tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post6535183322453725758..comments2017-09-29T08:02:30.650+09:00Comments on 英語教育の哲学的探究2: 「秋葉原通り魔事件」について考える柳瀬陽介http://www.blogger.com/profile/05970610356649572378noreply@blogger.comBlogger2125tag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-59077079629606731062008-07-27T16:05:00.000+09:002008-07-27T16:05:00.000+09:00Curraghさん、丁寧なコメントをありがとうございました。お返事が遅れましたことは幾重にもお詫び申...Curraghさん、丁寧なコメントをありがとうございました。お返事が遅れましたことは幾重にもお詫び申し上げます。実は(昨年同様)7月は体調を崩してしまい、方々に迷惑をかけ、不義理をしてしまいました。<BR/><BR/>さて、その後も無差別殺人は続きます。<BR/><BR/>「誰でもよかった」という台詞が何度も聞かれます。<BR/><BR/>彼/彼女には、他人は誰でもないのでしょう。そして自分も誰でもないのでしょう。だから「誰でもいい」のでしょう。<BR/><BR/>人格的結びつきを持てないまま、自分が誰という自覚もなく、大切な誰かもいずに生きることは(犯人に同情するのではありませんが)苦しいことだと思います。<BR/><BR/>教育も仰るように、皮相な理屈で早期から「合理的な試み」をやったりしていますが、正直怖ろしいと思います。<BR/><BR/>「働く」ことよりも、いや「暮らす」ことよりも大切かもしれない「生きる」ことをもっと重視しなければと思います。Yosuke YANASEhttps://www.blogger.com/profile/02148861299273079929noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-8438123205528217340.post-30320731939793528992008-07-08T02:21:00.000+09:002008-07-08T02:21:00.000+09:00あの凄惨で衝撃的な事件からもうひと月が経とうとしています。いろいろと思うことはありますが、海外メディ...あの凄惨で衝撃的な事件からもうひと月が経とうとしています。いろいろと思うことはありますが、海外メディアの取り上げ方に注目してみますと、たとえばBBCの報道ではこんな一文が目に留まりました。<BR/><BR/>Japanese society can be intolerant of failure, or of difference. If you do not fit in, do not get a job or do not behave like everyone else you can be ostracised. <BR/><BR/>先日、フィレンツェのシンボルである「花の聖マリア」大聖堂に落書きした「責任をとる」ということで高校の野球部監督が解任されましたが、「日本社会は失敗を犯した者には容赦しない(じっさいにはたまたま悪事が露呈した人間の尻尾を切って事足れリとする無責任で安易な姿勢)」という一種お決まりの図式をここでも当てはめて捉えているように思え、違和感をおぼえました。たしかに日本社会にはそういう一面はいまだにあるとは思います。でも一度、なにかの拍子で失職すると希望職種への転職はひじょうにむずかしい…という点では、日本も米国もたいして変わりありません(もっとも米国の場合はバーバラ・エーレンライクの体験ルポなどを読むと、ほんとうに酷いようです)。たしかにワーキングプアということも、一要因としてはあるでしょう。ワーキングプア問題は、わたしたち皆が真剣に考えるべき問題だし、いままでの規制緩和路線の功罪も問われてしかるべきです。行政側の施策も、ただたんに企業業績さえ回復すればよい、株価が上がりさえすればよいというあまりに企業寄りで安易なもので、企業側も若い人たちをきちんと育てることもせずまさしく「使い捨て」ているという現実があります。とはいえ、今回の事件でそれ以上に強く感じるのは、凶行に走った若者には他人の痛みというか、他者への想像力ということが決定的に欠落しているように感じてなりません。最近はこの手のあまりに「短絡的」に人を殺める事件が多くて、毎日のように報じられて見聞きするほうもだれも驚かなくなり、感覚遮断しています(戦前のほうが少年犯罪は多かった、という意見も目にしますが、ことは多い少ないの問題ではありません)。ひじょうに月並みなのですが、やはり幼少期の親子関係が大きく影を落すことになるのではないでしょうか。たとえばいまの中学・高校では、生徒に幼稚園児や乳幼児とふれあわせる、という取り組みが各地で行われていて、ときおり参加した生徒の感想も新聞などで目にします。最近でも、こんな感想を見かけました。「わたしたちにとって、小さな子とこんなに触れあう機会は少ないので、離れるときにはとても寂しい気持ちになりました。体験が終わってからも腕の中にはまだぬくもりが残っていて、心まで温かくなれた気がしました」。凶行に走った若者には、もっとも感受性の強い時期にこのような他者のぬくもりを体感する経験がまったくと言ってよいほどなかったのではないでしょうか。それと彼の母親が、きわめて偏りのある「教育熱心な親」だったことも一因として見過ごせないと思います。自分は、感受性の塊のような幼い子どもにひたすら知力のみを伸ばそうとする早期教育は不要、というか有害だと考えています(大脳生理学の見地からも早期教育の弊害を指摘する学者はいます)。むしろ必要なのは絵を描いたり、みんなと体を動かしたり、音楽に親しむといった、情緒に直接働きかける芸術活動全般だと考えます。そうやって育てられた子どもたちは、将来、強い挫折感を味わうことがあっても、いともかんたんにきょくたんな被害妄想や思考停止に陥ることもないのではないかと思うのです。<BR/><BR/>「想像力の欠落」という点で不気味だと感じたのは、おそらく同年代であろう若者の「書きこみ」です。この事件を起こした若者を、英雄に祭り上げているような書きこみが散見されると言います。彼らもまた、不幸な感覚遮断に陥っているとしか思えません。なぜなら彼らは、自分たちが「革命家」として「英雄視」しているその若者の標的になっていたのはじつは彼らのほうなのだということに気づいていないようなのです。若者は、実社会でも逃避の場としたネットの仮想空間でも、けっきょく――心を割って話すわけでもなく、他者とのコミュニケーションさえうまくできない自暴自棄の嵐のごとき書きこみゆえに――孤独だった。だれも見向きもしない、だから世間の耳目を集めることをしでかしてやろうと思ったという供述をしているようなのです。そのことにまるで気づかず、英雄として祭り上げている彼らは、いったいどんな幼少期を過ごしどんな育てられ方をしたのだろうかと思ってしまいます。感受性の強い時期に、人としてひじょうに大切なことをないがしろにされて育ってきたのではないかという印象を受けます。<BR/><BR/>若年貧困層がらみでは、以前、TVでこの問題を追求している女性作家とワーキングプアの若者が対談しているのを見たのですが、こともあろうに「戦争でも起きないか」などと発言していて、後頭部を殴られたような衝撃を受けました(周りはただ頷いていただけでした)。いざ戦争、となれば真っ先に動員されるのが自分たちだということに気づいていない。これもけっきょく想像力の欠如とそれに起因する思考停止としか思えません。思うのですが、彼らは自分たちに与えられた選挙権をきちんと行使しているのでしょうか。すくなくともこの国は民主主義ですので、世の中を変えようと思えばほかにもいくらでもやりようはあると思うのです。それなのに「災害でも…」とか「戦争でも…」とか言い、「そうなればガラガラポン」だとは、あまりに幼稚すぎます。小学生でもそんなこと言いません。<BR/><BR/>もっとも自分も短気ですし欠点だらけもいいところ、こんな偉そうなこと言える義理ではないことは承知なのですが、一連の記事を拝読して、ついコメントしたくなってしまいました。とにかく、もうこんな理不尽きわまりない凶悪事件は、'Enough!'です。Anonymousnoreply@blogger.com