2008年6月10日火曜日

「秋葉原通り魔事件」について考える

松永英明氏の個人編集による「閾ペディアことのは」は、2008年6月8日のいわゆる「秋葉原通り魔事件」についての概要を伝えていますが、非常に興味深いのは、犯人が犯行前の数日間に書き込んでいた掲示板への投稿内容です。

秋葉原通り魔事件掲示板書き込み6月3日

秋葉原通り魔事件掲示板書き込み6月4日

秋葉原通り魔事件掲示板書き込み6月5日

秋葉原通り魔事件掲示板書き込み6月6日

秋葉原通り魔事件掲示板書き込み6月7日


■書き込みに見られるポイント

これらの書き込みを私なりにまとめますと、次のようなポイントが見えてくるように思えます。


[A]青年期にしばしば見られる対人関係からの悩み
(1)彼女も友人を得られないという絶望
(2)表層的なつきあいでさえも得られないという悲しみ
(3)自分は不細工だから彼女ができないという考え

[B]近年の日本で横行する拝金主義・外見主義
(4)全ては金だという考え
(5)金でなければ外見の良さ(イケメン「イケメソ」と表記)が必要という考え
(6)自分は彼女・友人・つきあい関係・金・イケメンを持たないし、これからも持てるはずがない存在であるという自己規定

[C]最近の日本の社会構造に関する認識
(7)「負け組」としての「勝ち組」への怨念
(8)負け組になったのは「自己責任」だと責められることに対する自虐と反発
(9)派遣社員である限り仕事に喜びも未来もないという絶望

[D]青年期に見られうる短絡
(10)自分は決して理解されないという怒りとそこからかいま見える理解して欲しいという強い欲求
(11)著しい孤独感・虚無感
(12)生きる意味・希望の喪失
(13)彼女さえいれば全てが好転するという妄想

[E]人間社会が初めて経験する匿名ネット空間での言語使用現象
(14)多いときは数分ごとにこの掲示板に一、二行の文を書き込むという言語使用
(15)誰か特定の人でも自分自身にでも向けているというわけでもない、不特定多数に向けた言語使用
(16)不特定多数に「晒されている」ことを自覚しつつも、その不特定多数に期待も信頼もしていない言語使用

[F]匿名ネット空間での言語使用の帰結
(17)自分の気分を書き込むだけのことが多いから、気分の共有を超えた社会的あるいは構造的な連帯にはつながりにくい。
(18)特定の人格に向けて発せられたことばではないから、読み手からの反応にきちんと対応する必要もあまりなく、他から刺激も攪乱も受けない自閉的な自己言説の再生産に終始しがちである。
(19)不特定多数に「晒されている」だけであるから、社会の他者への共感も理解も積極的に求めず、その結果、自分が変わるとか自分の世界が広くなることもほとんどない。



(1)から(3)は、[A]「青年期にしばしば見られる対人関係からの悩み」としてまとめることも可能かと思います。異性の恋人や同性の友人を強く求めながらも、青年期の自意識過剰や、対人関係での経験不足からこのような悩みを持つ青年は、別段現代日本だけに存在するものでもないと思います。

しかし(4)から(6)は、80年代のバブル時期に隆盛となり、その後ますます日本社会に浸透していった考えかとも思われます。少なくとも毎日テレビを見ていて、これらの思いから自由であることは困難でしょう。これらの考えを仮に[B]「近年の日本で横行する拝金主義・外見主義」と名づけます。

(7)から(9)は2000年代に急速に日本を支配するようになった価値観です。労働界のみならず教育界も「勝ち組」「負け組」の構造を変えようもない自明の前提として扱い、いかに自分が「勝ち組」になるか、あるいは「負け組」にならないかの競争をしているようです。これらの認識をここでは[C]「最近の日本の社会構造に関する認識」と呼ぶことにします。

(10)から(13)は特に現代日本だけに限られた考え方でもないかと思います(ただ個人的には(13)は、チープなアニメなどの物語の見過ぎなどが関わっているのではないかとも思っています)。ここではこれらを[D]「青年期に見られうる短絡」としてまとめます。

(14)から(16)は、大げさに言えば人類が初めて経験する言語使用空間で起こりつつある現象です。これは[E]「人間社会が初めて経験する匿名ネット空間での言語使用現象」と呼ぶことにしましょう。

(17)から(19)は、[E]の言語使用がどのような帰結を持ちうるか(あるいは持ち得ないか)ということです。


■書き込みの分析の試み

これらの分類で、強引な一般化(あるいは単純化)をしますと、どの社会でも珍しくない[A]の心情は、[B]という文化背景で、他の社会(あるいはこれまでの社会)と比べて、より惨めなものとして感じられているのかもしれません。しかしその惨めさを本当に絶望的なものにしているのは、2000年代から日本が創り上げようとしている社会構造です。私は[C]の認識は、認識を持つ者が問題なのではなく、その認識を生み出してしまうような社会構造、そしてその社会構造こそは唯一の社会のあり方であるとする現社会構造を維持しようとする固定観念(イデオロギー)こそが問題だと考えています。

こうして[B]と[C]を経た[A]は、これまでにない形で[D]の短絡につながります。しかし短絡をしたとしても、人は本来、ことばを使うことによって、お互いの関係、ひいては社会を変えることができます。しかし様々な理由から、少なからずの若者が匿名ネット空間ぐらいにしか言語使用の空間を持ちません。そしてその空間は[E]という、これまでになかったような言語使用しか許さない空間です。

これまで人は、他の人格に向けてことばを発していました。壁に向かってぶつぶつ言う人、公園のベンチで一人ぼそぼそ語る人の異常さは、周りの人も気がついたでしょうし、本人でさえも気づいていたでしょう。しかし、現在、匿名ネット空間に一連の書き込みを取り憑かれたように続ける人は私たちの周りもいて、私たちはそれに気づいていないだけかもしれません。彼/彼女の姿は何ら異様なものとして現れず、携帯を駆使する現代人の群れにとけ込んでいるかもしれません。彼/彼女自身も、壁に向かって話をするのならともかくも、携帯あるいはパソコンに次々と、誰でもなく、おそらくは自分自身でもない人、つまりはnobodyに、何の期待もせず、信頼もせずにことばを次々に発することを当たり前のように思っているかもしれません。しかしそのnobodyがいないこと(携帯やパソコンへの匿名書き込みができないこと)にはおそらく耐えられないでしょう。その意味でネット依存症・中毒の人はたくさんいるはずです。ですが、その自覚はおそらくあまりない。

もちろん昔でも日記という形で自分自身にしか語りかけない言語使用をすることもありました。しかし日記という媒体は、ある程度の見通しを確保し、自らが書いたことを振り返る機会も与えました。そうして人は自省し、考えを深めました。しかし携帯の画面は、物理的にきわめて小さな空間しか与えません。思索を深める媒体とはとてもいえません。しかも掲示板には次々に他人の書き物が現れ、自らの書き物は埋没してゆきます。かくして短くおそらくは衝動的な言語を人は携帯に次々に打ち込むだけとなります。

そうして莫大な量の言語が匿名ネット空間にはき出されても、それは社会を変えるような強靱な構造ももたないし、ひたすら自分が自分の思い込みを拡大的に再生産するだけで、自分の世界が広がることもありません。自分が変わることも相手が変わることもありません。現実世界ならそのようにつまらない話をする人からは他人は去ってゆきますが、不特定多数の匿名者はネットの向こうにいつまでもいる(はずです)。かくして自閉的でありながら、他人を求める矛盾した言語使用は、虚しくいつまでも再生産されます。ある意味でこれは無間地獄かもしれません。



■現代日本社会の課題

私たちは、格差を平準化する統計資料で見るなら、世界の中でも豊かと言われる国に住んでいます。しかし二十代の若者の中で正規雇用を受けるのは約半分とも言われます。残りの半分は、これから何十年もの経済的な不安と希望のなさに耐えなければなりません。国民年金も四割の人々が払っていないと言います。彼/彼女らにとって、国家とは信頼のおけるものではありません。国家だけでなく、ひたすら自分と自分の家族だけが「勝ち組」でいることだけにしか関心がない社会も、信頼のおけるものではありません。

そのように孤立した人間が増えればどうなるのか。

今回のようなの自暴自棄の犯罪はもうたくさんです。私たちはもう少し日本社会を考え直す必要があるでしょう。

研究者について述べれば、[A]の問題に関しては、心理学者などが研究を充実させるべきでしょう。[B]の問題に関しては人文学者が、金や外見に対抗できる、いやそれを凌駕できる文化についての研究を行うべきでしょう。[C]に関しては経済学者、いや今となっては死語になってしまったかもしれない「政治経済学者」が、いわゆる新自由主義的な社会以外のあり方についてきちんと研究すべきでしょう。[D]については、哲学者などが判断とは何か、生きるとは何か、意味とは何かを市井の人々にわかるような形で語るべきでしょう。[E]については言語とコミュニケーションの研究者が、この新たなネット空間での言語使用を少しでもいいから研究すべきでしょう。[F]については社会系の学者が、ネット空間を通じての新たな連携の形を模索するべきでしょう。

市民は市民で自力で考え、さらに上記のような研究も参考にしながらも考えて、何らかの行動を起こすべきでしょう。自分で起こさなくても、少しでも共感できる行動には、自分が納得できる範囲で連帯すべきでしょう。

最近、日本に関する閉塞感を感じることが多いです。ペシミズムに逃避するのではなく、きちんと考え、きちんと行動したく思います。

2 件のコメント:

Curragh さんのコメント...

あの凄惨で衝撃的な事件からもうひと月が経とうとしています。いろいろと思うことはありますが、海外メディアの取り上げ方に注目してみますと、たとえばBBCの報道ではこんな一文が目に留まりました。

Japanese society can be intolerant of failure, or of difference. If you do not fit in, do not get a job or do not behave like everyone else you can be ostracised. 

先日、フィレンツェのシンボルである「花の聖マリア」大聖堂に落書きした「責任をとる」ということで高校の野球部監督が解任されましたが、「日本社会は失敗を犯した者には容赦しない(じっさいにはたまたま悪事が露呈した人間の尻尾を切って事足れリとする無責任で安易な姿勢)」という一種お決まりの図式をここでも当てはめて捉えているように思え、違和感をおぼえました。たしかに日本社会にはそういう一面はいまだにあるとは思います。でも一度、なにかの拍子で失職すると希望職種への転職はひじょうにむずかしい…という点では、日本も米国もたいして変わりありません(もっとも米国の場合はバーバラ・エーレンライクの体験ルポなどを読むと、ほんとうに酷いようです)。たしかにワーキングプアということも、一要因としてはあるでしょう。ワーキングプア問題は、わたしたち皆が真剣に考えるべき問題だし、いままでの規制緩和路線の功罪も問われてしかるべきです。行政側の施策も、ただたんに企業業績さえ回復すればよい、株価が上がりさえすればよいというあまりに企業寄りで安易なもので、企業側も若い人たちをきちんと育てることもせずまさしく「使い捨て」ているという現実があります。とはいえ、今回の事件でそれ以上に強く感じるのは、凶行に走った若者には他人の痛みというか、他者への想像力ということが決定的に欠落しているように感じてなりません。最近はこの手のあまりに「短絡的」に人を殺める事件が多くて、毎日のように報じられて見聞きするほうもだれも驚かなくなり、感覚遮断しています(戦前のほうが少年犯罪は多かった、という意見も目にしますが、ことは多い少ないの問題ではありません)。ひじょうに月並みなのですが、やはり幼少期の親子関係が大きく影を落すことになるのではないでしょうか。たとえばいまの中学・高校では、生徒に幼稚園児や乳幼児とふれあわせる、という取り組みが各地で行われていて、ときおり参加した生徒の感想も新聞などで目にします。最近でも、こんな感想を見かけました。「わたしたちにとって、小さな子とこんなに触れあう機会は少ないので、離れるときにはとても寂しい気持ちになりました。体験が終わってからも腕の中にはまだぬくもりが残っていて、心まで温かくなれた気がしました」。凶行に走った若者には、もっとも感受性の強い時期にこのような他者のぬくもりを体感する経験がまったくと言ってよいほどなかったのではないでしょうか。それと彼の母親が、きわめて偏りのある「教育熱心な親」だったことも一因として見過ごせないと思います。自分は、感受性の塊のような幼い子どもにひたすら知力のみを伸ばそうとする早期教育は不要、というか有害だと考えています(大脳生理学の見地からも早期教育の弊害を指摘する学者はいます)。むしろ必要なのは絵を描いたり、みんなと体を動かしたり、音楽に親しむといった、情緒に直接働きかける芸術活動全般だと考えます。そうやって育てられた子どもたちは、将来、強い挫折感を味わうことがあっても、いともかんたんにきょくたんな被害妄想や思考停止に陥ることもないのではないかと思うのです。

「想像力の欠落」という点で不気味だと感じたのは、おそらく同年代であろう若者の「書きこみ」です。この事件を起こした若者を、英雄に祭り上げているような書きこみが散見されると言います。彼らもまた、不幸な感覚遮断に陥っているとしか思えません。なぜなら彼らは、自分たちが「革命家」として「英雄視」しているその若者の標的になっていたのはじつは彼らのほうなのだということに気づいていないようなのです。若者は、実社会でも逃避の場としたネットの仮想空間でも、けっきょく――心を割って話すわけでもなく、他者とのコミュニケーションさえうまくできない自暴自棄の嵐のごとき書きこみゆえに――孤独だった。だれも見向きもしない、だから世間の耳目を集めることをしでかしてやろうと思ったという供述をしているようなのです。そのことにまるで気づかず、英雄として祭り上げている彼らは、いったいどんな幼少期を過ごしどんな育てられ方をしたのだろうかと思ってしまいます。感受性の強い時期に、人としてひじょうに大切なことをないがしろにされて育ってきたのではないかという印象を受けます。

若年貧困層がらみでは、以前、TVでこの問題を追求している女性作家とワーキングプアの若者が対談しているのを見たのですが、こともあろうに「戦争でも起きないか」などと発言していて、後頭部を殴られたような衝撃を受けました(周りはただ頷いていただけでした)。いざ戦争、となれば真っ先に動員されるのが自分たちだということに気づいていない。これもけっきょく想像力の欠如とそれに起因する思考停止としか思えません。思うのですが、彼らは自分たちに与えられた選挙権をきちんと行使しているのでしょうか。すくなくともこの国は民主主義ですので、世の中を変えようと思えばほかにもいくらでもやりようはあると思うのです。それなのに「災害でも…」とか「戦争でも…」とか言い、「そうなればガラガラポン」だとは、あまりに幼稚すぎます。小学生でもそんなこと言いません。

もっとも自分も短気ですし欠点だらけもいいところ、こんな偉そうなこと言える義理ではないことは承知なのですが、一連の記事を拝読して、ついコメントしたくなってしまいました。とにかく、もうこんな理不尽きわまりない凶悪事件は、'Enough!'です。

Yosuke YANASE さんのコメント...

Curraghさん、丁寧なコメントをありがとうございました。お返事が遅れましたことは幾重にもお詫び申し上げます。実は(昨年同様)7月は体調を崩してしまい、方々に迷惑をかけ、不義理をしてしまいました。

さて、その後も無差別殺人は続きます。

「誰でもよかった」という台詞が何度も聞かれます。

彼/彼女には、他人は誰でもないのでしょう。そして自分も誰でもないのでしょう。だから「誰でもいい」のでしょう。

人格的結びつきを持てないまま、自分が誰という自覚もなく、大切な誰かもいずに生きることは(犯人に同情するのではありませんが)苦しいことだと思います。

教育も仰るように、皮相な理屈で早期から「合理的な試み」をやったりしていますが、正直怖ろしいと思います。

「働く」ことよりも、いや「暮らす」ことよりも大切かもしれない「生きる」ことをもっと重視しなければと思います。