「ババア!」という発話を「憎悪発話」(hate speech)の一例と考えて、ここではジュディス・バトラー(Judith Butler)の論考を導入します。
Locutionary act, illocutionary act, perlocutionary actの区別をしたオースティンにとって、perlocutionary actはやっかいな存在のようでした(How to do things with wordsを再読したいと思っているのですが、なかなか機会を見つけられません)。Illocutionary actが聞き手に自分が意味した言外の意味をほぼ慣習で伝えることができるのに、聞き手に一定の行動を引き起こそうとするperlocutionary actにおいては、聞き手がしばしば話し手が期待したようには行動しないからです。このギャップは、言語研究者としてはやっかいなものに思えるかもしれません。
しかしこのギャップ(隔たり)こそは、前出の「ババア」を無効化するどこか、罵倒しようとした者を逆に懐柔するベテラン女性の発話を可能にしていると考えられます。
たとえば「クイア(変態)」という語の価値が変わったことは、発話がべつの形で発話者に「返され」当初の目的とは正反対の意味となって引用され、逆の効果を演じる可能性をもつことを示している。もっと一般的に言えば、そのような語彙のなかに潜む可変力こそ、個々の一連の発話行為ではなっく、起源も目的も固定されず、固定されえない連綿とつづく意味づけなおしの儀式である言説がおこなう行為遂行性を特徴づけている。この意味で「行為」は瞬時の出来事ではなく、時間の地平をもつ繋がりであり、発話の瞬間を超えた反復の凝縮である。発話行為によってもとの文脈を意味づけなおすことが可能となるには、発言時の文脈や意図と、それが生みだす効果とのあいだに、隔たりがなければならない。たとえば脅しが当初意図したのと違う未来をもつには--つまり、脅しがべつの方法で語り手自身に返され、その過程で脅しが無害になるには--発話行為の意味や効果が、当初意図されていた意味や効果を超えたものになる必要があり、現在の文脈が発話時の文脈と同一のものでなくなることが(たとえ起源はあるにしても)必要なのである。(23-24ページ)
もう少し抽象的な言い方でまとめればこうなります。
発話行為の力を、その中傷の力に対抗するように再稼働させる政治的可能性があるとすれば、それは、発話の力をそれ以前の文脈から別の方向へと流用することである。その場合、発話がおこなう中傷に対抗しようとする言語は、中傷を再演せずに、中傷を反復しなければならない。(63ページ)
こうなりますと、言語の多義的解釈を積極的に評価すべきということになるのかもしれません。この点でバトラーはハーバマスを批判します。
ハーバマスの主張では、コンセンサスを得るには、語は単声的意味に対応しなければならない。いわく、「理解のプロセスにおける生産性が問題ないものでありつづけるには、それに参与するすべての者が、同一の発言に同一の意味を付与する相互理解の参照点を、しっかりまもっていなければならない」[補注:これはハーバマス(1997)『近代の哲学的ディスクルス』岩波書店に見られる発言だそうです)]。だがわたしたちは--「わたしたち」が誰であろうとも--そのように一度で意味を確定することができる集団なのか。政治の理論化において逆転のない状況を作っている意味論的領域に、はたして永続的な多様性というものはないのか。解釈をめぐる争いを超越して、同一の発言に同一の意味を「付与する」位置にいるのは誰なのか。またなぜそのような権威がもたらす脅威の方が、拘束を受けない多義的解釈がもたらす脅威ほど、深刻でないと考えられるのか。(136ページ)
こうしてみますと、「憎悪発話」(hate speech)でさえ、一概に検閲して排除するべきなのかというラディカルな問いが生まれてきます。
ある種の発話形態を排除することによって、語りえるものを生産するこの境界は、まさに普遍を仮定するときに起こる検閲を稼働させる。普遍を現存のもの、所与のものとみなせば、そのような普遍が仮定されるさいの、排除という行為を慣例化することになりはしないか。このようなとき、またこのようにすでに確立された普遍の慣習に頼る戦略によって、わたしたちはすでに確立された慣習の境界の内側で自足して、普遍化の過程を無意識に差し止め、それがおこなう排除を自然化してしまい、それをラディカルに変革する可能性をまえもって阻止することになりはしないか。(141ページ)
別にバトラーにしても「普遍」が悪いというのではないでしょう。「普遍」は、永遠に到達できない理念として私たちに省察をもたらすものであり、現時点あるいは過去のある時点で、実際に到達されたものではなく、未来のある時点で到達できるものでもないと考えるべきでしょう。柄谷行人の言い方を借りるなら(注)、「普遍」は「統整的理念」であり「構成的理念」ではないと言えましょうか。
ことばの意味を私たちは語り尽くすことができると考えることは、実は危険なことではないかとバトラーは警告します。
表現し尽くすことができると主張することこそ、わたしたちがすでにそうなっているものとは別物になる可能性を予め排除する(フォアクローズ)ことであり、つまりは、言語の内部で私たちが生きることができる未来、つまりシニファンが民主主義の再分節化に有用な論争の現場でありつづけるような未来を、予め排除することなのである。(195ページ)
かつてブルデューは、オースティンの理論に社会制度の権力についての考察が少ないことを批判したそうですが、しかしそのブルデューも、社会制度をあまりに固定的に考えていたとしたら批判されるべきなのかもしれません。
ブルデューは社会制度を静的なものとみなしたので、社会変容の可能性を取りしきる反復の論理を把握できなかった。社会制度を間違って、曲げて引き合いに出すことも反復とみなせば、いかに社会制度の形態が変化や変更を経験しうるかを知ることができるし、また先行の正統性をもたない形で引き合いに出すことが、いかに既存の正統的形態に挑戦し、新たな形態の可能性へと切り拓く効果をもつかを知ることができる。ローザ・パークスがバスの前方の席に座ったとき、彼女は南部の人種分離の慣習によって保障されていた先行的権利をもっていなかった。だが事前には権威づけられていない権利を主張することによって、彼女は自分の行為にある種の権威を付与し、既存の正統的慣例を転覆させる反乱のプロセスを開始したのである。(228ページ)
言語のperformativity(行為遂行性)を考えさせられる面白い本でした。
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(注)柄谷行人「埴谷雄高とカント」『群像』1997年四月号で、柄谷は「統整的理念」であり、「構成的理念」を次のように使い分けています。
埴谷雄高がカントに出会ったのは、転向においてである。転向とは共産主義という理念を放棄することだ。しかし、その意味では、埴谷は転向したと同時に、転向しなかった。つまり、彼は共産主義を構成的理念として放棄したが、統整的理念として保持したのである。カントがいう「目的の国」と同様に、それは将来の「無限遠点」にあり、実現されることはない。だが、この理念(超越論的仮象)は、たえず現在あるものを批判しそこに導く「統整的」な機能を果たす。埴谷がいう「永久革命者」――未来の無限遠点から現在を見る――の視点はそのようなものだ。この意味で、彼は一貫して共産主義者だった。そして、それ以外に、共産主義者でありうるかどうかは疑わしい。
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/gunzo9704.html
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