2016年3月7日月曜日

田尻悟郎先生の授業ビデオをハンナ・アレントの哲学の枠組みを通して解釈する試み (学生さんの感想)



以下は、2015年度の「コミュニケーション能力と英語教育」の授業で、田尻悟郎先生の授業録画をハンナ・アレントの哲学の枠組みを通して解釈する試みを行った時に学生さん(学部3年生)が書いた文章の一部です。色付けをしたのは私ですが、それ以外は基本的に手を入れていません。

田尻悟郎先生の授業録画は、田尻先生が公立M中学校で三年生まで持ち上がった時の最後の三年生の授業の一部です。この学年が一年生の時は学校が荒れて殺伐とした状況で、田尻先生は文字通り毎日頭痛に悩まされたそうですが、この録画にはそんな中学生が三年生の最後になって行ったスピーチ (My treasure) が三名分記録されています。詳しくは下記の論文をお読みください。


アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析


この授業実践を解釈するために、私が使ったアレントの著作はVita activa oder vom tatigen Leben (The Human Condition)です。日本では長らく後者の英語版の翻訳『人間の条件』が流通していましたが、最近、前者のドイツ語版の翻訳『活動的生』が出ました。この『活動的生』はすばらしい翻訳で、私もとりあえず二度ほど読み、あと数回は読みなおして重要な箇所は原著と照合しようと思っていますが、今回の授業では、その新訳の成果はほとんど反映できませんでした。


 


なお同著の重要概念である "Die Arbeit", "Das Herstellen","Das Handeln" ("labor", "work", "action)は、『活動的生』では「労働」、「制作」、「行為」となり、『人間の条件』では「労働」、「仕事」、「活動」となっていますが、授業ではそれらを混交させたような形の「労働」、「制作」、「活動」という用語で説明しました。

ともあれ、学生さんは自分たちなりにいろいろ考えてくれましたので、ここにその一部を公開する次第です。改めて、毎回毎回きちんと自分に向き合い文章化をしてくれた学生さんに感謝します。



*****




  授業の中で見た、田尻先生の授業がとても印象的でした。今まで、コミュニケーションとしての英語、心を育てる英語の授業とは何かを考えてきましたが、それがどのようなものなのかをビデオを通じて、実際に知ることができたように思います。最後の生徒のスピーチは特に印象的で、発せられる言葉一つひとつにとても心に訴えかけるものがあり、心に残るスピーチでした。確かに、文法的なミスはありましたが、私はこのときそのことは全然気にならないくらいにスピーチに自然と引き込まれていました。これは、生徒の発する言葉の一つ一つが自分の言葉となって、伝える力を持っていたからであると思います。生徒は先生にやらされているという感じではなく、自分の意志で英語を話しているように思いました。

  私が今まで受けてきた授業を振り返ってみると、英語は一人で学ぶもの、いわば個人個人で学ぶものというような授業だったように思います。具体的に言うと、先生がだしたタスクを自分一人で考えて、解くという受動的なものでした。この時は、自分以外の他者の存在に全く目を向けることはありませんでした。田尻先生の授業のように、誰かと助け合って学んでいくことでこんなに「活力」が生まれること、教室にいる仲間全員で学ぶことで、こんなにも英語の授業はいきいきとしたものに変わるのだと驚きました。

  教室には、様々な違った背景を持ち、性格の違った生徒が集まっています。それは、ただ自分以外と他人とが一緒にいる空間といってしまうこともできるでしょう。しかし、認め合うことや協力することを通じて、その集団は「活力」を生み出し、自分たちのいる空間をかけがえのないものに変えていく力を持っていると思いました。

  活力が生まれるような経験、例えば、協力して何かを成し遂げたり、他者の苦しみなどを受け止めたりする中でそれは生まれるのではないでしょうか。そのような場を英語の授業の場面で与えていきたいと思いました。教室の中にいて、生徒が心地よい空間を作りたいです。隣に座っているのは「敵」や「他人」ではなく、大切な仲間の一人だと感じることのできるような学級経営、英語の授業をしていきたいと思いました。



  田尻先生のスピーチの授業で英語が生徒同士を介在するために存在していたというのにたいへん感動しました。生徒に英語を学ばせようとすると文法項目や単語といった教えなければならない項目が先にきて、英語を自分の気持ちを伝えるような「道具」として使わせることがなかなかできないと思います。そんななかで英語を使って生徒に自分の気持ちを伝えるだけでなく、人の心を動かすような経験をさせるのは、英語が通じたという成功体験ができたり生徒たちの心を豊かにさせることができると思いました。

  また、先生が「これは日本語でやることさえ難しい」と話されていたと思うのですが、私は逆に英語ですることがよかったのではないかとおもいました。反抗期・思春期の子供たちには感情をストレートに表現すること=恥ずかしいことだと考えていると思います。日本語ではいろんな表現を知りすぎていて、回りくどい表現をすることで正直に伝えることから逃げてしまうかもしれません。英語は知っている表現が少ない分、よりストレートに気持ちを伝えようとするのではないかと思いました

  しかし、いま私が同じ授業をしてもかならず成功するものとは言えません。授業の中でも出ていましたが、生徒の正直な気持ちを引き出す声かけが必要になるはずなので、生徒のことをよく理解したうえでできる活動だと思いました。また「活動」のお話ではやはり教英行事のことが浮かびました。もし教英行事がない大学生活を過ごしていたら、私は日々授業に出席し家事をこなすぐらいで、友達はできていたとしても単調な生活を送るだけになっていたかもしれません。そう思うとぞっとします。教英という自分らしさを開示できる場で、教英行事という自分らしさを開示できる活動ができていることは恵まれているなと改めて思いました。



  今日の授業では田尻先生の授業の映像がとても印象に残りました。またこの授業実践が普通の公立中学校―とりわけ荒廃気味の大規模校―で行われていたことに驚きました。そこで中学校の英語で教師と生徒のコミュニケーションを大切にした授業を行っていくことの意義について私なりに考えてみました。

  中学生は肉体的にも精神的にも多感な時期であると思います。ちょっとした言動がもとでけんかをしたり、仲たがいをしたりと人間関係が目まぐるしく変わっていきます。同時にそういった人間関係を通じ子供は自我を自覚し、思考の仕方、ものの見方を大きく変容していきます。言い換えると、この中学生の時期に経験したことが、その後の個人の価値観や人生観に多大な影響を及ぼすといえます。(これは私自身の中学時代を振り返っても分かるのですが、中学では「思考の転換期」でり、高校は「思考の安定期」であったような気がします)。したがって、どんな人と出会い、どんな人間関係を構築していくのかが重要になっていきます。

  私が田尻先生の授業を見て感心したのは、英語の授業一時間(もちろん担任クラスだったようなので、ほかの時間でも生徒と関わる時間はあったでしょう)の中で生徒を「変えた」ということです。先生が赴任した当初は生徒同士が言葉かけもせず殺伐としていたのにもかかわらず、DVDに撮影されていた三年生の生徒たちは生き生きといていました。ここで私が気になることとして、DVDで切り取られなかった英語の授業で先生はどんな実践をされていたのかということです。

  ここからは私の推測となりますが、先生は三年間を通じ、まず英語を話す姿勢を養うために、何度も発音練習などさせて自信をつけさせる〈労働〉の時間、また文法的に正しい英文を書くために何度も書く練習〈制作〉をやらせていたのではないか、しかし何よりも先生が大事にされていたのは教室内の生徒とともに勉強し、一人ひとりを受け入れ、形成していくことではなかったかと考えます

  最初は生徒同士が互いを思いやることもなく、関心がない。しかし英語で書いたり、話したりして、自己表現をすることができるようになる。そしてさらに他の人に発表することを通じ他の人がその存在に気付くこと、そして「認め合う」ことを実践されていたのではないかと思います。このように「英語」を通じ人間関係を構築するきっかけを作っていたのではないかと思います。田尻先生の実践は多感な子供に単に英語力の育成だけではなく、良好な人間関係を構築し、人格の形成にも影響を及ぼしているのではないかと考えました。

  田尻先生の実践は現場に対して大きな疑問を投げかけていると思います。それは生徒の学力をつける力量を持った「記録」を作る教師が多いのではないかということです。教師としてはやはり教科の学力を生徒につけることでその力量を認められるところも多いですが、それはあくまで生徒の「記録」を作るのに奔走したにすぎません。しかし、私は田尻先生の実践のように生徒の人生にどう関わっていき、影響を与えていくか、言い換えれば、生徒の「記憶」に残る教師として何ができるか考えていきたいです



  私は今回の講義で田尻実践のDVDを視聴して、英語教師を志す身として感銘に受けたことが2点あります。1点目はA男による”My treasure”のスピーチの内容です。そして2点目は田尻先生がそのスピーチを評価するのではなく、生徒に感想を書かせたことです。

  1点目については予習の段階で自分なりに考察したので、今回の振り返りでは2点目に焦点を当てたいと思います。評価に関して、昨今の英語教育界では客観的指標が必ずと言ってよいほど付いて回るきらいがあると感じています。例えば、私が教育実習に行った際も常に「評価はどうするのか?評価規準をどのように設定するべきか?」ということを考え、それは悩みの種となっていました。要約等のライティング活動を練る時も、スピーキングの活動を練る時も絶えず評価の問題は後を付いてきます。評価をすることが困難であるため、そこまで仲間とともに考えてきた活動の計画をがらりと変えざるを得ないという状況にも陥りました。私はこの経験を通して客観的指標の持つ力の強大さを思い知りました。(評価の大切さやその難しさは第6セメスター開講「英語教育評価論」の講義においても痛感する日々です。)

 上記のような体験があるからこそ、田尻先生が客観的指標を用いて”My treasure”スピーチの評価をしなかったことに対して感銘を受けると同時に驚きを隠せませんでした。教育実習時、また「英語教育評価論」受講時も、私は常に客観的な評価規準を模索することに必死でした。しかし、そこに欠如していたのは生徒の評価に対する目線だったのではないかと思います。仮に今回のスピーチ後に教師側が「いや~、素晴らしいスピーチだったね。しかし、文法上のエラーにより○点減点、発音上のエラーにより○点減点、流暢さの観点から○点減点・・・よって総合点は○点です!」などと評価を行っていたとしたら、生徒は聴衆(オーディエンス)の存在などもう頭の中から排除し、ひたすら文法や発音の正確さの向上のみを目指すでしょう。そうなってしまえば、それは評価がもたらし得る悲劇だと言えます。なぜならそのような状況はアレントの主張した人間の条件である「人間の複数性(plurality)」や多様性を無視していることになるからです。評価が人間の複数性や多様性を奪っていくことは非常に恐ろしいことではないでしょうか

 最後に評価に関してまとめたいと思います。「評価はどうするのか?評価規準をどのように設定するべきか?」と評価だけに捕らわれるのではなく、例えば田尻先生のように感想文を書かせて評価を超えた生徒同士の心の交流を促進させることも重要なのではないかと今回の講義を通して考えました。



  今回の授業で印象に残ったことが、他人の存在によって自分を知ることが出来るということです。

  私は、家族内での自分の立場と、高校の友達の中での立場が正反対です。家庭内では末っ子ということもあり、家族に甘えてばかりいて、そして頼りないから(過保護な面もありますが)何をするにしても助けてあげなければいけないというように思われています。一方、高校の友達の中では、計画を立てたり、何かしらの決定をしたりする時に中心になってすることが多いです。もし私が、ずっと家庭に閉じこもって、友達との交流を持っていなかったら、このように頼られることは少なく、自分一人では何もできないと思っていたかもしれません。逆に家庭内で家族とあまり関わっていなければ、何もかも自分で決めなければならないと思い込んでいたかもしれません。

  そもそも誰とも交流を持っていなければ、このように、自分がどういう存在なのかに気付くことはできなかったのだと思います。複数の集団と関わることで、それぞれの中での自分の立場というものができ、そこから自分がどのような人物であるのかが見えてくるのだと思います。学校は、様々な人と交流することのできる貴重な場です。学級、部活動、委員会活動など場面によって多種多様な人と関わることが出来ます。その中で自分がどのような人なのかということを見つけ出せるのだと思います。

  田尻先生がA男君にしてあげたように、教師として生徒の新たな面を見つけてあげることもできます。また生徒がお互いの長所を引き出せるような関係作りができるように手助けすることが出来ます。田尻先生のコメントにもありましたが、英語はコミュニケーションの仕方を教える教科です。アレントの言う「活動」は一人ではできないことです。学校では一緒に学ぶ人がいます。一緒に「活動」することで自分らしさを見つけられるのではないかと思います。もちろん、全ての生徒がその環境に絶対に馴染めるというわけではありませんが、少しでもその集団の中でよりよい関係が築けるように手助けすることが英語教師には求められるのではないかと考えました。



  田尻先生の授業を見て、今まで自分が「スピーチ」という「活動」を単なる「制作」として捉えてしまっていたことに気付いた。私は高校一年の時に、田尻先生の授業と同じ、「私の宝物」というテーマでクラス内スピーチを行ったことがある。クラスメイトがそれぞれ自分で原稿を用意して、聞く人にとって分かりやすく面白いスピーチをしようと工夫を凝らしていたため、楽しいスピーチ発表会となったが、私は自分が発表した内容も、クラスのほとんどの生徒の発表内容も思い出すことができない。これはきっと、私も、クラスメイトも、先生もこのスピーチ発表会を単なる「制作」ととらえていて、伝えたいという思いよりも、その場をしのぐことを優先してしまっていたからではないか、と考えた。

  また、私自身の教育実習での授業を考えてみても、何の文脈もない、唐突な最終活動が多く、その単元のまとめとして何らかの形で残そう、という「制作」の部分しか考えていなかったように思う。このような活動を生徒が「したい」と思うわけもない。これに対して、田尻先生の授業では、中学生生活の最後に、「My Treasure」というタイトルでスピーチをさせるというもので、きっと生徒にとっては、自然に自分の中に「伝えたい」「語りたい」という思いが上がってくるものだったのだろう。このようなことから考えると、私たちは英語を人と人とをつなぐものではなく、単なる教科の一つとして考えすぎているような気がする。大学入試のための英語の勉強や、TOEIC、英検の英語の勉強は一人でも出来るものであり、やはり、高校の授業の中で試験対策ばかりするのは間違っていると思う。教室の中でしかできないこと、英語教師にしかできないこと、英語を使ってしかできないことを英語の授業ではするべきであると思った



  今回の講義で見た田尻先生の授業実践の中で、A男君がスピーチ発表において良い意味で自分の中の一線を越え、自分自身も知らなかったのかもしれない自分をさらけ出すことができたことに強い印象を受けました。スピーチの場面を見ただけでも、A男君は1番目と2番目に発表した生徒と比べると自己主張があまり強くないのかもしれない、といった印象を受けていました。したがって、田尻先生に促されるまで、自分が影ながら頑張っていた経験を自ら発表しようとは思ってもいなかったでしょうし、そもそもそのことについて自分が他者から評価を受けるに値するとは思っていなかったのではないでしょうか。

  これはA男君に限らず人間だれしもが経験することです。「自分のことは自分が一番知っている」こういった考えも的外れなわけではありません。自分の精神や身体は当然自分が(語弊があるかもしれませんが)所有しているので、かなりの程度で自分がそれらについて把握していることは明らかです。しかし、他人と交流することによって、「○○さんはこんな良いところがあるよね」「○○さんはこんなところに気を付けるといいよ」といった、他者からの評価・指摘が自分を新たに作っていくことも多いはずです。

  A男君は田尻先生に促されるまで、自分自身をさらけ出す前に、自分自身のことを人前で堂々と公開できるほどまでには知らなかったのかもしれません。しかし、スピーチ発表を通じて本来の自分というものをクラスメートにさらけ出すことに成功しました。この発表はA男君と他の生徒、また田尻先生とのつながりを強めたり、新たに作り出したりするきっかけになったことでしょうし、A男君が自分自身を再発見することにつながったのではないでしょうか。もともと予習段階でもわかり易いと感じたのですが、こうした具体的な実践例をもとに考察することで、アーレントの言う「人間の条件」で必要とされる「活動」が何であるか、またその重要性についての理解が深まりました



  田尻先生の授業実践における、三人の生徒のスピーチから、授業の振り返りをしたいと思います。映像を見て印象的だったのは、生徒たちの生き生きとした表情でした。特に、スピーチの最中ではなく、スピーチを始める瞬間の表情です。スピーチの最中の、表情や身振り手振りは、練習すれば自然とそれらしく魅せることはできると思います。そのような指導はよくなされていると思います。しかし、今から「話すぞ」「伝えるぞ」というスピーチが始まる直前の生徒の表情は、教師によって作り上げられたモノではなく、生徒自身からにじみ出た「何か」で、まさにそこから、本当に伝えたいという気持ちを感じ取ることができるのではないかと思いました。スピーチの最中、アイコンタクトをしていたか、身振り手振りを付けていたか、聴衆とインタラクションがあったか…などは、評価の際にはよく見られるところですが、本当の意味でのコミュニケーションへの意欲(生徒が、伝えようとしているか)は、この、生徒からにじみ出る「何か」を感じ取ることによってしか見ることはできないのではないかと思います。

  また、スピーチをする場合に限ったことではありませんが、自分自身を開示するためには、共同体を作り上げることが大切であると感じました。授業実践のスピーチ活動において、A君がクラスメイトの前で、自分も知らなかったような本当の自分をさらけ出すことができたのは、田尻先生による教室の風土づくりがあったからではないかと感じました。耳を傾けてくれる人が目の前にいるからこそ、喋り出したくなるのだと思います。「自分」というのは、「自分」一人だけで完結するものではなく、他者との関わり合いの中で存在するのだということが、少し理解できたように思います







授業関係資料

■スライド
https://app.box.com/shared/oh69hm6b35

■ アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418
■ 「人間らしい生活--英語学習の使用と喜び」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_31.html

■ E・ヤング=ブルエール著、矢原久美子訳 (2008) 『なぜアーレントが重要なのか』みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/e-2008.html
■ 仲正昌樹 (2009) 『今こそアーレントを読み直す』 (講談社現代新書)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/2009.html

■ 人間の条件としての複数性
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_8473.html
■ この世の中にとどまり、複数形で考える
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/blog-post_24.html
■ 「政治」とは何であり、何でないのか
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_11.html
■ アレントによる根源的な「個人心理学」批判
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/blog-post.html
■ 世界を心に閉じこめる近代人
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/06/blog-post_1835.html
■ 欠陥商品としての「考える」こと
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/05/blog-post_16.html

関連して、バトラーに関する次の二つの記事も読んで下さい。
■ ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』月曜社
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/2008.html
■ ジュディス・バトラー著、竹村和子訳(2004)『触発する言葉』岩波書店
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/2004.html
さらに
■ 「現代社会における英語教育の人間形成について―社会哲学的考察」を読んでください。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/pdf.html
ついでに
■ 「当事者が語るということ」もどうぞ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

▲西洋哲学の寵児の政治的判断
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_10.html
▲人間、ハンナ・アレント
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/blog-post_12.html
および
▲アレント哲学の枠組みの中での「芸術」の位置づけ:エクセルファイルの概念図
https://app.box.com/shared/lseur17j1e
映画『ハンナ・アーレント』予告編

http://www.cetera.co.jp/h_arendt/

0 件のコメント: