私が言いたいことは、今回の事件に限らない一般的なことですが、わかりやすいように最初にこの事件の例を簡単に使い、後にそれを離れた抽象的な論にします。
今回の凶行(Xと呼びます)に関する意見を単純化するなら、様々な人が「社会が悪い」もしくは「個人が悪い」といった形で自説を主張されていることが少なくないように思えました。仮に社会をA、個人をBとするなら、「社会が悪いから今回の凶行が起きた」という意見はA→X、「個人が悪いから今回の凶行が起きた」という意見はB→Xというように表記できるかと思います。
ここで今回の事件を離れて抽象的に語ります。
A→X、あるいはB→Xというのは単純な因果法則による説明方法かと思います。しかし、このような単純な因果法則で物事を説明しようとする方々は、往々にして、自分の考える原因以外の原因をあげて説明しようとする人々に強い反感を表すようにも思えます。つまりA→Xを信じる人は、B→Xを主張する人をとうてい理解できないとし、逆にB→Xを主張する人は、A→Xの主張をする人に強い反発の意を表したりします。
こういった方々も、そもそもは単純な因果法則の説明をしようとしていたのではないかもしれませんが、意見の交換の中で、だんだんと「A→Xか、B→Xのどちらか決着をつけよう!説明はどちらか一つだけが正しくなくてはならない!!」といった感じになり、水掛け論ともいえる議論が応酬することが多いと思います。(繰返し言いますが、これは今回の事件だけに限った話ではありません。私はこのような議論の展開はいろいろな場面で観察できると思っています)。
もちろん単純な事象においては、単純な因果法則での説明が適しています。自然科学がその典型でしょう。
しかし複合的(complex)な事象においては、単純な因果法則の説明は不毛かもしれません。
まずもってAもしくはBという「原因」も幅の広い概念で、とても一義的に同定できるものではありません。
つまりAは様々でありうるわけですから、A1→XもありえればA2→NOT Xもありえます。B1→Xもあれば、B2→NOT Xもあるでしょう。しかし私たちはしばしばA1とA2、またB1とB2の差異は考えずに、おおざっぱにAもしくはBということばだけで語ろうとします。
A→Xと信じる人は、B2→NOT Xといった事象をもっぱら考えて、B→Xを否定しようとします。逆にB→Xと信じる人は、A2→NOT Xという事例を引っ張り出して、A→Xをナンセンスとします。こういった意見の対立は、AおよびB内部の区別を明確にしないかぎり、不毛かと思います。さらに上記で述べましたように、AやBはしばしば日常概念であり、あまりにも曖昧で多義的でかつ融通無碍なところがありますから、AおよびBの内部区別は極めて困難かと思います。
もしここに別の日常概念CやDを原因と考える人が出てきて、C→XやD→Xを主張するなら、さらに水掛け論が増えるだけになるかもしれません。彼/彼女らもCやDを明確な概念として使っていないからです(自然科学者ならすぐに同意するように、日常概念は絶望的に曖昧です。人文・社会系の研究者はそこを何とか少しでも明解にしようと専門概念を創り出しますが、それが明確な概念か、また仮に明確な概念だとしても、市井の人がそのことばを明確に理解して使用するかは定かではありません)。
複合的な事象の場合、きわめて単純に説明するなら、
A x B x C x D …. W → X
と考えるべきかもしれません。
ここでの小文字のxは複数の要因が相互作用を起こしていることを表しています。しかもこの相互作用には時間的要素もありますから、わかりやすくいえばある「弾み」でA x Bの相互作用(例えばA1 x B2)が非常に強くなり、それがたまたまC(例えばC3)に強い影響を与えといった偶発性(contingency)で、(A x B) x Cの要因が非常に重要に思えることもあるでしょう。しかし別のケースなら例えば(A x D) x Fの要因が非常に強くなる場合があるでしょう。
要因の組み合わせは数多くあり、それぞれの要因には様々なバラエティ(A1, A2, A3 ….An)があるわけですから、
A x B x C x D …. W → X
の図式はきわめて抽象的な因果図式であり、具体的に結果を予測する因果図式ではないことになります。
私たちは「ある結果にはある原因があるはずだ」という因果図式自体は否定しません。しかし「ある特定の原因だけが、ある結果を常に生じさせる(他の原因がその結果を生じさせることはない)」といった単純な因果法則に関しては、複合的な事象の説明としては、懐疑的にならざるを得ません。
もちろん事象の説明とは常に単純化の試みであり、単純化そのものを否定するつもりもありません。しかし事象の説明には、その事象の複合性に適した単純化の度合いというものがあり、それを超えての過度の単純化は、事象の解明ではなく、事象に関する不毛な言説を産み出すだけに終わりかねないと考えます。
A→Xを主張し、B→Xを否定しようとする人は、B→NOT XとなるようなBの事例 (B1, B2, B3….Bn) をできるだけ数多く指摘し、それを決定的な「証拠」とします。B→Xを信じる人はその逆をやるだけです。
さらにA→X(あるいはB→X)を信じる人は、その信念の単純性により、自説と異なる因果法則を否定せざるを得ません。単純な因果法則だけでしか考えない人にとって、他説の容認は、自説、ひいては自分のアイデンティティの否定になってしまうからです。かくして単純な因果法則を主張する人々は、議論を重ねるにつれ一層固陋になってゆくのかもしれません。
お気づきの方も多いようにこれはいわゆるcomplexity(「複雑性」と訳されることが多いですが、私は「複合性」という訳語の方がいいのではないかと思っています)の議論を私なりに拙い方法で言い換えているに過ぎません(また特にルーマンの『目的概念とシステム合理性』の中での議論の仕方を不器用に再現しているだけです)。
比較的概念の明確な定義が可能な自然科学でさえ、要因の相互作用および偶発性が多すぎる場合は、単純な予測を諦め、単純な因果法則の措定を放棄します(もしどうしても単純な因果法則を主張したい場合は、「他の条件が同じならば」(ceteris paribus; other things being equal) という魔法のことばを使わざるを得ません。これが魔法のことばであるのは、現実世界では他の条件は決して固定的に同じではないからです)。
ましてや概念が(自然科学者に言わせれば絶望的に)曖昧な人文・社会的事象の場合は、単純な因果法則でのみ考えようとするのは不毛であるどころか、逆効果ですらあるのかもしれません。
過度の単純化は、過度の神秘化と同様、反知性的態度と言えるかもしれません。
以上、抽象論・一般論として述べました。
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