2011年11月6日日曜日

『千と千尋の神隠し』

馬鹿は死ななきゃ治らない。今回も仕事しすぎて、ほぼ同時期に重なった4つの締め切りが終わると同時に風邪を引き、一週間はまともに仕事ができなくなった。締め切り前は、自分でも驚くぐらい集中できたのだけれど、それは危険信号であるということを、自分はまだ学習していないらしい。その結果、締め切りをなんとかクリアーすると同時にほぼダウン状態。自分でもよくこんなに寝れるなと思うぐらい寝たのだけれどなかなか体調が戻らない。文化の日も一日中横になっていたけど、さすがに24時間は眠れず、かといって本を読む気力もないので、宮崎アニメDVDを再視聴。『千と千尋の神隠し』。でもこれがよかった。

私の業界話にかこつけて話してしまうなら、この映画の主人公であり、いきなり異界に叩きこまれ、魑魅魍魎の存在の中で働かなければならなくなった10歳の女の子千尋は、それまでにようやく自分の好きな世界を創り上げかけてきた大学生が、卒業後いきなり教育困難校に配属され、とにかく自分の想像を超える世界の中で働かざるを得なくなったことに喩えられる(笑)。千尋は手足も細くひょろひょろで、まともに挨拶をする世間知も持たないぐらいの鈍臭い泣き虫で甘えん坊の女の子だが、いきなり教育困難校に配属された新人教師よろしく、とにかく働かなければ生きて行けない状況に追い込まれる。

「嫌だ」とか「帰りたい」と言えばすぐに動物に変えられてしまう異界の中で、千尋は見ているこちらが驚くほど素直に自分の運命を受け容れる。他方、異界の登場人物の異形ぶりは、もう笑い出すぐらいのもので、これは映画を見ていただくしかないが、その異形は、初めて実社会で働くことになった新人が見る世界の象徴的表現としても見ることができる。もちろん実社会で働き始めた新人の労苦はこんなものではなく、睡眠時間を剥奪され、生徒に罵られ、学校の出来事に追い立てられ、事務仕事に忙殺されと、まさに文字通り身を削られるようなものであり、笑い事ではとてもないが、これは映画、娯楽作品。少女が感じる違和感を、寓話的にユーモラスに表現している。実社会というのは、まあ、いかがわしく摩訶不思議なところだ。

働かなければ動物にされてしまう異界で、石にかじりつくようにして仕事を得た千尋は、仕事場の主である湯婆婆(ゆばーば)に名前を奪われ、「千」(せん)と名付けられる。湯婆婆はこのように本当の名を奪うことにより、その者を支配するのだ。

やがて千は仕事場の大きなトラブルを押し付けられるが何とかそれをこなす。その一方で無知からとんでもない災厄を招いてしまう。世間知のない千にとってこの災厄を収めることなど不可能に思える。実際、私が少々世間知に長けた存在としてこの異界にいたなら、千は仕事を辞めるべきだとか、こうすればいい、ああすればいいと俗論を繰り返しているだけだろう。(このように役に立たぬ正論をまくしたてる御方は世間にごまんといる)。

しかし千は、自らの本当の名前を忘れていなかった。異界でくたくたに働かされる存在でありながら、少女の心を忘れていなかった。差し出される砂金を淡々と拒み、災厄の主であるカオナシに語りかける。それは誰もがやれなかったことだった。やがて頑固者の老人(釜爺(かまじい))、年上の気の強い同僚リン、小さなススワタリ(トトロの「まっくろくろすけ」)も自然に千(千尋)を助ける。打算などとはまったく関係なく自然に千(千尋)に心を寄せる。それは千(千尋)の心が、仕事の打算や利害得失とはまったく独立した、自然であるからだ。自然は自然を呼び、自然と自然は自然につながる。

千(千尋)はさらに、異界に来た当初自分を助けてくれたハクも助けようとする。釜爺はそれを見て「愛じゃよ、愛」というが、この愛は、いわゆる男女の性愛を超えたものである。ハクは、実は千尋が小さい頃に住んでいた地域の川を司る神であった。その神はかつて川で溺れかかった千尋を助けたし、その事を忘れてしまっていた千も竜に形を変え苦しむハクを助ける。両者とも共にそれは惻隠の情とも言うべき自然な行為で、そこに男女の性愛にしばしば見られるような自己陶酔や独占欲などはない。実際、ハクと最後に別れを告げなければならない千が言ったのは「また会える?」だけだった。千(千尋)は、内なる自然に生きる少女なのだ。

その少女はやがて、湯婆婆と仲の悪い双子の姉である銭婆(ぜにーば)のもとへと向かう。傍で見ている者にとって、これはもう荒唐無稽で無謀極まりない行為だが、千(千尋)は「だって銭婆に謝らなければならないから」と向かう。その際に災厄の主であったカオナシも同行させる。そんな千(千尋)に、湯婆婆のわがまま息子である「坊」はついて行く。

もうこの辺の知恵というか発想は、計算では絶対に出てこない。計算高い世間知を学術用語で言い換えて誤魔化しながら人生を生きているような私ではとても思いつかない。ましてや実行できない。それをこの手足の細い少女は、淡々と実行する。

彼女の知恵は身体から来ている。彼女の内にあり、彼女の外ともすべてつながっている自然により彼女は動く。彼女は自然体で神々しいとすら言える。だが大仰な所作とはまったく無縁だ。華美でもなければ妖艶でもない。見方によっては彼女はひょろひょろとした女の子に過ぎない。ただ彼女は、計算高い男性や、そんな男性に自分を似せることに専念する女性がよってたかってもなしとげえないようなことをやってのける。彼女は女性の自然である。だから彼女は自然に美しい。ちょうど自然の草木がそのままで美しいように。

私達のこの世界でも、時に計算的合理性をはるかに超える出来事が生じる。小さくは職場のトラブル、大きくは今回の震災や原発人災。そんな時に、人々を救い、世界をかろうじて保つのは千尋のような自然な女性性なのかもしれない。男性性は近代社会においてあまりに肥大し過ぎてしまった。千尋のように、身体の自然により淡々と事をなす、あるいは事を待つ女性性、悪意はおろか善意とも無縁に、ただそのままに在ろうとする女性性こそが、世界の始まりからあったことであり、私たちはそれを忘れてはならないのかもしれない。

だから、職場の魑魅魍魎の中で疲労困憊する新人も、大切な事は生き延びて自分の本当の名前を忘れないことなのかもしれない。新人が仕事をうまくやれないのは、いわば当たり前だ。だからといって子供じみた居直りをするのでなく、千(千尋)のように子供のような素直な心で大人の世界に慣れ、かつ自分の中の自然を失わないことこそが職場の新人がやるべきことなのかもしれない。

俗の苦しみの中で自分の本当の名前を失わないで。そのためになんとか生き延びて。疲れたら泥のように休んで、とにかくなんとか働き続けて。そうすれば人々は、そんなあなたこそが、この世界の小さな救世主であることをいつか感謝の念とともに知るから。外見的には目立たない、しかし実は神々しい救世主であることを。やがて人々はあなたを愛し、あなたに愛されることを望んでやまなくなるから。




・・・と、自分の内の自然を忘れかけた仕事中毒は、治らぬ風邪の症状の中で、このようにただただ恥ずかしい文章を綴り、それをあろうことかブログに掲載するのであった。


馬鹿は死ななきゃ治らない。


追記

映画後半で、千が千尋の服を着て次々に問題解決をする様はすばらしい。まさに迷うことなくただ自然に事をなしてゆく。ハリウッド映画の文法なら、主人公が呻吟したり熟考したり、あるいは解答のヒントや幸運なアクシデントを外から得たりしなければならない状況で、千(千尋)は逡巡することなく行動し、またそれがことごとく的確なものである。

日本文化には心身定まり、何にも居つくことなく自在に動けば、それがすべて最適解になるという思想、そして事実があるけれど、この映画を見て多くの日本人が「なんでこんなに簡単に問題が解決するんだよぉ」、「フツー、そこでは悩むだろ」、「こんなヒントなしの正解なんてあり得ねー」などと思わず、「うん、こういう時は、こういうもんだ」と違和感なく話の筋を追って行ったら、私はそれこそが日本文化の底力だと思う。ウィキペディアによれば、この映画は、2011年現在でも日本国内の映画興行成績における歴代トップであるとのことだが、老若男女このような映画を楽しんで見ているとなれば、私はこの国の民度は極めて高いと思う。




⇒千と千尋の神隠し (通常版) [DVD]

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