この本で、橋爪大三郎氏は、この概念がフーコーに由来することを強調します。
言説(discourse, discours)とはフーコー独自の概念である。これにもとづく言説分析は、フーコーの一連の業績(『臨床医学の誕生』『言葉と物』『狂気の歴史』『知の考古学』『監獄の誕生』)を通じて練り上げられていった。
言説は、言語の形態の一種であり、中間的なまとまりをもった秩序である。言語のもっとも小さな単位は、言表(e'nonce')という。これは、社会学の最小の分析単位である行為にほぼ相当するもので、これ以上小さな単位に分解できない、ひとかたまりの発話や書字、行為(の記録)などをいう。これに対して、そうした言表が残らず集まった全体、ある時代・ある地域(社会)を満たしている言語的な活動の全体を、集蔵庫(archives)という。この両極の中間にある、何らかの秩序をもった言表の集合が、言説である。(「知識社会学と言説分析」 191-192ページ)
かくしてフーコー的な「言説分析」が日本の社会学においても隆盛するにいたりましたが、遠藤知巳氏は90年代以降、「言説」という術語によって社会学関係者が第一に想起するのはむしろ「構築主義」(constructivism)であると指摘します(「言説分析とその困難」 34ページ)。
しかし佐藤俊樹氏が「私の考える言説分析」として挙げるのは、フーコーにとどまらず、J.デリダ、F.A.キットラー、G.スピヴァク、J.バトラー、W.ベンヤミン、K.バークです(そして佐藤氏はそのような言説分析は「もはや少数派」であり、言説分析のフォーマライゼーション(制度化、あるいは健全化)によって「滅びる」と述べています)(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 5ページ)。
いずれにせよ、この「言説分析」に関する社会学者の論文を集めたのが本書です。以下、私にとって印象的だった箇所を引用し、それに駄文を加えます。
前出の佐藤俊樹氏が主張するのは、言説分析が、従来の「テクスト」概念のように「外部」を想定しないということです。
意外に聞こえるかもしれないが、本来、言説分析はテクストとかテクスト空間という概念とはあいいれない。いいかえれば、テクストとかテクスト空間という概念は、よほど慎重にやらないと、確定単位境界や特権的な観察者といった外部をすべりこませてしまう。(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 13ページ)
つまり、言説分析も一つの言説である以上、特権的な高み(「外部」)に立つことができないのではないかというのが佐藤氏の見立てかと思います。
言説分析では一般に、積極的な根拠づけが成立しがたい。正しさの保障、すなわち認証は認証されるものの外部からなされる操作だからだ。それゆえ、言説分析では正しさを積極的に保証するという「真理」化が成り立たない。そして言説分析も言説である以上、それが何であるかも関係的にしか成り立たない。語った言葉がいかなる意味で発効するかを、語る者があらかじめ指定できないのだ。言説分析という語りをする者ももちろん例外ではない。(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 15-16ページ)
かくして言説分析の「遂行性」が強調されます。
[他者の]力に開かれ、力を開いてしまう苦さを受け取りながら、それでも今語らなければならない何かをもってしまうこと。言説分析とはそういう経験なのだ。
そこに言説分析固有の「遂行性 performativity」がある。言説分析は言葉を「遂行的」なものとしてあつかうだけでなく、それを通じて自らを「遂行的」でしかありえなくする。(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 21ページ)
日本の「言説分析」への構築主義の影響を指摘する前出の遠藤氏も、言説分析を行なう者が、特権的に「客観的」な分析を行えるわけではないことを述べます。
社会の安易な実体視をあれほど強く批判する構築主義だが、やっていることは要するに、「社会は客観的に取り出すことはできない、だが社会に対する言説は客観的に取り出すことができる」という、「客観性」の一段ずらしであるということだ。「厳格派」にせよ「コンテクスト派」にせよ、ずらされた「客観性」の調達先がちがうだけで、この点については本質的な差異はない。(「言説分析とその困難」 37ページ)
遠藤氏は構築主義の影響が強い現状の「言説分析」においては、フーコーのインパクトを思い出すことが重要であると主張します。
現在の社会学における言説概念の導入は、ミシェル・フーコーの歴史記述(考古学/系譜学)および知と権力の共犯をめぐるディスクール分析の手法がもたらした複数的な衝撃に負うところがきわめて大きい。フーコー理論やその言説概念が大衆的に平板化することで、現在の諸理論における「言説」の繁茂がもたらされたのである。(「言説分析とその困難」 40ページ)
フーコーのインパクトも、上述の「遂行性」と読み替えられるものだったのかもしれません。
高度な反省的思考を駆動させながらも、あえて理論の平面上で展開せずに記述のなかに込めることで、記述自身を出来事化するといえばよいだろうか。ある意味で、フーコーの思考がもたらした最大の衝撃は、こうした記述の出来事性を出現させたことにある--それ自体を理論化しても意味ないが、それでも記述の臨界点に「ある」というほかのない何かとして。(「言説分析とその困難」 44ページ)
遠藤氏は、言説分析の核心を、これまでの学的思考が素朴に前提していた「自らが全体を把握できる」という信憑を、多重的に解体することにあると述べます。
言説分析の生命は、通常の社会学的思考が素朴に前提している全域性への超越的視線を、多重的なかたちで解体することにこそある。全体性/全域性をどこかで信憑してしまったとたんに、それは本質的な意味を失う(いうまでもないが、「個別的」な言説の閉域に閉じこもればよいということではない(→3節を参照))。こうした多重的解体は、分析対象の事実的複数性によって駆動しながら、同時にそれを呑み込むよにして、記述自身の生々しい出来事化に果てしなく近づいていこうとする。(「言説分析とその困難」 48ページ)
自らが扱う資料に何らかの「全体性」を読み込まないこと、かといって、資料を丹念に読む努力は怠らないこと、このあたりの緊張的なバランスが重要と言えましょうか。
われわれにできるのは、たまたま残された資料群の秩序を想定し、そこへの漸近を考えてしまうと、「資料体の(不可視の)秩序」自体が全体性の代補として機能してしまう。描き出そうとする形象の定義あるいは外延を予め密輸入することなしに、カヴァーするべき資料の「全体」を語ることはできないはずだからだ。資料を読まねば言説分析にならないが、全体性を信じて資料経験を積み上げていくような想像力のありかたは、やはり言説分析の衝撃力を弱体化する。(「言説分析とその困難」 50ページ)
こうしますと言説分析は、多面的に展開する運動であるとも言えそうです。
言説分析の運動は、必然的に、閉じることのない多角形、読解/記述が進むにつれて面の数が増えていく多面体として出現することになる。ジャンルの本源的複数性は、あるべき閉じた分類一覧表上で見いだされるものとしてではなく、むしろ積極的に発散していく何かとして把握されている。(「言説分析とその困難」 52ページ)
さて、ここから蛇足を加えます。私のルーマン理解に関しては、今回は特に大黒岳彦(2006)『<メディア>の哲学』(NTT出版)に依拠していますが、いつものように私は自らの誤解を怖れます。
「私たちはコミュニケーションの外部に出ることはできない。コミュニケーションに外部はない」というのはルーマンの論とも通底するかと思います。ルーマンの論では、社会を作り上げているのはコミュニケーションですが、そのコミュニケーションは近現代では様々な機能ごとに特殊化し、それぞれが他の特殊化したコミュニケーションを排除しつつ閉域を形成しています。これにより生じているのが機能的分化です。これはセグメント的な分化や中心/周縁的分化のような「水平的」分化でも、成層的分化のような「垂直的」分化でもない、いわば「次元的」分化とでも呼ぶべき新たな社会的分化です。
言説分析という言説も、そのように特殊化したコミュニケーションと考えることができます。言説分析というコミュニケーションは、もちろん他のコミュニケーションと独立しているわけではありません(それは他のコミュニケーションについてのコミュニケーションです)。しかし、言説分析とて、コミュニケーションの総体の中心に立っているわけではありません。だからといって周縁に立っているわけでもありません(「周縁」の設定は「中心」を含意します)。かといって、言説分析というコミュニケーションは、他のコミュニケーションの上層に立つこともなく、他の言説というコミュニケーションを「多文脈性」(Polykontextualität)の中で観察しているわけです。
「観察」(Beobachtung)というのもルーマンの用語です。ある特殊なコミュニケーション(言説)を産出(というより自己再生産)する「システム」は、ある「区別」(Unterscheidung, distinction)をもって対象を記述します。その「区別」によってある特定の事柄を「指定」(Bezeichnen, indication)するのが第一次観察です。
しかしその第一次観察を行なうもの(=一般的な言い方からすれば「者」、ルーマン的な言い方でいえば「システム」)にとっては、自分が使っている区別自体を観察することは困難です。通常、自分が依拠している区別自体は、自覚しがたい前提であり「盲点」となりがちです。
盲点になっている区別を吟味するためには、別の区別による第二次観察が必要となります。言説分析も、この第二次観察の一種と考えることができます。
しかしこの第二次観察とて、最終の絶対的な観察ではありません。この第二次観察も、第三次観察の対象となります。社会はこのようなコミュニケーションの連続の総体です。しかし誰もその総体を鳥瞰する特権的な高み(あるいは外部)に立つことはできません。
観察は対象に応じて、次の三つに分類されます。(1)機能:機能分化システムが社会全体を観察対象とするとき、(2)効能:機能分化システムが他の機能分化システムを観察対象とするとき、(3)反省:機能分化システムが自分自身を観察対象とするとき、です。(1)は例えば学問が、そのディシプリンに従って言説を産み出すことです。言説分析は、その言説を、その言説を産み出すシステムとは異なる機能分化システムとして、観察をすること(つまり(2)の効能としての観察)と言えましょうか。しかしその言説分析という言説とて、最終的な「真実」の陳述(constative)ではなく、それ自体が行為遂行(performative)に過ぎません。言説分析とて、他のシステムによる観察や、自分自身による自分自身の観察((3)の「反省」としての観察)を招くべきでしょう。
と、おそらくは的外れの駄文を加えましたが、この本で「言説分析」とは何かを考えることができました。英語教育研究でももしこれから言説分析が導入されてゆくのなら、こういった原理的考察はきちんとやっておく必要があるかもしれません。私も勉強を続けたいと思います。
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2 件のコメント:
こんにちは。
つい先日出た佐藤さんの新刊(『意味とシステム―ルーマンをめぐる理論社会学的探究 』(勁草書房))は、まさにルーマンを扱ってますね、既刊論文を集めたもののようですけれど。(ご存知でしたらすみません)
私はルーマンは全然知りませんので、読んでみましたがちんぷんかんぷんでした。ただ、佐藤さんはものすごく頭がいい(であろう)人だということだけわかりました!
terracao さん,
コメントありがとうございます。『意味とシステム』はすぐに入手したものの、まだ読んでいません。同じ先生による著作だったのですね。近いうちに読んでみます。またいろいろ情報を教えてください。
それでは!
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