2011年11月13日日曜日

二つの武術セミナー

立て続けに二つの武術セミナーに参加しました。単なる武術ヲタで、実際には何もできないに等しい私としては、私ができない技術について色々書くことは避け、その時私が(一知半解のまま)考えたことをここに書いておきます。こうして書いておけば後年私が読んで、自分がいかに愚かであったかを思い知ることができるでしょうから。


■刹那を無窮に生きる

武術の技は、決まる時には刹那の瞬間に決まります。しかしそれではその刹那の瞬間だけが良ければいいのかと言えば、そうではなく、その刹那の瞬間の前も後も重要です。言うまでもなく前が駄目なら刹那の技も出せず、後が駄目なら技が決まった直後に他の相手から攻撃を受けてしまうかもしれないからです。

ですから、技に至るまでも間断がなく、技が刹那の瞬間に完結した後も、動きの均衡は連綿と展開していなければなりません。

二つのセミナーでのそれぞれの先生方の動きは、まさに完全と言いたいような全体的調和の瞬間が間断なく連綿と続くものでした。一つの固定的な動きがずっと続いているのではなく、それぞれの瞬間において完結している刹那が、無窮に続いているといった感じです。

動きを見ている私たちは稠密な時間を過ごしているようでした。時間が日常的感覚とはまったく異なる濃い密度で過ぎてゆきます。自然な速度の普通の動きを日常的な時間で見ているはずなのに、スローモーションで見ているようです。それだけ身体の動きが緻密に細分化されているのでしょうか。

細分化されているといっても、動きに断絶はありません。まったく滑らかです。また断絶がないといっても、単調な直線運動でもありません。おそらくは瞬間ごとに身体全体が絶妙にその最適均衡を達成しつつ動くため、動きは微細で精妙な変化に満ちています。

今、こうやって文章を綴りながら、私はわずかながらでもお二人の先生の動きを思い出しているのですが、しかし私のイメージは非常に弱くおそらくは歪んでおり、文章力も拙いので、これ以上表現することはできません。ご興味を持たれた方は、ぜひ近代的スポーツとなってしまった「武道」とは異なる武術の達人の動きをぜひどこかでご覧くださいとぐらいしか言えません。あるいはミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだことのある方は、モモが「時間の国」で見た「時間の花」を思い出してくだされば、私が言いたいことはわかっていただけるかもしれません。



■意識は自然を取り戻せるのか

人間は意識を持ち始め、さらには書き言葉、印刷媒体、さらに昨今では電子媒体も持つことで、意識を増幅・増大させ、世界を次々に標準化することを学びました。その結果、現代人は多くのテクノロジーを手にしています。

しかしそもそも方便でしかなかったはずの、標準化された認識は、蓄積されやがて固定化し惰性的に使われ始め、人間は自らの自然を損ねてしまったのかもしれません。標準化された発想でどこにもかしこにもテクノロジーを押し付けて、人間の外の自然を破壊し、人間の内の自然 ―感情であり思念であり身体の動き― もその精妙さを失ってしまったのではないかと思えます。

お二人の先生の動きを見て、お話を聞いていると、武術とはそんな人間の意識によって損なわれてしまった自然を回復する試みなのか、とも思えてきました。人間が本来もつ精妙さを取り戻せば、文明の怠惰により自然の感覚を失ってしまった近代人には驚くしかないような身体の動きと、それに伴う心の正明さを、人間は体現できるのではないでしょうか。それこそは生の喜びであり、身体による宗教的表現とすら言えるものなのかもしれません。

しかしこの自然の回復は、人間が動物化し、意識および意識から発展した理性を失うことによってはなされません。そうでなく、かつては自然を損ねた意識を捨て去ることなく、しかしながら意識の使い方を根源的に変えて、より高いレベルで意識を使いこなすことで自然を取り戻すことが武術だと思います。

スポーツ化された「武道」を武術によって相対化し、武術の理を身体で学ぶことは、そのまま近代を問い直すポスト近代的課題だと私は考えます。大げさな言い方になってしまいますが、日本に生まれた私は、誇りをもってこの課題に取り組んでゆきたいと考えています(←中2病 爆)。

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