意味での)「宗教」的態度に堕してしまいます。そんな現状を踏まえて組田先生は、「技術を捨てる勇気も大切なのではないだろうか」と問いかけます。極論を言えば「ベースに生徒の成長を思う気持ちがあれば、どんな方法だって生徒にはプラスになる」からです。
「心」を忘れた技術論は不毛、時に有害、と言えましょうが、これが芸道で世界を驚嘆させた国で流行していることも皮肉なことです。いや、近世までの日本を否定しかねない勢いで西洋化を推進してきた英語教師の末裔だからこそ、私たちは心なき技術論に絡め取られてしまっているのでしょうか。
古来、日本は芸道の学びにおいて技法(技術論)と心法(心のあり方)を、表裏一体、不可分なものとして統一的に扱ってきました。武術にしても、ほんのわずかにしか学んでいない私のような半端者にすら、心法なしに決して技法は修得できないことが身をもってわかります(このあたりを最もよく伝えている流派が、前のエッセイで軽くふれた柳生新陰流かもしれません(注3))。
「近代化」されすぎてしまい、「ポスト近代」の視点で自らを振り返らない現代の私たちは、「技術だけでは駄目で心が大切だ」と言われれば、「ハイハイ、おっしゃる通り、心は大切ですよね」と表面だけは頷きつつも、技術(技法)は心(心法)と相即し不可分であることが理解できず、せいぜい技術論とは離れ独立した形で道徳的なお説教を聞こうとするだけです。そうではなく技法と心法が密接に具体的に融合している身心の文化こそが、西洋人を驚かせた近世日本人の文化であるわけです。
短兵急で一面的な西洋化・近代化は、時代のなさしめるところであったにせよ、21世紀の私たちは、日本文化が本来有していた近代以前のよさを思い出し、それを近代的に分析して、その前-近代的文化を西洋的近代に注入し、近代的な身心のあり方を内側から作り変えることができるのではないでしょうか。日本という国で英語教師をやっている私にとって、こういう課題は世界史的課題であるとさえ思えてきます。
と私の悪癖の熱くなる癖は暴走し、中2病まで再発症してしまいましたが(爆)、組田先生は、このあたりも「教える技術と心をつかむ技術は共通しているところが多い」とあっさりとおっしゃっています。私のような人間では、『浮浪雲』の青田先生よろしく四角四面にしか語れないところを、組田先生は飄々と語っていました。
もしかしたらその話し方こそが私達が身につけるべきことなのかもしれません。
⇒組田幸一郎先生ブログ「英語教育にもの申す」
⇒組田幸一郎先生のエッセイも含む『成長する英語教師をめざして 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』
(注1)にしてもさ・・・(爆)。
(注2)これも褒めすぎ(笑)。
(注3)ウェブで入手できる資料としては、加藤純一先生による「柳生新陰流の総合的研究 : 心法と技法の統一を中心として」(筑波大学博士 (体育科学) 学位論文・平成11年3月25日授与 (乙第1527号))があります。私も先ほど見つけて、まだ最初の部分しか読んでいませんが、備忘のためここにURLを記しておきます。
2 件のコメント:
組田先生の講演、リメディアル教育まっただ中にある私としては拝聴したかったのですが、ちょっと遠くて。。。が柳瀬先生のブログを読み、概要だけでもわかり感謝です。英語が苦手となっている一因としては、動機づけ研究でも自己効力感が大きいとされており、偏差値教育を経て劣等感が刷り込まれていることの影響の強さを実感する日々です。私の場合は、幸い?数学や物理が苦手なので、学生の理系の授業ノートを見せてもらうことで、彼らの英語に対する気持ちを共感したり(笑)、優秀過ぎて挫折も全くなく、勉強に苦労したことのないエリートよりも、苦学して努力の大切さを知っている人の方が多様な人の気持ちが理解できるし、社会では後に大成する、との持論を説くことで、自己効力感向上に奮闘する日々です。書籍化、期待したいです。
Macchacake さん
コメントありがとうございました。
私のブログ記事は、組田先生のお話のほんの数%だけを表面的になぞったものです。
このトピックは、ことさらに丁寧で具体的な記述が必要だと思います。
組田先生が広島と山口で計4時間以上かけて、聴衆とのアイコンタクトを取り信頼関係を築きながら丁寧に語っていったことを私が簡単に言語化することなどできません。
おそらく組田先生自身が、今回のお話を活字化するにせよ、ずいぶん苦労するでしょう。
しかし私たちは少しでも、そのようなことを適切に語れる文体や形式を育てたく思います。
また、「優秀過ぎて挫折も全くなく、勉強に苦労したことのないエリートよりも、苦学して努力の大切さを知っている人の方が多様な人の気持ちが理解できるし、社会では後に大成する」というのもまったくその通りだと思っています。
これは私の個人的見解で、また言い方も気を付けなければならないのですが、もし小・中・高で学校と塾と家庭の三箇所を言ったり来たりしているだけで、家の手伝いも部活も学校行事にも参加せず、勉強以外にやっているのはせいぜいゲームだけといった児童・生徒がいたら、その保護者に「お願いですからそんな短絡的なことをしないでください」と懇願したいぐらいです。
大人の浅薄な考えが子どもの一生を歪めてしまうことが本当に怖ろしいです(半分以上は自戒の言葉ですが・・・)
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