2008年6月6日金曜日

世界を心に閉じこめる近代人

私たちは、あることがわからない時、それを実験で明らかにしようとしばしば発想します。自然にしてもそう。教育でもそう。混沌としてわからない教育という現象も、きちんと統制を行い、厳密に実験をすれば、その実験の厳密さにしたがって私たちは教育を理解できます。実験の結果は検証された仮説として一般性をもちます。その一般性をもって私たちはその他の教育の営みも理解できます。実験や仮説で扱えない他の要因は、残念ながら理解の範疇外にあります。私たちは仮説と実験を厳密に構築できる限りにおいて世界を理解するのです----あるいは、近代人は、それこそが正しい世界理解だと信じて疑いません。

アレントの『人間の条件』を再読して面白かったことの一つは、私たちが自明視している「近代」というものを歴史的な視点でよりよく理解できたということです。世間的な流行でしたら「ポスト近代」でしょうが、私の限られた経験の範囲では、「ポスト近代」の研究書よりも「近代」の研究書の方が面白いことが多い。ヨーロッパが歴史的に築き上げた「近代」を日本は短期間に輸入してしまったものだから、「ポスト近代」と言われても、おそらくはヨーロッパ人ほどには痛切に感じない。むしろ少なくとも私にとってはポスト近代の思想よりも、近代の思想の方がよりラディカルで面白い。ちょうど後期ヴィトゲンシュタイン(『哲学的探究』)にはすぐに共感できても、知的にチャレンジングなのは前期ヴィトゲンシュタイン(『論理的哲学的探究』)なように。あるいは凡百のポストモダニストよりも、私ははるかにスピノザを読みたいように。さらにはニーチェよりもイエス・キリストの方が私にとってははるかにラディカルであるように。いずれにせよ「ポスト近代」を「新代」とか「未代」とか新しい言葉で呼ばずにあくまでも「ポスト近代」という言葉で理解していることを私たちが選んでいるならば、「近代」の理解は「ポスト近代」理解以前になされるべきでしょう。いや、近代の批判的理解こそがポスト近代の理解なのかもしれません。

閑話休題。話をアレントの『人間の条件』に戻しますと、彼女は第六章で集中的に近代を考察します。ここでもやはりデカルトが近代的思考の端緒として重用視されます。

周知のように、デカルトは諸々の事象を不確実だとして切り捨てた後に、自意識の中で何か(例えば疑い)が起こっていることだけは確かだとし、確実性を自意識の中に求めました。


In other words, from the mere logical certainty that in doubting something I remain aware of a process of doubting in my consciousness, Descartes concluded that those processes which go on in the mind of man himself have a certainty of their own, that they can become the object of investigation in introspection. p. 280.


この発想により、確実なものは私たち皆が外の世界に見ているものから、一人一人が心の中に意識しているものへと転じてしまいました。さらに共通感覚(common-sense, Gemeinsinn)も、共通世界(common world, die Gemeinsamkeit der Welt)から撤退して、世界と関連をもたない内的な能力になってしまいました。そのような近代的な思考法にいて理想的なのは、外の世界からの刺激や攪乱を必要としない数学の知識となりました。


Cartesian reason is entirely based "on the implicit assumption that the mind can only know that which it has itself produced and retains in some sense within itself." Its highest ideal must therefore be mathematical knowledge as the modern age understands it, that is, not the knowledge of ideal forms given outside the mind but of forms produced by a mind which in this particular instance does not even need the stimulation -- or, rather, the irritation -- of the senses by objects other than itself. This theory is certainly what Whitehead calls it, "the outcome of common-sense in retreat." For common sense, which once had been the one by which all other senses, with their intimately private sensations, were fitted into the common world, just as vision fitted man into the visible world, now became an inner faculty without any world relationship. This sense now was called common merely because it happened to be common to all. What men now have in common is not the world but the structure of their minds, and this they cannot have in common, strictly speaking; their faculty of reasoning can only happen to be the same in everybody. p. 283


そのような考えに適合したのが製作(Work, Herstellen)という営みです。アレントによるならば、近代の科学は、真正なる秩序を証明したと言いながら、実は、仮説を立てて実験し、その実験をもって仮説を検証したと言っているに過ぎません。ここでは仮説的な自然が扱われているだけです。人間は自然をそれを自ら製作できる限りにおいて理解しているという発想が強固になり始めました。


If, therefore, present-day science in its perplexity points to technical achievements to "prove" that we deal with an "authentic order" given in nature, it seems it has fallen into a vicious circle, which can be formulated as follows: scientists formulate their hypotheses to arrange their experiments and then use these experiments to verify their hypotheses; during this whole enterprise, they obviously deal with a hypothetical nature. p. 287


たしかに近代人は、複雑なる現象を、このように仮説と実験の枠組みに閉じこめることにより、それまで人間が持ち得なかった確実性を得ました。さらにそれを演繹することにより、これまでに無かった力(power, Vermögen)を手に入れました。テクノロジーとはこの実験と仮説的演繹思考の成果でしょう。しかし、近代人はそうすることによって、自分を、自分の心の中という牢獄に入れてしまいました。ですから、自分の心の枠組みに存在しない現象に出会うと、その現象は、適切な表象を持ち得ず、近代人から逃れ去ってしまうのです。この点、近代以前の人間の経験の仕方の方が深かったのかもしれません。彼/彼女らの方が、自らを超えた現象なり存在を、神という彼/彼女らが信じることができた存在を通じてでも、不可知ながらに彼/彼女らに影響を与えるもとのとして受け入れることができたでしょうから。


In other words, the world of the experiment seems always capable of becoming a man-made reality, and this, while it may increase man's power of making and acting, even of creating a world, far beyond what any previous age dared to imagine in dream and phantasy, unfortunately puts man back once more -- and now even more forcefully -- into the prison of his own mind, into the limitations of patterns he himself created. The moment he wants what all ages before him were capable of achieving, that is, to experience the reality of what he himself is not, he will find that nature and the universe "escape him" and that a universe construed according to the behavior of nature in the experiment and in accordance with the very principles which man can translate technically into a working reality lacks all possible representation. p. 288



さて、ここで話を英語教育研究の方へと大きく変えます。英語教育研究においては、まだまだ上記のような「近代」の発想法ばかりがはびこり、それが唯一絶対の方法だと思い込まれてはいませんでしょうか。いやさすがに唯一絶対とまではいかずとも、それが理想の方法だと惰性で思われてはいませんでしょうか。

ポスト近代が近代の否定ではないように、私も近代の実験的仮説-演繹思考を全面否定するつもりなど毛頭ありません。しかしそれを全面肯定すること、そしてそのあまり、それ以外の思考法を排除することに対しては反対せざるを得ません。

実践者は、一つの仮説的思考にこだわらず(あるいは「居着かず」)、その思考を超えるもの、自分の心を超えるものに対して感度を上げて、それに攪乱されながら、何とか実践をつないでゆき、自らの仮説を拡張、あるいは複数化して現実への対応度を上げます。自分の思いに拘らないことが、実践者が必要とすることの一つかと思います。

昨日の記事で取り上げさせていただいた名越康文先生は、医者という実践家について次のように述べます。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/06/blog-post_05.html


別の言い方をすれば,医者をやっていれば1回1回,患者さんに対して,ビックリするなり,納得するなりという個別の体験があってもまったく不思議じゃないということですね。しかも,その1回の体験というのは,それまでの体験から培われてきたパラダイムを一気に突き崩してしまうことさえある。「エッ! そんな感じ方してたの? じゃあ,この患者さん以前の100人の患者さんに対して,僕はそんな思いをさせてきたの?」というようなことが,医者になれば必ず起こる。そこから目を背けないのでほしいと思います。
 そういう体験を通じて「そうか!」という納得にいたる。そのときに一歩,人はバージョンアップするのです。でも,そのときの感覚に固執しているとその経験は必ず陳腐化します。どれほど衝撃的な体験でも,100日も経てば日常に退屈してきて,自分が100日前に気づいたことを「冷静になるとつまんないな」と思うようになる。そういう体験を常に更新し続けることが,臨床家ではないかと僕は考えています。
 理屈からいっても,患者さんは日々変化しているし,医者も日々進化している。感度が上がれば上がるほど,「違うのが当たり前」なんです。


あるいは武術家の甲野善紀先生は、最近の日記で『願立剣術物語』42段目を引用されておられます。
http://www.shouseikan.com/zuikan0806.htm#1


"手の内身構え敵合などよき程と心に思うは皆非也。吉もなし、悪もなし。我が心におち、理におち、合点に及ぶは本理という物にてはなし。私の理成るべし。古語に「道は在て見るべからず。事は在て聞くべからず。勝は在て知るべからず。」"


私が言いたいのは、近代の実験的仮説演繹思考は一つの方法に過ぎず、ましてやその中の一つの仮説は多くの可能性の一つに過ぎず、それに拘ってしまっては実相を失ってしまうのではないかということです。自分の仮説、あるいは近代の実験的仮説演繹思考そのものを相対化し、それらへの拘りから自由になってこそ私たちはより現実に対応できるでしょう。

同じようなことを群馬大学大学院医学系研究科の清水宣明先生もおっしゃっています。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060705

私も及ばずながら甲野善紀先生らの動きを追うことによって、こういった近代以前には明らかだったこと、そして近代以後にも再び明らかになるべきことをできるだけ文章化しようとしています(よかったら私のブログ・ホームページ用の検索エンジンで「甲野」と入力して調べて見てください)。



私がまた悪い癖で必要以上に悲憤慷慨しているだけかもしれないけれど、でもどうしてこんな簡単なことを世間はわかってくれないのだろう。なぜだろう。

もし疑うことすら不可能なぐらい近代の枠組みが私たちの心身に浸透し、それを元にして現在の権力構造が維持されているとしたら、近代的発想こそは私たちが自覚しなければならないイデオロギーです。

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