2008年6月27日金曜日

「自由な恵与」もしくは「贈与なき贈与」について

ナチスへの参与の事実をもって、ハイデガーの哲学を完全に否定・根絶できれば話は楽なのかもしれませんが、彼の哲学には妙に引きつけられるところがあります(種類も程度も違うかもしれませんが、実生活でのひどい人格にもかかわらず、ワーグナーの音楽が私たちを魅了することにも似ているのかもしれません)。

以下は、(故)梅木達郎先生の『支配なき公共性』(洛北出版)からの引用です。この本および『脱構築と公共性』(松籟社)を最近私は非常に面白く読み、またこの二冊から多いに学ぶことができました。特に以下の部分は、なぜか個人的にとても心に残ったので引用させていただく次第です。梅木先生および『支配なき公共性』を没後出版してくださった梅木先生のご友人に感謝します。

『支配なき公共性』の「輝ける複数性」の中で、梅木先生はカントについて語るハイデガーを引用します(その底にはデリダやアレントの哲学が流れています)。この中のキーワードである"Interesse"を、梅木先生は他の多くの訳者と同じように「関心」と訳されていますが、私は以下ではそのことばを勝手に「利害=関心」という訳語に変えています。"Interesse"の多義性をより直接的に表現したいというのがその理由です。本来なら、このようなことをする際には、ハイデガーおよびカントの原典をきちんと読む必要があるのでしょうが、現在の私にはそのような時間、というよりそもそもそのようなことをきちんとやれるドイツ語の学力がありません。この「利害=関心」という訳語の変更は前-学術的な私の勝手な置き換えと考えてください。


ある事物に利害=関心をもつとは、それを得ようとすること、それを所有し、使用し、意のままに処置しようとすることである。私たちがそれに利害=関心を寄せているものと共に、あれやこれやの事柄があり、始められるのである。私たちがある事物に利害=関心をもつとき、私たちはそれを、その事物によって意図し意欲している事柄への意図の道筋と関係の中へ引き入れる。私たちが利害=関心を寄せる事物は、どの場合にもすでに、それ自体としてではなく、つねに他のある事物への顧慮の中でとらえられている。[...] あるものを美しいと思うためには、私たちは出会ったものをそれ自体として純粋に、それ自体の位階、品位[Würde]において現前せしめなければならない。私たちはその事物を、前もってある他のものへの顧慮--それが私たちに楽しみをもたらしたり利益になるなどという目的や意図--のもとに計算してはならない。美そのものに対する態度は、カントに従えば、自由な恵与[freie Gunst]である。私たちは出会うものをあるがままのものとして解放し、そのもの自体に属するもの、そしてそれが私たちにもたらすものを、そのものにそのまま恵与せねばならないのである。[...] 「利害=関心」についての誤解は、利害=関心の排除とともに対象へのあらゆる本質的関係が停止されるという誤った考えに導く。じつはその反対である。対象そのもの、純粋にそれ自体としての対象への本質的関係は、「没-利害=関心」[ohne Interesse](注)によってこそ開始されている。見落とされているのは次のことである。そのときはじめて対象が純粋な対象として出現するに到るのであり、そしてこの「出現に到ること[In-der-Vorschein-Kommen]」が、こうした輝く光のうちへの現出こそが「美しい」という語の意味する美である。
梅木達夫『支配なき公共性』洛北出版、259-260ページ
Martin Heidegger, Nietzsche: Der Wille zur Macht als Kunst, pp. 127-128
『ニーチェ、芸術としての力への意志』126-127ページ


この引用を受けて、梅木先生は「カントの美学はハイデガーの存在論に通じてゆく」(262ページ)と述べ、「恵与」を「贈与」かつ「贈与の無化」とします。さらに対象を事物だけでなく他者にも広げ、次のように論じます。


これは贈与であり、かつ贈与の無化である。なぜなら「われわれ」が与えるものは、われわれが所有していないもの、むしろそのものがわれわれにもたらしてくれるもの [was es uns zubringt] だからである。相手もまた、相手自身に本来的に帰属するものを受け取る。この「贈与なき贈与」において成立する関係は、自己固有化でもなければその逆の脱固有化でもなく、めくるめく反転する決定不可能性における自己固有化の端的な中断である。だがこの中断によって、他のものに固有なものが、固有なまま、恵み返される。この「存在するがままにゆだねること [Seinlassen] 」、この「自由な恵与 [freie Gunst] 」によって、互いを他のその固有性において侵害することもなければ、支配したりされたりすることもなしに、おのおのの尊厳において、かつ自由に、相手の存在を喜び愛しながら、相互が並び立つことができる。
梅木達夫『支配なき公共性』洛北出版、263ページ



かつて私が敬愛する方は、「四十歳過ぎて生きとる奴はみんな俗物や」と笑いながら仰いました。私は本日四十五歳となりました。立派な「後期中齢者」(笑)ですし、社会的にもある程度の人格的成熟が求められる年齢となりました。ですが現実の私は、おそらく自分が自覚している以上の俗物で、「利害=関心」の道筋と関係によって、私が出会う事物、そして人間に接している(あるいは接することを拒んでいる)のでしょう。そうしてその事物、そして人間が持つ「美しさ」を損なっているのでしょう。

それともこのようなことを言うのは、甘美なだけの青臭い机上の空論だけなのでしょうか。わかりません。


しかし私は、自分が出会う事物、そして一人一人の個人に、それ/彼/彼女が本来持つものを贈り返すことによってのみ、自分をなんとか認めることができるような気すらします。

いや、そう思うことは、既に私が出会う事物や人の美を、私の利害=関心で損ねてしまっているのでしょうか。

せめて美をこれ以上損ねるような生き方はしたくないと思います(おそらくはこれからも損ね続けるでしょうが)。

論は錯綜してしまいましたが、本日は、何人かの方々から、私が本来所有していない恵みを恵与していただきました。ありがとうございました。感謝します。


(注)『支配なき公共性』ではこの補記は、[dans ohne Interesse]となっています(259ページ)

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