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学校を卒業する時に、生徒・学生は「自律的学習者」となっていなければならない、というのは最近の流行り言葉である。だが『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』の書評(大修館書店『英語教育2011年11月号』)でも書かせてもらったように、「自律的学習者」とは孤立した学習者ではない。自らを対象化しつつも、周りの人々や環境とうまく相互作用を引き起こすことができるのが「自律的学習者」だ。
社会では、「孤立的学習者」の秀才は大成できない。孤立的学習者の秀才は、一人で受験する試験で優秀な成績を収めるが、それは学校で必要なものをお膳立てされた上でのことであるに過ぎない。
しかし社会での学びは、学校での学びと異なる。「考える・調べる・尋ねる」でも書いたように、社会では働くことが本業であり、学ぶことを専門的に支援してくれる教師は基本的にはいない。社会人は自ら学ばなければならない。
だが自ら学ぶといっても、一人でやれることは限られてくる。やはり先輩・経験者から教えてもらいたい。師を見つけて教えを受けられれば最高なのだが・・・
しかし社会の先達は、職業的な教師ではない。先達も自分の仕事に忙しく、学校教師のように懇切丁寧に新人に教える暇など見いだせない。そもそも(特別に指導役を命ぜられていない限り)社会人に新人を教える義理も責任もない。
だが先達も鬼でも不人情でもない。自分自身も苦労してきたのだし、人間には社会的な協力心が備わっているのだから、新人を助けたい気持はある。だが、すべての新人に一から十まで教える時間はない。自ずと「見込みのある奴」だけが選ばれることになる。
このあたりの事情を『新陰流サムライ仕事術』は次のように記述する。
本当に全部、というか仕事の奥の奥まで理解する人なんて稀だ。昔の人はそれを知ってて、全員にカリカリ教えたりはしなかった。よく弟子を見ながら、その時に必要なことを説いていく。素質があって、技を盗む目もあって、やる気もあって、技を得ても謙虚で、その技をいい形で使える徳もある・・・そういう人を選ぶのさ。選ぶというか、そういう総合的に心ある人物にしか、教えても全体が理解、体得できねぇんだと思う。(159-160ページ)
最近は、一般社会の会社でも、どんどんとマニュアル主義がはびこって、マニュアルを配り、チェックリストに回答させたらそれで社員教育は終わりで、それで仕事を失敗したら後はその社員の「自己責任」といった嫌な風潮が蔓延しているようにも思えるけれど、本当に生産性の高い会社では、上記の引用な形で学びがなされているのではないだろうか。
こうなると社会での学びというのは、周りの先輩に思わず「教えたい」という気持を誘発することを本質の一つとしているのかもしれない。気持を誘発といっても、それはおべっかやらおべんちゃらによるものではない。真摯な探究心、筋の良い問い、我欲のない行動・・・そういった姿勢が、周りの気持をほぐし、周りの自然な協力心を引き出す。
社会での学びとは、場を活性化する能力、だと一般化できるかもしれない。新人が、拙き者が、その場に素直な気持をもたらし、場が生命力を取り戻すからだ。
このように社会での学びを「場を活性化する能力」とするなら、今の学校は、卒業するまでに生徒・学生にそのような能力を育んでいるのだろうか、という疑問が生じてくる。
悲観的にいうなら、指示されなければ1ミリたりとも動かないように甘やかされ、褒めてもらえなければ不貞腐れ叱られればハラスメントだと憤慨し、獲得した知識・技能は自分の権益のためだけにしか使わず、共同体や社会のことなどほとんど考えないような学習者を現代の学校は構造的に生み出す傾向にないだろうか。
各教科の先生は「説明責任」を果たしているという「エビデンス」を得るため、標準化されたテストの点数を上げることに専念する。得点向上のため、すべてをお膳立てする。部活や学校行事などの共同作業は、個人受験のテストには直接的には役に立たないのだから、そういった課外活動はせいぜい息抜きのためにやらせておくに留める・・・。
もしそのような教師が教育政策に後押しされますます増えるなら、日本の学校は社会で学ぶのが下手な若者ばかり輩出するだろう。それが日本社会の衰退につながることは言うまでもない。「いや、エビデンスをご覧ください。成果は上げたのです」と教育行政は言うかもしれない。ちょうどブラック・ジョークで医者が「手術は成功しました。患者はお亡くなりになりましたが」と言うように。
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うーん、どうも自分の中に滞りがあり、うまく書けない。でもまあ、私の駄文はさておき、この多田氏の本は、私達の近現代的な凝り固まった心を軽くほぐしてくれます。語り口は軽妙で読みやすい。まあ、次のような言葉の意味がわかるだけでもいいとは思いませんか?(引用は私が勝手に現代仮名遣いに変えています)。
勝たんと一筋に思う、病なり。・・・
病を去らんと一筋に思ひ固まるも病なり。
何事も心の一筋に留まりたるを病とするなり。
病気にまかせて、病気のうちに交りて居るが、病気を去ったるなり。
本心と申すは、一所に留まらず、全身全体に延び広がりたる心にて候う。
幾千万の工夫をめぐらして、剛を父とし、弱を母とする。
行住坐臥、語裡黙裡、茶裡飯裡、工夫を怠らず。
一眼ニ足三丹四力
⇒『新陰流 サムライ仕事術』
⇒『自分を生かす古武術の心得』
2 件のコメント:
柳瀬先生今晩は。
6年生を卒業させる時には、「自分の力だけでやっていけるほど、世の中甘くないよ。ヒトにかわいがられる人になりなさい」「えこひいきされる位にならないとだめだ」「まわりの人に助けてやろう,教えてやろう,支えてやろうと思ってもらえるような人になりなさい」「そのためには、人の話を素直に真面目に聞くこと、挨拶や笑顔、感謝を忘れないこと」などと言って聞かせてきましたが、同じことなのでしょうか。
自分を振り返ってみたら、若い頃の方が生意気だったように思います。今の方が謙虚に考えたり学ぼうとしたりする気持ちがあるように思います。そういうことの反省もこめて、子どもたちにいうんですけど、若い者は理解や想像が進まないのでしょうね。
ポッピーママさん、おひさしぶりです。
「まわりの人に助けてやろう,教えてやろう,支えてやろうと思ってもらえるような人になりなさい」「そのためには、人の話を素直に真面目に聞くこと、挨拶や笑顔、感謝を忘れないこと」などというのは全く同感です。
ベテラン並みに仕事をこなす新人にはなれませんし、なろうとしても失敗するだけですが、すがすがしい新人にはなれますよね・・・と、昔は生意気だったおっさんが、自分のことは棚にあげてコメントをしてしまうのであった(笑)。
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