2008年6月5日木曜日

名越康文先生の文章

友人が教えてくれた以下の名越康文先生の文章には非常に深いものがありました。私はこれからこの文章を何度も折ある事に読み返すことと思います。以下の引用の文章にピンとくるものを感じた方はぜひ下のURLをクリックして全文をお読み下さい。


生身の患者と仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -
名越康文(精神科医)

http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02727_07



予測や予定がすべてご破算になった時こそ,人間は成長できるし,また真価を問われると思うのです。


「答えがないのに問わざるを得ない問い」


学生時代から今に至るまで,僕には「命を救う」というテーゼの意味がよくわからない。「命を救う」というテーゼが間違っているというわけではなく,文字通り,「わからない」。


そういう現実の他者とのコミュニケーションがあってはじめて,自分の脳内世界と物質世界の間での,自己の立ち位置を確認することができるわけです。


平穏な日常生活のなかに,少しずつ,他者から撤退していく動きが垣間見える。さらに,その動きが少しずつ加速している。傷つきたくない,自分の庵の中でひっそりと生き続けたい。社会に守られながらも,対人関係からゆっくりと撤退し,自己の居場所を少しずつ縮める,そういう生き方が広がっていることが,僕は少し恐ろしい。スピリチュアル・ブームは,そうした「自己完結を求める意識」が社会的に広がっていることとシンクロしているように思うのです。


 「自己完結を求める意識」は,スピリチュアル・ブームに限らず,ほうぼうに認められます。僕らは「他者から遠ざかる」というと,空間的に他者から遠ざかることを連想します。しかし,いま生じているのは,自己の境界線をどんどん自分の内面の,奥深くに持ってくるということです。つまり,満員電車でギュウギュウ詰めになって,どれほど身体レベルの接触があったとしても,自己の境界線は犯されないくらい,内側に「自分」をつくってしまう。こうなると,もう「他者」とコミュニケーションすることは致命的に困難になります。


これはEBMに限らずあらゆるムーヴメントに言えることです。あらゆるプログラムは完成度を高めれば高めるほど縮小再生産し,最終的には破綻する。だから,考えなければいけないのは常に「それが破綻した後のこと」なんです。古くからある宗教とか,職人文化のなかの学びを注意深く見ると,常に教条的なものを自ら破壊するようなシステムになっている。そういう「縮小再生産から免れようとする知恵」が盛り込まれている。
 そういう意味では,新しい研修制度が「ジェネラリストを育てよう」という題目で運営されているのはいいことかもしれませんね。なぜなら,「ジェネラリストとは何か」ということが,誰にとってもいまひとつ明確じゃないから。
今,研修を行っている皆さんはある意味で幸運です。システムが大きく変わる時期で,いまひとつ目的が明快じゃなくて,「今,自分は何を学 ぶべきなのか」について,自分自身でしっかりと考えなくてはいけない。それはもちろんたいへんなことなんですが,そうでなくては本当に大切なことって学べ ませんからね。


イチロー選手の振る舞いはすごく演劇的です。先のセリフにしたって,ものすごくパフォーマンスが見えますよね。しかもそのパフォーマンスは,外向けでもあるけれど,むしろ,イチローをイチローたらしめるための,内側に向けてのパフォーマンスだと思うんです。そのことは,イチローがテレビドラマに出たとき,すごくよくわかりましたよね。ドラマに出たイチローを見て,多くの人が本物のイチローよりもイチローらしいと感じた。それはとりもなおさず,イチローという存在自体が,ある種の「演技」によって成り立っていたということだと思うんです。


 別の言い方をすれば,医者をやっていれば1回1回,患者さんに対して,ビックリするなり,納得するなりという個別の体験があってもまっ たく不思議じゃないということですね。しかも,その1回の体験というのは,それまでの体験から培われてきたパラダイムを一気に突き崩してしまうことさえあ る。「エッ! そんな感じ方してたの? じゃあ,この患者さん以前の100人の患者さんに対して,僕はそんな思いをさせてきたの?」というようなことが, 医者になれば必ず起こる。そこから目を背けないのでほしいと思います。
 そういう体験を通じて「そうか!」という納得にいたる。そのときに一歩,人はバージョンアップするのです。でも,そのときの感覚に固執 しているとその経験は必ず陳腐化します。どれほど衝撃的な体験でも,100日も経てば日常に退屈してきて,自分が100日前に気づいたことを「冷静になる とつまんないな」と思うようになる。そういう体験を常に更新し続けることが,臨床家ではないかと僕は考えています。
 理屈からいっても,患者さんは日々変化しているし,医者も日々進化している。感度が上がれば上がるほど,「違うのが当たり前」なんで す。そういう「違い」が,「医者」というフィルターによって隠蔽されているということに,あまりに無自覚であってはいけないんじゃないか。立場性を忘れ, フィルターの存在を忘れてしまうと,患者と医者の間には壁などないかのように思えてしまう。しかし,壁の存在を常に意識しつつ,その感覚を更新していくと いうことこそが,臨床家が成長するプロセスなんですよ。


立場性は絶対に越えられない壁です。しかし,越えられないものを越えようと試みるという,矛盾した取り組みこそが臨床です。「絶対に越えられない」ということを頭で考えていても駄目で,越えようとしても越えられないという体験を繰り返さないと,実践家としてはやっていけません。越えようとしない人間に,「越えられないなあ」という実感は生じないし,「越えたい,コミュニケーションをとりたい」という強い欲求も生まれません。下手に「越えられないけど越えようとがんばるのがいいんだ」なんて考えても駄目ですね。このあたりは,言葉で書くと必ずといっていいほど誤解が広がる部分ではありますが,少なくとも頭で考えているだけでは,感性や意欲は徐々に失われていくでしょう。
 絶対に越えられないからこそ,越えようとする。それによって初めて,越えられないということ,越えたいということ,両方の実感が生じる。矛盾していて,わかりにくいと思いますが,人が成熟するプロセスにおいて,こういう「越えられないものを越えようとすること」というのは絶対,欠かせないんです。


「問うこと」「問い直すこと」「問い続けること」,これが,その人の中のほんとうのクリエイティブさというか,ほんとうにその人の人生を前に進ませていく根本なんじゃないかと思います。



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