2011年11月6日日曜日

増田俊也(2011)『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』新潮社

[私の場合、他人様から見れば愚にもつかぬ文章を自分自身のためだけに書くことは、自己回復と自己発見の試みだ。ここでは出張の行きがけに読んだ本のことを書いておく]

私は本書の存在を知ってはいたが、題名からきっと興味本位の本だろうと決めつけていた。しかし、ある書評で本格的な評伝だと知り即購入し、新幹線の中で読んだ。素晴らしい本だった。ドキュメンタリーの傑作だと私は思う。

筆者の増田俊也は、稀代の柔道家であるこの木村政彦を愛している。しかしその愛は、在学時代に自らも柔道に勤しんだ筆者にとって敬意に充ちたものである。その敬意から筆者はあくまでも真実に忠実にあろうとする。それは各種の本の記述を鵜呑みすることなく、当時の新聞記事を地方版にまでわたって丁寧に読み、新事実を発見するというところにも現れている。その結果、二段組みで701ページの本書は一気に読めるものになっている。

木村政彦を中途半端にしか知らない大半の読者(私もそうだった)は、やはり力道山との一戦に注目するだろう。一体あの試合は何だったのか。背後に何があったのか。本書は冒頭でその試合の様子を再現した後、その秘密を明かそうと木村政彦の生涯をたどる。その過程で力道山、大山倍達、中村日出夫、塩田剛三、そして木村の師である牛島辰熊や、柔道に合気道的要素を取り入れる阿部謙四郎などの生涯も語られる。記述は重層的で多面的で、安直な決め付けを避ける。その中から戦前、戦中、戦後の社会のあり方が浮き上がってくる。さらに講道館正史では隠されていた柔道・柔術の諸事実が次々に明らかになってくる。現代の私達が持っている「柔道」の観念とはいかに一面的なものであるのかがわかる。

本書は、木村政彦と力道山の一戦を扱った第28章あたりで山を迎える。580ページで、一戦の背景を知りその映像を見た高阪剛のもらす一言に私もぐっときてしまった。そうしてついに筆者が下す582ページの結論に私は一瞬涙が出そうになり、新幹線の中でしばし本から目を離さなければならなかった。

だがその山を過ぎても本書は読者をぐいぐいひっぱる。それは本文最後の689ページで明かされる新事実があったからだ。さらに「あとがき」の後に掲載される一枚の写真。ここに写った男を、愛し敬せざることは私にはとてもできない。木村政彦こそは不世出の柔道家であった。まさに木村の前に木村なく、木村の後に木村なき存在であった。


来年から中学の体育で武道の一貫として柔道も教えられることになるという。武術の専門誌『月刊 秘伝2011年9月号』は、特集「武道教育とは何か?」で、中学校での安易な武道教育に対するに対する懸念を表明しているが、中学校で柔道を教える体育の先生にはぜひ本書を読んでいただきたい。

生徒が学ぶ柔道というのは、このような柔道家によって作り上げられてきた武道であることを理解していただきたい。さらには本書ではほとんど触れられていないが、木村の柔道とて、それなりに競技化された明治以降の柔道であり、明治以前の人の生き死にと直接に結びついていた柔術は、木村の柔道ですら到達し得ないかもしれない次元での深遠さと術理をもつものであったろうことも理解していただきたい(参考:内田樹『武道的思考』)。

もし中学への武道導入が、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」(教育基本法)を目指すものならば、武道をスポーツと混同したまま教えることは許されないはずだ(まあ、この本を読むまで柔道のことについてほとんど知らなかった私が偉そうにお説教できる筋合いではないのですが ←馬鹿は死ななきゃ治らない 笑)



⇒『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』


追記

以下のビデオは、私がこの拙文を書く際に見つけたもので、本書にも出てくる人物の写真や映像が出るのは本当にありがたいのですが、いかんせんテレビ用に安直に作られ、やたらと糖衣をつけ、その反面語られるべき人間や社会の深部などは描いていません(特に力道山との一戦の描き方などは本書を読んだ私などからすれば腹立たしい程です)。下のビデオを見るだけで本書を読んだつもりになることだけはぜひお避け下さい。やはりテレビには明らかな限界がある。















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